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岡田利規『わたしの場所の複数』

友人のオモさんは画期的な本の勧め方を編み出した。
「この短編大好きなんだけど、どうして好きなのかわからないんだよね」
「あらすじはただ主婦が家でゴロゴロしてるだけ。それ以上の事はなんにも起きない。文章も変な感じだし、よくわかんないよね」
「何を書きたいのか、何が面白いのか、作者はどうしてこんなものを書いたのか、なんで自分が好きなのか、要するになんにもわからない」
へー、そうなんだ。
「だからさ、読んでみてよ」
僕は”だから”を接続詞だと思っていたが「読んでみてよ」とその前が、全然くっ付かない。
とはいえ、実際読んでみると結構面白かった。ただしオモさんの言った通り、主婦が家でゴロゴロしているだけでほんとに何も起こらない。何が面白かったのかと聞かれても、よく分からない。…と、言いたいところだが、そのような勧め方をされると、どうにか言語化しなくてはと一生懸命に読み解こうとするのが僕の性分らしく、こうやって感想を書いている次第です。はい。

さて、ここからはネタバレ全開の書評なので、まだ読んでない人はここでストップ!と言いたいところだが、ただ主婦がゴロゴロしているだけの話なので、ネタバレもクソもありません。でもどうせ読むんだったら、ここでストップした方が良いでしょう?もし読むのなら、この短編、岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間のおわり」と言う本に収録されています。ただし絶版からしばらく経っているようで、今ではほとんど手に入らないみたいです。(…オモさん、結構頑張って探したんだよ?…聞いてる?)

さて、あらすじはさっきから言っている通り「主婦が休みに家でゴロゴロする」だけなのだが、もうちょっと詳しく説明すると、主婦が仕事をズル休みして、ベットの上で旦那との記憶を思い出したり、今旦那が何をしているのかを妄想する、というお話になる。
この夫婦、いわゆる怠慢期というやつで、しょうもない事でよく喧嘩している。その記憶が蘇ったりするのだが、大抵は主人公が100%悪い。例えば主人公が住んでる家に向かって「この壁は古くて汚くて、私が住むには値しない」とか、おおむねそのような文句を急に言い出し(しかもこの家は最近引っ越したもの)、旦那に向かって罵詈雑言を浴びせかける。それを聞いた人格者の旦那は「じゃあ引っ越そうか?」と提案すると、それはそれで「あんたは何にも分かってない!そういう事じゃないの!」とギャオーン。…もう見てられないです。やめて。
この短編、何度も出てくるのが身体の描写だ。主人公は話が進むごとに奇妙な体勢を維持したり、関節を逆の方向に反らせてみたり、ちょっと危うい動作をする。ここまで話すと主人公がどういう状態なのか、少しは見えてこないだろうか?
そう、この主人公はヒステリーで、この短編はヒステリーについての話なのだ。こういう言い方をするとヒステリーに悩んでいる方々から叱られそうだが、それはちょっと待っていただきたい。この話はヒステリーを非難するのではなく、むしろその切実さと逃れようのなさを描いているのだから。

この主人公を悩ませているのは、ずばり夫との同一化だ。同一化という単語が精神分析の用語として合っているのかは分からないが、とにかく彼女は夫を自己の一部に取り込んでしまい、夫と自分の区別がつかなくなっている状態だと言える。自分という枠組みの中に、旦那が入り込んでしまっているのだ。序盤からその匂わせはあった。冒頭で主人公が聞いている音楽は、元々夫が借りてきたCDで、いつのまにか夫よりも自分の方が好きになった曲だ。夫の好きが自分に伝染している。メールを見るシーンも面白い。夫宛てのメールが、何故か自分の方にも送られてきたらしいのだが、ここでの表現「夫のところではなくて、あるいは夫のところだけではなくて、わたしになのかわたしにもなのか、送られてきていた」という、ただメールが写しで送られてきただけなのに、自分と夫が混合して訳がわからなくなっている。

夫に対する怒りは、そのまま自分に対する怒りの感情でもある。自分と夫が区別できていないからだ。だから夫に向かって怒るのは、そもそも矛先が間違っている。
主人公がやっているクレーム処理の仕事ですでのこの伏線は貼られてあった。主人公は電話の向こうでぎゃあぎゃあやってるクレーマーに向かって「あなたが今文句を言っている相手は、あなたが文句を言いたい本当の相手ではないと言ってあげたい。あなたがどんなに頑張っても、あなたが文句を言いたいお目当ての相手に文句を言うことは絶対にできない」と心の中でつぶやく。この台詞はそのまま自分にブーメランになって返ってくるとも知らずに。

夫婦とは特殊な関係だ。今どきは夫婦に上下関係はなく、自分にとってのメリットとデメリットはほとんど相手方にも共有される。旦那が昇給すると奥さんも嬉しい、みたいに。夫婦とはそもそも同化が起こりやすい特殊な関係だ。同化が起こると、相手は他者として存在できなくなる。他者として存在できないということは、相手を自分とは違った人格を持つ者としてリスペクトできなくなってしまうということ。ちょうど主人公が意味不明な怒りを夫にぶつけたみたいに。
こんな関係、友人や仕事仲間にはありえない。上下がない、と言う意味では親子とも違う。やっぱり、少なくとも一般的には夫婦以外には考えにくいんじゃないかな。

