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東北出身の私たちが経験した東日本大震災~当時の状況と今後の対策~

こんにちは。デジサス編集部の藤田です。

2023年3月11日で、東日本大震災から12年の歳月が流れました。
国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録し、極めて多数の犠牲者を出すとともに国民生活に多大な影響を及ぼしました。
被災された方々、今もなお避難生活を余儀なくされている方々に、心よりお見舞い申し上げます。

もう二度と、あのような大きな震災は起こって欲しくないと強く願っています。しかし、今後30年以内に70~80%の確率で南海トラフ巨大地震や首都直下地震が起こると予測されています。
いざという時のために、私たちはどのような備えをしておく必要があるのでしょうか。

東北出身のインフォコム社員に、東日本大震災当時の状況や課題、今後の震災に備えて取り組んでいることをインタビューしました。
以下、インタビュー内容をまとめておりますので、もしよろしければご一読ください。


◆インタビュー対象
Aさん
宮城県塩竃市出身、20代女性、インフォコム入社2年目。
現在は、エマージェンシーコールBCPortalの導入支援、カスタマーサポートを担当。

Bさん
青森県八戸市出身、20代男性、インフォコム入社3年目。
現在は、エマージェンシーコールBCPortalの導入支援を担当。

◆震災当時はどのような状況でしたか。

Aさん:
私は当時、中学2年生で宮城県塩竃市の沿岸部に住んでいました。震災では最大震度6強を記録しており、被害が大きかった地域です。
あの日は中学校にいました。次の日が卒業式だったため廊下で飾り付けなど卒業式の準備をしていました。
地震発生時は、揺れが非常に大きくて立っていられませんでした。自分の身長より高いロッカーが倒れてきました。学校は建物の倒壊等はありませんでしたが、多くのものが倒れて散乱した状態になっていました。ものが倒れてくるのが怖くて、建物内にいるのは危険と感じ、みんなが校庭に逃げました。まだ寒い時期でしたが、校庭で親が迎えに来てくれるのを待っていました。私は結局、自宅には帰らず、内陸側の祖父母の家に行きしばらく生活しました。
その後は5月頃から仮設住宅に移り、7月頃にようやく自宅に戻ることができました。

Bさん:
私は当時、中学3年生で青森県八戸市に住んでいました。震災では震度5強の地震を経験しました。
地震発生時は友達と外にいました。揺れが非常に大きく、駐車場に停まっている車が跳ねるくらい揺れました。近くの信号が消灯していくのを目の当たりにし、こんな地震は経験したことがなく、この後どうしたら良いのだろうとパニックになりました。
友達の家に行き、安全を確認してから帰宅しました。自宅は地震の影響でものが散乱していました。
中学校が避難所になっていたため、夜まで体育館で避難生活をしました。約2日間停電しており電気が使えない状況でした。父親が出張中だったのですが、メールが送れない、電話も繋がらない。余震もいつ来るかわからない とても不安な時間を過ごしました。

◆防災に関して事前に持っていた知識や学んだことはありましたか。備えていたことはありましたか。

Aさん:
私が住んでいた宮城県は地震が多い地域で、当時99.9%地震が起こると言われていました。沿岸部に住んでいたため、地震が起こったら津波が来ることはわかっていました。
小学生の頃から、友達と地震が起こったら学校に走って逃げる練習をしていました。ただ、実際に震災の日にもし学校の外にいたとしても、練習通りに学校に向かって走っていたかどうかは、正直自信がありません。

当時は防災グッズまではあまり用意していませんでした。避難が大前提で、地震が起こったら逃げるしか考えていませんでした。
いつか地震が起こるとは思っていましたが、あそこまで大きいとは思っていませんでした。

Bさん:
当時中学生でしたし、地震が頻繁に来ると教わってきた訳ではなく、正直防災に関しての知識は全然ありませんでした。
学校で半年に1回の避難訓練はしていましたが、地震の時は頭を守るなど基本的なことしかわからない状態でした。
安全経路も決めていなかったので、帰れるところから帰る、震災のときは何をすれば良いかわからないような行き当たりばったりの状態でした。
まさか大地震が来るとは思っていませんでした。

◆災害情報の取得はどのように行いましたか。

Aさん:
停電してテレビが見れない状態だったため、ラジオで情報取得していました。あとは、一枚物の号外新聞が届き、津波で流された建物や地震で崩れた建物を見て、なんとか状況を把握しました。
約2日後からはテレビも見れるようにはなりました。震災の様子だけでなく、日本や世界中が支援してくれていることも知りました。

Bさん:
停電のためテレビは使えず、ラジオも何も持っていませんでした。避難所で人から聞く情報しかなく、港の船が転覆していたなど近所の情報しか手に入りませんでした。
次の日にはテレビが見れるようになりましたが、津波の映像を見て大変衝撃を受けたことを今でも覚えています。

