【小説】ケチャップを嫌う
俺はケチャップが嫌いだ。
朝食のスクランブルエッグにかかっていた日には、見るだけで吐き気がする。
「おはよう、あなた。朝食できてるわよ」
いつもより遅めの起床。
リビングの大きな窓の向こう、庭の芝生が青々と陽光に照らされている。眩しいくらいだ。
テーブルの席についた俺は、用意されたコーヒーに手を伸ばした。
一口含んでその香りを楽しむ。
トロッとした酸っぱさに、少し鼻を抜けるような爽やかさ。一日の始まりに相応しい。
そして俺は、焼き立てのトーストにお気に入りのマーマレードをつけようと、ビンに手を伸ばした。
「あなたそれっ、いちごのジャムよ! マーマーレードは隣のビン」
妻、ジェイミーの声に、俺の手は一瞬跳ねて軌道を修正した。
「すまない。ありがとう」
実はイチゴジャムも大嫌いなんだ。
俺は、マーマーレードをトーストに塗ると、大きく一口齧りついた。
抜け感のある柑橘系の甘さが口いっぱいに広がる。
さっきの妻の大きな声に驚いたのか、庭で鳴いていた鳥のさえずりは何処かへ消え、俺がコーヒーを啜る音とトーストを齧る音とだけが交互に散る。
緑の庭を背景に窓際のイスに腰掛ける妻眺めながら、俺は少し口に残ったトーストをコーヒーで流し込んだ。
こんなにゆっくり朝食が取れるなんて、俺はなんて幸せなんだろうか。
最後の一口、俺はコーヒーを飲み干すと、おもむろに立ち上がって、デーブル端に置いてあったライターと紙タバコを手に、裸足で外へと降り立った。
少しのまぶしさと、足元に芝生のくすぐったさを感じながら、俺はタバコに火をつける。
そうして煙を一つふかして、手元から揺れ昇る細い白を目で追った。
もうあれから三十年は立つ。俺がケチャップを嫌いになったあの日から…。
「おい、ジョン。今日も行くよな?」
丸々とキレイに剃られた頭に、蒼く煌めく瞳。それが俺の親友トーマスのトレードマークだ。
「もちろん」
盛り上がる酒場が俺等の主戦場。
工場の仕事帰りには決まって二人で飲み明かしては、翌日遅刻ギリギリで先輩によく叱られていた。
それでも、トーマスといると楽しい以外はなかった。ムカつく時とかもあったけど、それ以上に面白かった。
「なぁジョン、知ってるか?」
安っいビールを一気流し込んで頬を赤らめたトーマスが、少し真面目な声で言った。
「何がだ?」
「最近、うちの工場で作ってるちょっとデカい鉄の筒。あれ何に使うか知ってるか?」
「いや、しらねーな」
トーマスは周りの視線を気にするように、チラチラしてから小声で囁いた。
「爆弾だ。近頃うちの国どっかとドンパチするらしいぜ」
「そうなのか」
「そうなのかって。お前、あっさりしてんな」
「そうか?」
トーマスの言葉に俺は軽く目を見張ったが、それがどの程度のことなのか理解はしていなかった。
「お上の奴らが何考えてんのか知らねーが、俺は今日こうやって楽しく飲めりゃそれでいいんだよ」
「ハハッ。さすがジョンだぜ、そうこなくっちゃ」
二人して杯を掲げる。カツンと木製ジョッキを打ち付け合って、俺等は一気に飲み干した。
今日が楽しければ、俺は本当にそれで良かった。
「あ、そういえば聞いたぞジョン。お前彼女できたらしいじゃねえか」
「あ? んだそれ。誰から聞いた?」
「昼に先輩たちが喋ってたぜ。この前大通りの飯屋でお前と女が同じ席にいたって」
「人違いだろ」
俺は、少し顔をしかめた。
「おやおやおや? 何だいその顔は」
「別になんでもねーよ」
「おいおい、水臭ぇーじゃねえか。いいだろうよ。別にお前の恋路を邪魔しようってわけじゃねぇんだ。で? ホントのところはどうなのよ?」
トーマスが、ニヤニヤしながら肩を抱いてきた。
「…まあ、彼女みてーなもんだ」
俺がぶっきらぼうに吐いたセリフを受け取ったトーマスは、さっきまでのおどけた様なニヤニヤをやめて、とても嬉しそう笑ってくれた。
「なんだよっ。めでてーなぁおい」
そう言って何度も俺の背中を叩いてくる。
「やめろって。痛いっつーの」
俺はトーマスの手を払い除けた。
「おー、すまんすまん。あまりに嬉しくてつい」
「なんでお前がそんな喜ぶんだよ。俺に彼女ができたくらいで」
「ったりめーだろーが。親友に彼女ができるなんて。しかも、お前に。俺は嬉しくてたまらねえよ」
半分涙ぐむような声で、トーマスは喜んでくれた。
「やめろって。恥ずかしいな」
「いや、本当に良かった。おい、今日は俺のおごりだっ。好きに飲めっ」
俺は、ダルそうな態度を示しながらも、内心すごく嬉しかった。こんなに、俺のことを思ってくれる親友がいて良かったと思った。
それから俺等はいつも以上に、滝水を浴びるように酒を流し込んだ。
「おいっ。おめでてーなー」
「うるせぇー。ははっ。いいだろー」
夜も更けに更けた頃、月と街頭の下俺等は帰路についた。それはそれは気持ちよく酔っ払って。
もう思考も視界もぐちゃぐちゃで、工場の寮につくと、すぐそれぞれの部屋で泥のように眠りについた。
その晩以降、俺等の安寧は少しずつ奪われ始めていた。
「おいそこ、訓練中だ。気を引き締めろ」
「はいっ。申し訳ありませんっ」