個人的な考えだが、同一化はヒステリーを引き起こしやすい(たぶん合っていると思うけど)。なぜならヒステリーの根幹にあるのは、自分に対する“問い”だからだ。「自分は男なのか女なのか?」とか「自分は存在するのか?」といったみたいに、自分自身の存在に疑問を持つ事がヒステリーの始まりだ。だから自分の存在を確認するために、自傷行為に走っちゃう人もいるわけで。この主人公がする奇妙で危うい体勢も、おそらくその類いだと思われる。その原因は言うまでもなく、旦那と自分の区別がつかなくなって、自分がいったい何者であるのか?または自分は独立して存在しているのか?その問いによるストレスこそ、彼女のヒステリーの原因だった。夫婦喧嘩を思い出した後、主人公はこんな事を言う。
「その時(夫婦喧嘩)のことを思い出すと、今のわたしの体の全体の中で、首の後ろの辺りだけが凝り固まっているような感じに、わたしはなってくる。あるいは、そこは以前から凝り固まっていて、その事に今更のように気付いたようになってくる」
自分は個人として存在しているのか?という問いが、首という危険な匂いがする場所の痛みという症状になって現れる。痛みで自分を実感しようとしているのだ。そしてそれは、以前からあったような気がするという。

こう言うと同一化はよろしくないとか思われそうだが、決してそういうわけでもない。例えば他人の喜びと同化して、自分の事のように喜ぶのは良い事だ。犬や猫を見て顔が思わずほころぶのも同化。日本代表を応援したくなるのも、日本と自分を同化しているからこその感情だと言える。こういった良い面はたくさんある。しかし、やっぱり行き過ぎると良くないと個人的には思う。他者は他者としてリスペクトは大切だ。
同化が行き過ぎると大枠での喜怒哀楽は共有できても、些細なディテールにストレスを感じるものだ。むしろディテールが大問題になる。自分だと思っていた相手が、自分ではない行動をする。本当は他者であるという尻尾を見た時、同化の幻想を守るために必要以上に攻撃してしまう。

僕は結婚した事ないけれど、夫婦が同化しないようにするのはけっこう難しい気がする。サルトル夫婦みたいに互いに浮気オーケーの約束をして、お互いちゃんと浮気をするみたいな例外は別だが、ほとんど一般的な結婚生活においては、なかなか避けようがなくも思える。むしろ世間体的には「良い事も悪い事も一緒に乗り越えましょう」とか「死ぬまで互いに支え合います」とか、むしろ同化を推奨しているように見えなくもない。まあこれは絵空事だと、みんな分かって言っていると思うけれど。

この短編、終盤は旦那の妄想へと移っていく。相変わらずベットでゴロゴロしながら、今旦那が喫茶店でうたた寝している姿を妄想するのだが、その描写が奇妙だ。旦那が本当に喫茶店にいるのかすら分からないのに、まるであたかも自分がその場に居合わせて、実際に見ているかのような文章。その描写も旦那の服装のみだれや喫茶店の様子など、とにかく細かい。とても妄想とは思えない。ただしここで重要なのは、いくら描写が細かくても、旦那が何を考えているのかは一切書かれていないという事。これについては後ほど言及しよう。
どうしてこれほど細かく妄想できるのか?最後に小さなネタバラシがある。妄想の喫茶店にいる女性の定員が、実は若い頃の自分だったという意味不明な種明かしだ。…え?どういうこと?…ちょっと整理しよう。今現在の自分はベットにいるが、同時に若い頃の自分は今旦那のいる喫茶店にいるので、細かく妄想する事ができた。うーん、やっぱり分かりませんねえ。
まあ、細かいロジックはこの際関係ない。大事なのは若い頃の自分の目線が、旦那への他者性を取り戻そうとしている事だ。
おさらいになるが、現在、主人公は旦那と同化してしまい、自分を独立した存在として認知できなくなっている。結果、旦那を他者として見れなくなり、自分へのストレスを旦那に向けられている状態だ。しかし、主人公の無意識ではかつてのように他者としての夫を見たいという願望が、まだ死んでいなかったのではないだろうか。ここで思い出してほしいのは、最後の妄想では旦那が何を考えているのかは描写されなかったという事。言うまでもなく、最後の妄想は旦那を他者として見る目線であるから、相手の考えなんて分からなくて当然なのだ。
夫を他者として見ていた時代は、出会った頃の自分だった。旦那を人格のある他者として好きだった時代。もう無くしてしまった憧れが、過去の自分へ投影されていたのではないだろうか。今の自分ではないのは、彼女にはもうできないから。こう考えると、なぜか確信を持った妄想の細かな描写が、逆に切なくなる。でもそういう気持ちが無意識にでもあるのなら、この夫婦は何とかやっていけそうな気がするなあ。いや、何とかやって欲しい。だってこのまま破綻してしまうのはいくら何でも…。応援してます。

最後にもうひとつ言及したい。先ほど僕は、同化は細かいディテールが問題になると言ったが、これは相手が見せる他者性からくるストレスだ。つまり相手が他者であってほしくない、同化したままでいたい、という欲望からきている。しかし、その逆の欲望もある。この主人公のように、同化から解放されたいという逆方向の欲望。自分は自分で、夫は他者。そういえば、主人公は寝ている旦那の匂いを嗅ぐという癖があった。旦那の匂いは気持ち悪いのに、ついそれを確かめたくて嗅いでしまう。何を確かめたかったのか、もうお分かりですね?
旦那の日記(ブログ)をネットで探すというシーンも同じ。プライベートの旦那をみる事で、他者としての夫を復活させたいと無意識に願っている。残念ながら日記は見つからなかったけれど。
これを矛盾していると言うのは簡単だ。しかし僕はこういう一筋縄ではいかないところが面白いと思うし、むしろこっちの方がリアルなんじゃないかな。

感想は以上になります。もし気になったら、ぜひ手に取って読んでみてください(たぶん手に入らないけど)。

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