2011年の東北地震と津波の後の津波災害の現実・倒壊した家屋

◆家族の安否の確認はどのように行いましたか。

Aさん:
停電しており、しかも携帯をほとんど充電できていなかったため、親とも安否確認が取れませんでした。なんとか夜充電でき、母とはその日の夜に電話できました。父とは4日連絡が取れませんでした。連絡が取れるまでは生きているかもわからず本当に不安でした。

Bさん:
友達の家から帰宅して、家族の無事は確認できました。父は出張中だったため安否の確認ができるまで3日かかりました。会社に聞いてみようと思っても電話やメールが使えなかったから無意味でした。
避難所に来た友達から、「外はこんな状態だからたぶん無事だよ」と推測で大丈夫だろうと祈るような気持ちでした。

◆震災当時、困ったことや役に立ったことは何でしたか。

Aさん:
役に立ったものは、祖父母がいざという時のために準備していたガソリンで動く発電機です。これで携帯電話を充電することができました。また、食糧も事前に蓄えていたため生活には困らなかったです。地震1ヵ月後には物資も充実してきました。

Bさん:
私は、食糧は何も準備できていませんでした。そのため、市からの食糧の供給は本当に助かりました。ガス水道は使えたのでカップ麺などインスタント食品は食べられました。動ける人は届いた食糧を配っていましたが、明確に指示できる先生がいたので、従っていれば大丈夫という安心感があり心強かったです。
当時はまだ雪が降っていたので寒かったですが、学校にストーブや毛布があり暖をとれました。備蓄は必要だと実感しました。

避難所では、お互いに譲り合いスペースを決めて過ごしていました。いつまでこの生活が続くのか不安でしたが、避難所には知り合いがいたから強く落ち込むことなく過ごせました。一方で、中には高齢の方が一人で避難されており、孤独でつらいだろうなと心が痛かったです。

◆震災を経験して、考え方に変化はありましたか。

Aさん:
とにかくスマートフォンの充電は毎朝満タンにしています。少し移動する場合は必ず、満タンにしたモバイルバッテリーと小銭を持って行きます。小銭は、停電したらキャッシュレスの機械が使えなくなる可能性があるので持ち歩いています。あとは、非常食や長期保存水を12リットルほど、簡易トイレ20回分、電気で動く懐中電灯などの防災グッズも常備するようになりました。

家族は宮城県に住んでいますが、仮に地震が起こったとしても家族のことは信頼しています。
2021年2月に最大震度6強を観測した福島県沖地震がありました。その時私は実家に帰っていましたが、揺れ始めた瞬間に家中の扉を開けました。揺れがおさまったら避難グッズが入っている籠を持って何もためらわず外に逃げていました。
揺れ始めてからの行動力が変わっていて、ここまでできているので家族のことは信頼しています。まず逃げる、ただひたすら高いところに という行動がしみ込まれています。これは東日本大震災を経験したからこそ、変わったことだと思います。

Bさん:
震災当時、家族の安否確認が不安要素でした。今では、家族全員の電話番号は絶対覚えています。また、エマージェンシーコールの家族伝言板は家族で共有しています。
揺れたら閉じ込められないように扉を空けるなど初動を意識するようになりました。

◆今後、インフォコムの危機管理事業に携わりどのようなことに取り組んでいきたいですか。

Aさん:
私は、新規のお客様向けの導入支援と既存のお客様向けのサポートデスク業務の両方に携わっています。震災時に父の安否が何日も分からず、連絡が取れないあの頃の不安な思いは二度としたくないです。だからこそ、どんなに大きな災害が起こっても安心してエマージェンシーコールやBCPortalを使っていただけるよう、平時から皆様がしっかり準備できるよう手厚いサポートをしていきたいと思います。
企業や組織としての防災・危機管理についてはまだまだノウハウを勉強中ですが、東日本大震災の被災者だからこそ発信できること、お役に立てることがあれば、どんなことでもお伝えしたいと思いますので何なりと相談していただければ幸いです。

Bさん:
お客様の事業継続の支援をさせて頂くことで、ビジネスだけでなく、従事されている職員様、そのご家族の生活を守ることに貢献していきたいと考えております。
発災後、限られたリソースや社会環境・取引先からの需要の変化等、正しく網羅的な情報をより早く得ることを求められる中で、インフォコムの危機管理サービスが少しでもお役に立てられば嬉しいなと思います。

震災の経験を思い返すと、長期の不安状態の中であと何日経過すれば電気が使える、家族と連絡が取れる状態になる、というような先のことが分かることで希望を持って頑張れるのだと思いました。
そのためにも迅速な事業復旧・方針の職員様への共有のための情報収集・連携ができるようなサービスをお客様に提供ができれば幸いです。

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