【短編小説】木は知っている

 開けた草原の丘に佇む、一本の大きな木。それは、空をもを飲み込むほど枝葉をいっぱいに伸ばしていた。
 私はこの木の名前を知らない。
 それでも小さい頃からずっと、その木陰で本を読むのが好きだった。
 たまに漏れる日の光がとても暖かくて、それでたまにうたた寝もして。この木はもたれ掛かる私を、いつも支えてくれていた。
 手を触れればゴツゴツとしていて、力強さを感じさせてくれるのに、私が悲しんでいると必ず受け止めてくれる優しさもあって―。
 私は優しく木に触れる。 
 「ねえ、あなたはどんな過去を持っているの? どんな世界を生きてきたの? 教えてほしいな」
 私が木に尋ねた。
 すると突然私の視界がゆらゆらと揺らいだ。世界が滲むように崩れていって、最終的には知らない場に放り出された。
 辺りを見回そうとした時、五歳ほどだろうか、目の前に半纏を着た小さい女の子がしゃがんでいた。彼女は何やら独り言を呟いている。
 「大きく育ってね」
 何をしているのかと上から覗いてみると、生えたばかりの青々しい芽に水をあげているようだった。
 「あ、あの」と私は肩彼女の肩に触れようとしたが、きれいにすり抜けた。
 女の子は何も気にする様子はなく、丁寧に新芽に水を与えていた。
 木の桶にためた水を、柄杓で掬い上げて、ゆっくりと垂らす。彼女が葉にかからないように、柄杓をくるっと一回しすると、土の色が円く濃くなった。
 最後に仕上げのよう形で、ほんの少し葉に水をかけた。葉はゆっくりと頭を垂れ、水がしたたり落ちるとパンッと跳ね上がった。
 同時に女の子が立ち上がる。
 「あの、ごめんなさい」 
 女の子がおかっぱ頭を揺らして、体を翻す。
 呼び止めた私の声に彼女が振り返った、と思いきや、全く目も合うことなく、女の子は硬い茶色の砂地をのそのそと歩いていった。
 どうやら彼女の瞳に私の姿は映っていないようだ。
 彼女の足音が遠く消え去ると、また私の視界が揺らいだ。
 乱れた世界が形を戻すと、私の背ほどだろうか、伸びた木が目の前にあった。そしてその横、背比べをするように、少女が佇んでいた。
 肩ほどまで伸びた髪を一つ縛りにしていたが、さっきいた女の子の面影がある。
 「もう私よりずいぶん大きいね」
 そう笑いかける彼女より一回り大きく、木は枝を伸ばしていた。
 「今日はあなたとお話しに来たの。ねえ、どんなお遊びが好き? 私はね―」
 後ろに手を組み左右に体を揺らしながら、話す少女は輝いて見えた。
 少しの間、私はその様子を微笑ましく見守っていた。
 すると、また突然モザイクがかかった。
 次第に画素数が上がっていくにつれ、何やら騒がしさが向かってくる。
 男たちの雄叫びと、金属同士がかち合う音。
 映像がはっきりと浮かび上がってきた途端、私に向かって鎧をまとった一人の男が刀を振り上げた。
 曇天の中、鈍く光ったそれが振り下ろされる。
 私は思わず身をかがめた。しかし、その刀は私をすり抜け空を切った。
 瞬間、その男の首が跳ね跳び、砂埃とともに鮮血が舞う。
 私の体が変に力んだのがわかった。
 震えながら辺りを見渡してみると、鎧武者たちで敷き詰められていて、彼らは弓と刀で争っていた。
 私が呆気にとられていると、怒号たちはいつの間にか止み、周辺は静まり返った。
 残ったのは、足元に転がる屍達と私の背より二回りも大きくなった木。その木には数多の弓が、生える枝のように突き刺さっていた。
 私がしばらくその惨状に目を細めていると、遠くから淡い桃色が、ゆらゆらと地に伏す人々の間をくぐってこちらに向かってきた。
 段々と大きくなるその姿。
 私が見ていた淡い桃色は、着物に袖を通した女性だった。
 その足取りは重たそうで、それでも正確に大地を踏む。
 彼女が一歩踏みしめるごとに、重たい空から雨粒が落とされる。彼女がこちらに近づけば近づくほど、雨足はその強さを増し、木の前に立つ頃には土砂降りとなっていた。
 立ち止まった女性は、流れるように視線を上げた。
 「ほんと、大きくなったね」
 雨が地を叩く音の隙間から籠もるように聞こえた。 
 彼女は目を細めて、優しくも、悲しそうに微笑んでいた。わずかに首を傾けたその横顔は、儚く美しかった。
 雨に当てられて、黒い髪はよりその艶やかさを増す。後ろで丸く結われた髪の後れ毛から、水が滴る。
 女性は、口を強くつむると、木に刺さった矢を一本一本丁寧に抜いていった。木が痛くないように、一本一本丁寧に―。
 「んっ、んっ」と、抜くたびに彼女の口から声が漏れる。そんな彼女はとても痛そうだった。
 跳ねた泥で着物は汚れ、木の皮に擦れて少し傷つく。
 それでも彼女は矢を抜き続けた。
 綺麗さっぱり抜き終わった木には、それでも抉られて露出した中が点々としていた。
 女性は木に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
 「ごめんね」
 と、多分言ったのだと思う。
 かすかに動いた口、その声は雨によってかき消されていた。
 


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