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綾辻行人『殺人鬼』と暴力作品の必要性 ※ネタバレなし

暴力大好き♡の紳士淑女の皆さまに是非おすすめしたいのが、綾辻行人の殺人鬼だ!ただ殺戮のためだけに生まれたような暴力の化身、殺人鬼によって次々と仲間が襲われていくスプラッタホラー小説。目を覆いたくなるような残酷描写の数々!どうしてこんな酷い事を思いつくんだ?と思わずツッコミを入れたくなる、最悪な殺人アイデアに度肝を抜かれ、ついついページをめくる手が止まらなくなる!めちゃくちゃ面白いです。
作者の綾辻行人は「十角館の殺人」などで知られる、ミステリー界のレジェンド。新本格と言われるムーブメントを作り出した硬派なミステリー作家だ。それがどうしてこんなものを書いたのか?当初はファンの間でも賛否両論だったらしい。ミステリー弱者の僕からしたら、こっちの方が100倍面白いんだけど。
まあとにかく、とんでもなく残酷です。棒で串刺しにするなんて序の口、犠牲者に自分の腸を食わせたり、四股を切断したり。女性や子供にも容赦がない。いちばん強烈だったのは、口に腕を突っ込んで、そのまま顎を外して食道までぐりぐりと…。はい、もう最悪ですね。苦手な人は絶対に読まない方がいいです。

こういった暴力コンテンツ、僕は必要だと思う。一時期ほどではなくなったが、いまだに暴力を楽しむなんてけしからんと言う人たちをよく見かける。そんな事はない。むしろこういったコンテンツが無くなった社会の方が怖い。「華氏451度」や「すばらしい新世界」を読んだSFファンなら分かってくれるでしょう?

どこかのユーチューバーの人が、良い絵本は子供がやってはいけない事をやると言っていた。例えば壁一面に落書きをするとか、入っちゃダメと言われている部屋に入るとか、学校をズル休みして友達同士で旅に出るとか。こういった児童文学に子供たちは夢中になる。その影響で子供が学校をズル休みするようになるか?と言えばそんな事はない。ロビンソンクルーソーに憧れる子供はたくさんいるけど、実際に無人島生活をした子供なんていないでしょう?せいぜい森の片隅に秘密基地を作るくらいだ。
やっちゃいけない事を読んで楽しめるのは、逆に言えば、やっちゃいけないと分かっているからこそ楽しめるのだ。だからそういう絵本を楽しめる子供は、それが駄目な事だとちゃんと知っている。むしろ大人の言う事を聞かない子の方こそ、こういったやっちゃいけない絵本を楽しめない。
じゃあ大人は?そう、その要望に応えるのが暴力やホラーコンテンツである。言わずもがな、現実世界に暴力を持ち込むなんて絶対ダメだ。そんなの超怖い。しかし怖くてダメだと知っているからこそ、こういったコンテンツを楽しめるのではないだろうか?ちなみに殺人鬼を書いた綾辻行人は、自分は死ぬほど暴力が嫌いだと言っている。ギャング映画の傑作グッドフェローズを撮ったマーティンスコセッシだって、自分は誰よりも暴力が怖いって言っているしね。

え?ここまで言っても、まだ暴力作品はダメだって?なかなか頑固な人もいるようだ。たしかに、ここまでの説明だけだと暴力コンテンツが絶対に必要ってわけでもなさそう。そんな人に向けて、最後の切り札を紹介しよう。そのカードはジョルジュ・バタイユ。哲学史に大きな影響を与えた名著「エロティシズム」を書いた哲学者だ。これを聞いてもまだ暴力作品を否定できるかな?

