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葬送のフリーレンと胡蝶の夢

フェルンの1番好きな魔法は蝶が舞う魔法です。
その蝶から「フリーレンの世界観とは?」と考察を膨らませていきます。アニメもひと段落着いたので…。

2クール目のアニメのオープニングは青い蝶のシーンから始まります。蝶が花の蜜を吸い、舞うところに焦点が当たり、次にフリーレンに焦点が移動します。これを「胡蝶の夢」と紐づけるところから考察します。前段が長くなってしまったので、読むのが面倒な方は目次の魔法の高みとは?から参照ください。


胡蝶の夢とは? 魔法を読み解く

夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/胡蝶の夢

Wikipediaより

2000年以上前の中国の思想家「荘子」の代表的な説話になります。現代人だと映画マトリックスの世界を思い浮かべた方が、まずはわかりやすいかもしれません。
その荘子の考える人生観と、フリーレンの世界観が絶妙にしっくり来るので今回はそこから話を広げていきます。

まず胡蝶の夢で言っていることは「夢が現実か自分で確かめる方法ってないよね?(映画マトリックス的に)」という、ただの問いかけだけでも充分面白い問題ですが、仏教的な解釈を加えると違う角度で見ることができます。

「そもそも、私と蝶とを区別すること自体が、人間が勝手にやってる事であり、実は万物にはもともと境界はなだけども、蝶と私は違うと認識してしまうのが人間の性である」というのが仏教的な解釈です。

一度現れた境界を取り去ることは簡単にはできません。言葉の性質を例にすると、"言葉そのものがあらゆるものに境界を生んでいる"とも捉えられます。
あかちゃんは自分の名前を知り、他者と自分の境界を作ります。ママパパを知り、家族と他者の境界を作ります。自分の感情にも喜怒哀楽の名前が付けられ、死を知れば、恐怖を知り、逆に生きる喜びも知り…正義を知れば、悪を知り…多くを言葉なしでは考えられなくなっていった頃には、もうあらゆる物が境界で整理されて認知されることになります。単語の数だけ境界があります。
 
生と死、大と小、美と醜などそれらも人間が勝手に境界を引いて、あーだのこーだの悩んでいるだけなんだよと言ったように繋がります。そういうことを追求していくのが仏教であり、無我とか空の概念に繋がります。

仏教の話はここまでで、この「境界」をフリーレンの世界感に取り入れてみます。

フリーレンでは「魔法はイメージの世界である」という話が何度も出てきます。これを元に先ほどのオープニングから連想される胡蝶の夢を融合させると、フリーレンの世界では「現実とイメージに境界がない世界」という設定があることが見えてきます。


我々の世界は物理学というルールに従って動いているのに対して、フリーレンの世界は「もしも現実とイメージに境界がない世界だったら?」というルール設定しています。そのSF的な要素を、一つ盛り込んだらどんな世界が描けるか?という実験的な作品であると捉えました。


境界なんてものは実は幻想でイメージしたものがなんでも現実になる夢のような世界ですが、それは先ほど「人間が言葉に囚われてなんでも区別してしまう」のと同様で、境界を自由に引き直すことは簡単には出来ないと言う制約がついています。
そこら辺は、ゼンゼがユーベルの天才的能力を解説する時に述べていて、「小さな蟻が巨大な龍を踏み潰すイメージはできない」というくだりで抑えられています。(6巻第54話)


イメージと現実に境界がない世界とは一体どんなことが起こるのでしょうか?
自己認知しているものが、自分の現実そのものであるということです。

対照的な例として、また映画マトリックス一作目をあげますが、みんなが現実だと思ってる世界が実は夢(マトリックス)で、目が覚めた人だけに本当の厳しい現実が待っているといった感じで、明らかに夢と現実の境界がある世界です。
フリーレンの世界はそれとは違って、イメージ自体が現実と等しく、それ以上でも以下でもないと言うことになります。
目で見て、触れて、感じ取った時にそれは現実になり、つまりフリーレンの認識しているものこそがフリーレンの現実そのものという世界になります。
フェルンにはフェルンの、シュタルクにはシュタルクの、認識する者の数だけ現実があるという世界観になります。

「イメージは無限に出来ても、現実は唯一であると捉える我々の世界」と、「現実は個人のイメージ次第で無数にあるというフリーレンの世界」には、世界の中にいる人にはどちらも同じ事になります。

そんな世界のルールを前提とした上で物語のキーとなる部分を考察していきます。


魔法の高みとは?