「すみませんでしたっ」
俺に彼女ができて大体一年が経った頃、俺とトーマスは徴兵によって訓練を受けていた。
「お前のせいだぞ」
「いやいや、お前が―」
「おいっ、おまえら! 何度行ったらわかるっ。これは我々の国の命運がかかっているんだっ。その自覚を持て! 罰として腕立て三十回!」
俺の肩が落ちる。
「返事は!?」
「はいっ」
二人重なるように返事して、俺等は訓練を受けた。
銃、爆弾。工場で自分たちが作っていたようなものを初めて自らで使うことになった。
訓練を経て半年後、俺とトーマスは奇しくも同じ南の島戦線へと派遣された。
そこは過酷を極めており、一日百人死ぬのなんて当たり前の戦場だった。
「おい、お前。ジェイミーちゃんとはどうしたんだ?」
「一応、死ぬかもとは言ってきた。仕方ねぇ。ここで俺が命張らなきゃ、今度はジェイミーたちがやられちまう」
「…ああ、そうだな」
兵の輸送船、甲板で揺れを感じながら俺等は島到着を待った。透き通った青に染まる海の中、島々が緑茂り鮮やかに浮かんでいる。
その中、一つの島は異様なほど暗く、灰のように無彩色の様相をしていた。もし、鬼というものの住む島があるならこれなのだろうと思わせるものだった。
「暑いなぁ、おい。」
島の砂浜を踏みしめた俺達を出迎えたのは、異様なまでの蒸し暑さと、元から戦っていた我が軍の壊れた人間たちだった。
「はやぐっ。あいつ等を殺すぞ!」
「あいづらどごだああー!!」
拠点内にいたのは、黒目が飛んでただ叫ぶ奴、片腕ない奴、片足ない奴、何も動かない奴。
「こりゃひでーな」
「…ああ」
トーマスと俺は、その光景にただ絶句した。
「お前らっ。今晩から作戦行動をするっ。今は休めっ」
上官から指示が出た。
とりあえず、船旅の疲れを癒やすように軽く横になったが、そこかしこからする銃声と爆発音とうめき声で体どころか気も休まらない。
鼓動は早まり、呼吸もそれに釣られる。落ち着いてなんかいられない。いつ死ぬかわからない場に来てしまったのだと、眼の前にある惨状が示していた。
「おいっ、集合だっ」
絶大な緊張と、得も言われぬ興奮を抱えたまま、俺は作戦に合流することになった。
トーマスも同じようだった。
「今晩我々は、この山の向こうに潜んでいるであろう敵を殲滅しに行く。あちらは少数、こちらが断然有利であるが見ての通り、我々は苦戦をしている。いいか、気を抜けば簡単に死ぬ。引締めてけっ」
「はいっ」
そうして作戦が始まった。
暗闇の中、蒸し暑いジャングルの中をひた進む。
ねっとりとした汗を身体中まといながら、一歩一歩ゆっくりと進む。
よくわからない鳥の鳴き声や、動物の声を耳に貼り付けながら木々をかき分け進んでいく。
常に死がすぐそこにあるように感じ、俺の正気はたった一本の細い糸で繋がれている状態だった。
そうして、歩き始めて一時間はたっただろうか、作戦の待機場にたどり着いた。
そこは少し開けた砂地手前で、波の音も近くに感じた。
俺の心臓に反して緩やかに波は往来する。
やけにうるさい心臓を抑えつけるように、俺は深呼吸をした。
瞬間、波の音をかき消すように、声の束が次第に大きくなりながらブワッと押し寄せて来た。
何だと思ったときにはもう、銃声が響き渡っていた。あちらこちらで、うめき声もし始め、俺はそこでようやく敵が目の前にいるのだとわかった。
はっとして、すぐに地に這うようにしながら銃を構える。少し遠く、一瞬パッと光ったと思えば、耳元を何かが風を切って過ぎた。
息を呑んで、すぐにそこに撃ち返す。が、暗くて当たったのかわからない。
依然として迫りくる足音と声に気圧されそうになる。
ああっ怖い―。
パッと視界が一気に明るくなった。
仲間が照明弾を打ち上げたのだ。
その時、俺の前に広がっていたのは、砂浜に倒れ込む敵兵の姿。そしてその屍を飛び越えこちらに鬼気として向かってくる化け物だった。
その中の一人が、こちらに突っ込んできた。
間合い数メートルまで鉛玉を受けながら走り、そのかっ開かれた目には敵しか見えていない様だった。
そいつが拳銃で俺の隣のやつを撃ち抜いた。
照明弾に照らされて、鮮血が舞う。
本当に綺麗な紅だった。
俺のほっぺにペチャっと付いた。
横を向くと、そこにいたのは肉塊となったトーマスだった。
玉がなくなったのか、トーマスを殺したやつはナイフ片手に俺に向かって突っ込んできた。
俺は無心で、そいつを撃ち殺した。
そいつからも紅い血が飛び散った。
俺は、嗤っていた。
気持ちの悪い声で、嗤っていた。
初めて自分が誰かわからなくなった。
俺はあと二人撃ち殺した。
それからだ。
俺はケチャップが嫌いになった。
「大丈夫?」
ジェイミーの声で我に返った。
「ああ、大丈夫」
気づけば、手元のタバコはほとんど灰となって崩れ落ちていた。
俺はそのタバコを外に置いてある白いテーブル上の灰皿に捨てると、また一本取り出し煙をふかした。
どうあがいても、どんなナリでも、人間の血は赤いらしい。
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