愛とカルピスの濃度について
夏です。
突然ですが、カルピスって美味しいですよね。
暑い暑い外出から帰って、冷蔵庫にカルピス(原液)があるのを思い出したときの弾む心。
お水でも炭酸でもいい。
割って一口飲んだときの華やぎ。
清少納言がカルピスを知っていたら、枕草子の「心ときめきするもの」の章にカルピスは名を連ねていたのではないか、とさえ思います。
でも、そんな夏の風物詩カルピスも、当然のことながら原液そのままでは甘ったるくて飲めたもんじゃないですよね。
濃いめ、薄め、それぞれ好みはあるとしても。
これって、愛も同じなのではないかなと思うのです。
わたしには過干渉の母がいますけれども、彼女は基本的に、ものすごく愛の深い人なのです。
実家にいた頃、一挙手一投足を監視及び管理されることに息苦しさを感じ、もう無理だ耐えられないと思った瞬間がたくさんあったのは事実ですが、彼女がわたしを大事に思ってくれているのもまた本当で、わたしは彼女の愛を疑ったことがありません。
わたしに、根拠のない謎の自尊心を与えたのは確実に母です。
ただ…
彼女の愛は濃い。
とても濃い。
濃いし、重い。
すごく甘い。
だから、薄めが好みのわたしには合わなかっただけなのではないか。
…
というか、濃度が高過ぎただけなのかもしれない、と思うのです。
その証拠に、わたしが結婚を機に実家を出て、名字も変わったことで適切な距離を保ち、顔を合わせる頻度が激減して人間関係の濃度が薄まった今、母とわたしの関係は良好です。
年に数回、お買い物に出掛けたりみんなで食事をするレベルなら、むしろ楽しくさえある。
もしかしたら…
母も、その愛をわたしだけに注がなくなったことで、わたしが受け止めきれずに苦しむのを理解できないことに苦しまなくなった為に、楽になったのではないかとも思っています。
「こんなに大切に思っているのにどうして分かってくれないの」とカルピスをじっくりコトコト煮詰めてドロドロにして愛する娘に与え続けたら、何故か娘が苦しみ悶える…という負のループから脱したのですもの。
今となれば、周囲の人たちから「いいお母さんで幸せね」「感謝しないとね」と言われ続けて一人モヤモヤしていた仕組みも、分かるような気がするのです。
傍目から見たら、濃い目のカルピスか、原液のカルピスかなんて、分からないですものね。
隣の芝生が青く見えるように
隣のカルピスは美味しそうに見える。
でも、毎日毎日煮詰まった原液カルピスを飲まされている側からすると「こっちの気も知らないで」となる。
道理です。
わたしは元来、愛はちょっと薄めくらいが好み。
いい具合に放っておいてくれる夫がちょうどいい。わたしの決断を尊重してくれる夫が好き。2人暮らしはすごく楽。ハッピー幸せ。
でもリアルカルピスは濃いめ派なので、この夏もとっくりと、いただくことにします。