現実にイメージを具現化したものが魔法であるのは前述の通りです。その魔法の高みとはなんでしょうか?
零落の王墓で、フリーレンの複製体が最後に使った魔法は、フェルンには現実に何も見えなかったし、魔法と認識することもできないものでした。(6巻第55話)
これはフリーレンの魔法がフェルンのイメージさえも超えた、境界の外に来ているためです。イメージを超えたものは理解はもちろん認識すらできないのです。

ゼーリエの魔力のゆらぎとは?

ゼーリエの魔力の揺らぎがなぜみんなに見えないのか?(6巻第57話)ということですが、これはフリーレンのように制限して厳密にコントロールしているから見えないわけではなく、そもそも人間たちのイメージを超えたところにゼーリエの境界があるからだと思います。

ゼーリエも魔力制限をしてゆらぎを抑えているとすると、フリーレンの魔力制限という行為を、効率が悪いと馬鹿にしていること矛盾してしまいますので。

実は魔力の大きさは、観測している人のイメージの範囲を超えては観測できないんだということです。これはフリーレン複製体がフェルンになんらかの攻撃魔法を放った時と同じ原理で説明されます。(6巻第55話)
フェルンがゼーリエの揺らぎを見れたのは、フリーレンとの戦いで、魔法の高みという世界があると身をもって認識したからなのかと推察します。そうすると話が繋がります。
フェルンは命懸けの戦闘で、自分のイメージの範囲が広がり、高みがあることを知る事ができたため、ゼーリエの魔力の境界まで見えたのです。


女神様の魔法はなぜ聖典がいるの?

魔法の中で、イメージができても原理がわからないものは呪いと呼ばれています。
ハイターやザインが使う僧侶の魔法もイメージはできるが、原理がわからないため、聖典が必要といった設定になっているのかと考察します。

聖典には荘子の説法のようなものが書かれているのかなーと想像しています。知識として原理がわからなくても、説法を通してイメージできれば僧侶の魔法となるのでしょう。考えるな、感じろと言った具合に。
なんでそんな回復魔法だけが難しいのか?といった根拠も、自己認識の数だけ現実がある世界なので、一辺倒の理論を立てようにもそれに当てはまるのは、特定の人だけになり、他の人には機能しないものになってしまうのではと考えられます。
なので女神様という偶像を媒介し、説法のような抽象的なレベルで直感的にイメージするのが僧侶の魔法なのではないでしょうか。

他人に対しては、無数にパターンがあるから仕方ないとして、自分に対しては自由に回復できるんじゃない?という疑問も湧いてきます。
元気な自分をイメージするだけじゃないの?と。なんで自分自身にも聖典いるの?と。

その理由は、原理的に自分自身を完璧にイメージすることは不可能だからということです。境界の話に戻りますが「一体どこから自分で、どこまでが自分以外なのか?」それをイメージしている自分自身もまた自分となると、それは境界のどちら側か?と言ったように無限に繰り返され、自分とそれ以外の境界を明確にイメージすることは自分では不可能なことなのです。


ラントとユーベルの魔法とは?

「一級試験で出てきたラントという、自分自身の複製体を作ってる魔法使いがいたけど、先程の理屈だと自分の複製体を作るなんて無理なんじゃない?」ということになります。おそらくその通りで無理でしょう。ここからは想像ですが、この境界線のルールの上で考えると、ラント本人はほとんど魔法が使えない人で、ただ自分が魔法使いとなった時のイメージが具現化されているだけって事になるのではと想像します。
複製体でなく、頭の中に描いた理想の自分なわけです。
自分自身どれだけ努力しても理想の魔法使いになれなかったけれど、その努力の結晶、知識の塊がラントの姿となり具現化したといった具合に。ラントは自分自身の人生の映画を見ている観客のような人間になったのかと思います。

またユーベルは優れた才覚があり、共感すれば相手の魔法を使えるようになるようです。原理原則がわからずとも、魔法が使えちゃうタイプとラントからも言われている通り、共感という方法でイメージ自体を構築できるのでしょうね。
境界の話で言うと、彼女はそもそも他者との境界が欠落している人間ということかもしれません。もしかしたら聖典無しで女神様の魔法を使える可能性があるかもしれませんが、そもそも女神様には共感できないとすると、聖典があっても女神様の魔法が全く使えないかのどっちかでしょう。

自分自身さえ境界の外に置いてしまうラントと他者との境界が認識できないユーベルが惹かれあう構造になっているのかと考察しました。
境界の話をイメージしやすくなる2人かと思い例に取り上げてみました。

目的地オレオールは実在するのか?

