【短編】走る車は正しい道をゆく

 今朝はとても目覚めが良かった。日曜、休日の私。壁にかかった時計に目をやると針は八時を示していた。
 私は伸びをしてから、カーテンから漏れ入る薄い色をした朝日に誘われてベランダに出た。少しの眩しさに軽く目を細める。当たる日差しに温もりを感じながらも、吐く息の白さに、もうすぐそこまで来たの冬の訪れを予感した。
 「おはよう」
 道端をヒョコヒョコ歩く鳥に笑いかけてから、私はリビングへと向かった。
 こんなに気持ちの良い朝に、最も合うものはこれしかないだろうと、私はキッチンで淹れたホットコーヒーを持ってテーブルの椅子に腰掛けた。
 私はそれに少しの砂糖を加えると、ゆっくりと一口含む。さっぱりとした苦味に、世界が一段鮮やかになった。
 空きっ腹に流れ込んできた熱い液体が、私の少し冷えた体の芯を溶かしていった。
 小鳥のさえずりと、私がコーヒーをすする音だけが物静かなリビングに鳴る。それが私にはとても穏やかな空間に感じてたまらなかった。
 「久しぶりにドライブにでも行こうかな」
 私は時間をかけてコーヒーを飲み干すと、軽く化粧して、目についた厚手のパーカーとジーパンに着替えて家を出た。
 家の前、少し狭い道を抜け、川沿いへと車を走らせる。左を流れる川に、裸の木々が立ち並ぶのを視界に入れながら、私はお気に入りの音楽に合わせて鼻歌を歌う。そのリズムに合わせて体は自然と揺れていた。
 3分ほど川沿いを走ると、赤い大きな橋が見えてきた。私はその橋をわたって大通りへと出た。
 日曜の朝ということもあってか、いつも通勤で通る時とは違って、私とその反対を駆け抜ける車がたまにある位だった。
 いつもはじれったく進む道を、独り占めして我が物顔でアクセルを踏む。それがとても爽快だった。
 左右立ち並ぶ店達の従業員らしき人たちがぽつぽつと表に見え隠れし始めた。
 「あれ、もう九時過ぎるのかな」
 私が時間を確認しようとしたその時。
 黒い影が一瞬にして私を追い抜いた。
 それも反対車線側から。
 「あぶなっ!」
 咄嗟に口から出た。
 心臓が一瞬止まって、毛穴が縮こまったのがわかった。
 私はブーブーと、クラクションを二回鳴らした。
 それを気にもとめず、過ぎた車は走り去っていった。
 私は少し困惑しながらも、息を一つはいて強張った体を和らげた。そうして、事故がなくて良かったとひと安心する。
 それでも、気持ちの良かった朝を邪魔された気分で、少し腹がたった。
 どうしてああいうやつがいるんだろう。ほんとに危ないからやめて欲しい。
 湧き上がってきた少しの苛立ちは、ブレーキがかかることなく大きくなってきた。私の運転もそれに応じて少し乱暴になった。いつもより強くアクセルを踏んで、いつもより減速することなくカーブを曲がった。
 あー良くない流れだ。
 私は一度大きく深呼吸をした。 
 よし、帰ろう。
 近くのコンビニでUターンをすると、私は安全を心がけて車を走らせた。
 気づけばお店が次々開店し始め、車通りも多くなっていた。いつもの通勤時のように、ゆらゆらと車が進んでは止まってを繰り返す。
 このまま帰っても良かったが、それでは少し後味が悪く思えた。
 私は、ハンドルを指で叩きながら、どこか寄ろうかと思索する。そうしてぼーっと進んでいると、パン屋の看板が目に入った。
 買って帰るか。と、私は左にハンドルを切る。
 そして、駐車場に車を停めてパン屋の扉の前に立ったとき、そこにかかっているホワイトボードに気がついた。
 そこには、「臨時休業」と記されていた。
 私の肩は自然と落ちた。トボトボと車に乗り込み、ため息一つ。今日はなんだかんだついていないような気がした。
 私はマイナスの気持ちを振り払おうと首を振るが、全く気は晴れない。
 思い返せば、今週ずっとついていなかった。
 月曜は寝坊して危うく遅刻しかけたし。火曜は取引先とのすれ違いで忙しくなったし。水木はその後始末でずっと大変だった。金曜はお皿割ったし。昨日に関しては本来出勤じゃないのに呼び出されたし。今日はこんな感じだし…。
 「なんかついてないなー」
 私はそのまま、駐車場で十分ほどぼーっとフロントガラス越しに空を眺めた。
 薄く広がるうろこ雲。太陽はそこに隠れながらも、光だけは地上に降り注ぐ。後ろでは車の行き交うエンジン音が騒がしくなってきていた。
 「帰るか」
 私は車のエンジンをかけた。そしてゆっくりとタイヤが回る。クリープ現象で駐車場を抜け、さっきとは別の道から帰ることにした。
 少し狭い道だが、大通りよりもなんだか気分が良く思えた。並々と続く住宅地を抜けて、少し大きな道に出る。それから少しすると、左手に赤い十字をこしらえた大きな建物が見えた。
 私の胸が少しざわついた。しないはずなのに、消毒液の匂いが微かに香った。もう3年ほど前から鼻にこびりついたまま、病院の前を通ると急に刺激してくる。
 少しゆっくり目に車を走らせて、病院横を過ぎる。と、その時、駐車場に停まる一つの車に目がいった。
 黒の軽自動車。見間違いではないと思う。朝、私を追い抜いていった車だった。
 駐車場にあまりに乱雑に停められたその姿を見て、私の心は少し揺らいだ。朝、この車の運転手に腹立たしく思った自分を戒めたくなった。
 この人はきっと、誰かの手術に早く辿り着くために、今朝私のことをものすごいスピードで追い抜いていったのだろう。この運転手の中にある、大切なものを失いたくないという秩序が、法律を突き破ったのだろう。
 もしかしたらそれを正しい行いとするのは、間違っているのかもしれない。けれど、私にとってすれば、正しいと断言することができる。
 失くすことの悲しみを超越した虚無感を、知っている人ならば皆私に賛同してくれるはずだ。
 二度と夫に会うことのできない私は、あの日、ルールを破ってでも生前の彼に会うべきだった私は、今日も安全に車を走らせて、赤信号で止まる。
 「ピーーー」というあの日から止むことのない、彼の死を告げる音。触れた手はもう動くことはなかった。
 少しだけ残った温もりが消えていく様を見届けながら、規則と秩序の均衡が私の中で崩れ落ちた。
 どうしてあのとき、私は赤信号を無視できなかったのだろう。もっとスピードを出さなかったのだろう。心に住む悪魔に耳を傾けなかったのだろう。
 あの日からずっと疑念があった。私の彼に会いたいという衝動が、実はそこまで足りなかったのではないかと。ひいては愛が足りなかったのではないかと。
 だから私にとってすれば、私を抜き去ったあの黒い軽自動車の運転手は、私よりよっぽど素晴らしい人間だと思えた。あの人のほうが、絶大なる愛情で誰かと接しているはずだ。私にはなかった、その大きな愛で。
 信号が青に変わったのを確認してから、私はアクセルを柔らかく踏む。
 私は未だ、自分の中に本当の愛が無いことに今更となって気付いたのだった。
 
 


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