バタイユの説明に入る前に、少しだけ構造主義の話をしようと思う。レヴィ=ストロースなどで有名は構造主義という派閥は、簡単に言ってしまえば「世界中の様々な人間社会から共通するパターンを見つけだし、そのパターンから人間の本質に迫ろう」というアプローチをする人たちの事だ。例えば近親相姦の禁止(僕はこれしか知らないから)。近親相姦禁止の風習は、繋がりのないはずの様々な部族の間で存在する。なぜ近親相姦が禁止なのか、これには様々な考察がなされてあるけど、注目すべきはそこじゃない。自然界には近親相姦を禁止するルールがないって事だ。ほとんどの動物は近親相姦を普通にする。つまり近親相姦は本能的にはオーケーであるはずなのに、なぜか人間だけが禁止なのだ。構造主義以前は、人間界の秩序は本能に基づくものだと思われていた。そう考えるのが自然だろう。しかし現実はそうではなかった。動物は近親相姦をするし、食べ物がなくなれば自分の子供を平気で食べる。ここで分かってきたのは、自然界の秩序はイコール人間界の秩序ではないという事。
どうして人間界の秩序は特殊なのか?それは人間だけが過剰な生き物であるからだ。これをエクセと言う(覚えなくて良いけど、覚えておくと通ぶれるぞ)。動物は腹が満たされればそれ以上食べないが、人間は食べすぎる。動物は縄張り同士の争いで決着がつくとそこで争いを止めるが、人間は最後の一人まで排除しようとする。人間の本能はとことん過剰なのだ。金持ちだって、もう十分なのにまだ金を欲しがるでしょう?人間は過剰だ。だから秩序を守るために自ら禁止を設け、その結果自然界とは違う社会を作っていった。この発見こそ、構造主義の最大の功績だと言われている。
さて、ここからバタイユ先生の登場。バタイユは言うには、人間は自らの過剰さを恐れ、過剰さを制限するためにあらゆる禁止を作った。だが禁止を作ったところで、そもそもの人間の過剰さは変わらない。むしろ禁止されたせいで、過剰さを持て余していると考えたのだ。では持て余した過剰さをどう処理するのか?それが祝祭(儀式)や戦争だ。
祝祭では生贄を殺し、民衆は狂乱の中に身を投じる。そこに秩序はなく、禁止によって制限されていたカオスが一時的に許されるのだ。(関係ないけれど、儀式は何かを起こすために行うものだと思われているが、実は違う。儀式そのものに意味がある)。戦争のロジックはもっと簡単。殺人は普段禁止されてあるけど、戦争になると許されるから。ローマ帝国なんかを見ると分かりやすい。国の統治システムの中に戦争が組み込まれていて、戦争がなかったら国が回っていかないような仕組みになっている。実際、ローマが滅んだのは国土を広げすぎて戦争ができなくなったから、という説もある。
このようにバタイユは禁止が一時的に解除される事があると指摘した。いわゆるガス抜きというやつ。この大前提に「人間は過剰(エクセ)である」という、構造主義の発見がある。バタイユは許された禁止の解除を、人間が過剰である限り必要だと考えていて、解除は古代に限らず存在しているという。例えばキリスト教。キリスト教こそ禁止の宗教だが、懺悔という禁止を許すシステムがある。キリスト教において罪はもちろん良くない事だが、懺悔によってむしろ価値が上がるという仕組みは僕から見れば違和感だ。これも許された禁止の解除にあたるだろう(ただしキリスト教の禁止解除のロジックはかなり歪なので、ここではそこまで説明しない)。
ざっと駆け足で説明したのでここでおさらい。まず人間の秩序は自然界の秩序とは違う。何故なら人間は過剰(エクセ)であるから。人間は自らの過剰さを恐れて様々な禁止を作った。その結果生まれたのが人間界の特殊な秩序だ。しかしいくら禁止で秩序を保とうと思っても、人間の過剰さが無くなったわけではない。そこで必要なのがガス抜きで、一時的に禁止を解除する行為によって、人間は持て余した過剰さを解消している。
とは言っても、現代で古代の儀式や戦争をやるのはもちろん駄目だ。バタイユは別に戦争を推奨している訳ではないからね。祝祭も現実的じゃない。生贄なんてもっての他。じゃあ現代における許された禁止の解除はなにか?そうです!暴力小説ですね!(ちなみにバタイユは芸術だと言っています…)
現実世界で禁止されてある殺人、暴力、エロ行為。これら禁止を作品はある場所において限り、許してくれる。それはかつて祝祭や戦争が担っていた、一時的な禁止の解除なのだ。しかも誰にも迷惑かけないんだから、かつてのそれと比べて健全ではないだろうか?
これで暴力コンテンツがいかに大切であるのか、少しは伝わったら嬉しい。映画や小説には様々なジャンルがあるが、ホラーやバイオレンスがその他と少し違うのは、それを描く事自体に価値があるという事だ。もしこの世界からホラー&バイオレンス作品がなくなったら、それこそ危険を感じるべきだと思う。人間は過剰である、それを無視して生きていけるほど人間は賢くない。
それらを踏まえ、殺人鬼のあるシーンでは思わず拍手喝采したくなった。続編である殺人鬼Ⅱのラスト。殺人鬼との一対一で主人公のとった作戦が…、ネタバレなるので詳しくは言わないが、読んでないなら是非続編も読んでみてください。まさに“人間は本来過剰である”を体現したかのような最終決戦!アガる事間違いなし!
最後にバタイユ先生より、暴力作品を楽しむコツをひとつ。バタイユは禁止の解除に必要な条件として、“許されている”というのがいかに大切であるのかを説いている。持て余した過剰さを解放させるには、ルールとして解除が認められてなければならない。ルールで守られる事によって、禁止を犯す後ろめたさがなくなるからだ。でないと充分に発散できないでしょう?なので暴力作品を読む時は、けして後ろめたさを感じないように!別に実際に殺人しているわけじゃないんだから、そんなノイズは捨て去っていい。作品に没入する時は、全力で楽しむ事!これが秘訣だ。現実世界に帰ってきたら、周りの人に聞こえるようにこう言っておけば問題なし。
「じつにけしからん!♡」

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