フリーレン一行は死者に会えるというオレオールの地を目指していますが、本当にオレオールはあるのでしょうか?
結論から言うとすごく単純で、存在すると信じれば存在します。

その前に生と死についてルールに沿ってみます。やはりこれも境界の話であり、フリーレンの世界では死んでいると認識していれば、その人は死んでいると言う事です。そして死んだ後はイメージしていた天国に行くのです。ハイターが「その方が都合がいい」といっていた通りに解釈すれば良いのだと思います。(1巻第7話)

フリーレンの心の中にイメージするヒンメルが現れて対話できる場所こそがオレオールなのだと思います。
じゃあそれは本物のヒンメルじゃないじゃん!と思うかもしれませんが、最初に言った通りここは現実とイメージに境界がない世界なのです。
どちらが本物か偽物かということはなく、心の中のヒンメルも、一緒に旅したヒンメルもどちらも全く同じヒンメルになります。

ではこの世界における死をどう捉えたらいいでしょうか?誰にもイメージされなくなった時こそが本当の死という価値観"も"あるのかも知れません。

フォル爺という、ドワーフ族のフリーレンの長寿友達の話が出てきます。(4巻第33話)フリーレンの世界を理解するとてもいい話です。

ドワーフ族でもボケがくる400歳を超える戦士が、今でもずっと同じ街を守っているというお話です。なんで守っているのか?と勇者一行が尋ねると、死んだ妻が好きだった村だから守っていると語ります。
しかしもう死んだ妻の顔も、声も、眼差しも思い出せないというのです。フリーレンもヒンメルを重ねて珍しく感情を表すとても心に響くシーンなのですが、その次の日、フォル爺が「フリーレンとの昔話をしたおかげで、妻が夢に出てきたよ」というホッコリするオチがある1話になります。

ここでわかるのは、イメージというのは、単に覚えているとか思い出せるという意識の上だけでなく、無意識の範囲まで及んでいるということです。現実とイメージの境界がない世界は、自分でも意識できないほど広がっているのでしょう。

残酷にもイメージできないことは実現できない世界なのですが、イメージには無意識も含まれているので、面白い話になってくるのだと思います。
例えばフェルンが初めて魔物と戦った時、最初は怖くて逃げましたが、覚悟を決めた瞬間、体が勝手に動いて魔法を使って倒したということがありました。最初のシュタルクの竜戦然り、倒すイメージがなくとも、これまでの努力の積み重ねが無意識の勝利に繋がるのです。(2巻11話)


魔族とは何か?(次回あれば)

以上が今回の考察です。「現実とイメージの境界がない世界」というSF的設定を切り口に「魔法」とについて考察してみました。あくまでアニメ終了までの範囲での考察なので、今後自分の中で変化するかもしれませんが。


この哲学もどきな切り口で「魔族とは何か?」という話もしてみたいですが、アニメ以降のネタバレになるのと、話が長くなったので一旦切ります。アニメを見終わるまで漫画を読むのは封印しておりました。

次回は、

魔物とは言葉がなく、魔族は言葉があると漫画の中で説明されていますが(2巻第14話)、では魔族と人間は何が違うのか?を境界の話を基に掘り下げていきたいです。
簡単に言うと魔族にも人間にも言葉があり、その上で両者とも心もありますが、ある感情の境界が欠落しているのが魔族ということです。そろそろクドイですが境界が欠落していると言うことは、そもそもその感情がないと言うことと同義です。

零落の王墓のシュピーゲルは魔物なので、作られた複製体は言葉も離さず、心もないということだと思います。この世界では言葉や心に囚われない魔物の方が、より何でもありな魔法が使えるという関係がありそうです。
そして、魔族とは?魔王とは?を考えていくと、なぜ天国であるオレオールに魔王城があるのか?も繋がってくるんじゃないかと推察します。


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