「死にたい!!」と叫ぶことの効能(30チャday27、日記31)

昨日に引き続き、暗くて重たい話です(っていつもか)。

前回の通り、フラッシュバックが増えた。『ぼっち・ざ・ろっく!』では、主人公であるぼっちちゃんが自身の陰キャエピソードを思いだしては頭を打ち付ける様子が活写される。これは他人ごとではない。

厭な思い出やトラウマを思い出してしまったとき、私は「死にたい」とか「死にてー!」とか、「死ぬー!!!」と叫ぶようになった。あるいは、「うわーー」「ぐおーー」のような奇声を発するか。また、「あっはっは」と狂ったように笑ってしまうこともある。

これは何か。特になぜ「死にたい」などと叫ぶのか。これは、基本的に、本当に死にたいわけではない。本当に死にたい場合もなくはないが。冷静になって考えると、死ぬのはもう少し後の方が良いので。本当に死にたい人に失礼だろ!という指摘は甘んじて受け入れる。でも、私だって必死なのだ。

結論。「死」という最もショッキングな状態を想起することで、フラッシュバックを打ち消そうとしているのだ。どんな過去のトラウマよりも、基本的に死の方が恐ろしいから。そうでもしないと、悪いイメージが頭から離れてくれない。この絶叫は突如として、私は本当に死にたいのか否か、自分自身に揺さぶりをかける効果がある。

実際、このように叫んだあとは頭がいくらかクリアになる。歪んだ快楽が生じる。ただ、これがどうも癖になって、すぐ「死にたい」と叫ぶ癖がついてしまった。脳が本当に私は死にたいのだと錯覚してしまっては困る。だからときどき、代わりに奇声を上げたり不気味に笑ったりするようにしている。やかましい記憶をかき消すために。これもできればやめたいが、たぶん無理だろうな。

私は元々死にたいなどと叫ぶ人間ではなかったのだ。少なくとも学部二年までは。決して明るい人間だったとはいいがたいものの、何とかポジティブに生きようとしていた。「死にたい」などと言ってしまうと、なんとなく言霊に引きずられてしまいそうで、口に出すのも恐ろしかった。逆に親友は本当に死にたがっていた。「死にたい」と口ずさむ彼に対し、私はそんなことを言うなと諌める側だった(このスタンスが、そもそも良くなかったのかもしれない)。

やはり友人が自殺してから、トラウマがより強固に脳を支配するようになった。もともと私は他人から「天然」と呼ばれていて、変な黒歴史を無尽蔵に生み出してきたが、そこまで気にしてはいなかった(あるいは、気にしないようにしていた)。だが、私の不注意と、人を思いやる気持ちの不足と、しょうもなさとが、結果的にあの事件を引き起こしたと思うと、これまで私を形作ってきたすべての現象が憎たらしくなってしまった。そして、それ以降に起こった数々のトラウマも、これから引き起こされるであろう悲劇も。すべては地続きなのだ。私が私を生きる以上は。そう思わざるを得ない出来事だった。

もちろん、実際にすべての出来事が連関していて、これが起こることは必然だったのだ、と言うことには抵抗というか無理がある。人間はあらゆることに意味を見つけたがる。彼が自殺した理由は、実際には様々な原因が絡み合っていて、それこそ彼自身の希死念慮ないしは自殺願望だって強く作用したのだろう。ただ私はそのトリガーになってしまった。これは疑いの余地のない事実である。そして、これをしょせんトリガーに過ぎないとみるか、より重く捉えるかは私にかかっている……のかもしれない。

ただ一つ言えるのは。私がすべてを引き起こしたのだとする意識は、思い上がりにもほどがあるということだ。なんというナルシシズムだろうか。

あ、死にてーー☆☆


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