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300万円払って100円を差し押さえる 【ADHDは荒野を目指す】

 5-12.

 台湾人女性と結婚し台北に移住した僕は、様々なトラブルの末に、日本人子女向け進学塾を作り上げます。

 しかしそこに、ライバル塾であるH舎からの嫌がらせが襲い掛かる。さらには、三千万円の損害賠償と、営業停止を求める訴訟まで起こされてしまいます。

 辛うじて、即座の営業停止を命じられる「仮処分」の執行は逃れ、いよいよ裁判本番が始まる、となった時。

 僕は、自分の銀行のキャッシュカードが使えないことに気付くのです。


 コンビニエンスストアのATMの前で、僕は首を傾げます。
 お金を下ろそうとキャッシュカードを差し込み、暗証番号を入れても、エラーが起こるのです。

 カードの磁気不良だろう、と僕は思います。
 当時の台湾では良くある話でした。

 こうなると、銀行に行く必要があります。
 しかし僕は中国語がそれほど達者ではないし、何よりその後仕事が控えている。
 そして何より、わざわざ銀行まで行くのが面倒臭い。
 それに、ある日は駄目でも、別の日には問題なく使える、というケースも多い。

 そもそもお金を下ろしたかったわけではなく、ただ残高が確かめたかっただけです。

 その日はそのまま放置し、仕事に戻りました。

 けれども次の日もその次の日も、同じことが起こります。
 流石におかしい――そう思いますが、何もする気になれません。

 しかし、妻の反応は違いました。
 僕からそれを聞いた妻は、翌日、僕のキャッシュカードを交換してもらいに、銀行に行きます。

 そして、銀行の窓口の女性から、キャッシュカードの問題ではない、と言われます。

 ――お金を引き出せなかったのは、預金口座が凍結されているから、と。
 凍結されているため、振り込みも引き出しも出来ない、と。


 どういうことなのか?

 酷く驚きますが――それでも、原因は見当がつきます。

 H舎による、『仮差押え』申し立てです。

 これは、民事訴訟の際、被告の資産を一時的に凍結させるもの。

 裁判は長くかかることが多い。その間、敗色濃厚だと感じた被告が、判決が出る前に、自分の資産を他人名義にしたり、海外に逃がしたりする恐れがある。
 そうされると、いくら勝訴しても、原告は賠償金を取れません。 

 その為、裁判が始まる前に、裁判所が被告の資産を凍結してしまうのです。

 勿論これは、そうそう簡単に行われることではありません。
 もしそうだったら、商売敵に対して片っ端から仮差押えを申請するだけで、相手を簡単に倒産させることが出来てしまいます。

 だから、裁判所がこれを認めるのは、特殊なケースの時のみであり――僕は、そのケースに当てはまってしまったのです。

 ただし、敗色濃厚だと裁判所が判断したのではないでしょう。
 それなら、H舎が同時に申し立てしていた、『仮処分』が却下されたこととの整合性が取れません。

 恐らくは、僕が外国人であるために、資産の海外移転が非常に容易であるから、でしょう。


 だから、即座に業務停止をさせられる『仮処分』に関しては、裁判所が認めないよう祈ってはいましたが、『仮差押え』に関しては、半ば覚悟していました。


 それでも。

 それが本当に実行されたことに、この時の僕と妻は、酷く驚きました。

 というのも。
 仮処分に関しては、「H舎の申し立てが却下された」という通達が来ていたのです。

 しかしこの仮差押えに関しては、一切そういうものがなかったのです。

 勿論、事前告知はありません。そんなものがあれば、告知を見た瞬間、資産を逃がしてしまうだけです。

 ですが、事後通知は必ずある。
 「お前の口座を凍結したぞ」という、裁判所からの通知が必ず来るはず。

 それも、通常の郵便ではなく、「特別送達」――本人が必ず受け取らねばならない形の、特別な配送がなされるものです。

 だから、ADHDにはよくあること――「届いていたのに開封していなかった」「気付いていなかった」なんてことは、まず起こりえないのです。

 そして、この通知がなかったのは、大きな問題でした。

 「仮差押え」は、原告の言い分に従い、裁判所が一方的に行うものです。
 しかし勿論、被告側にも抗弁の機会はある。

 通知を受け取り次第、すぐに「不服申し立て」を行うが出来ます。
 そしてこの言い分が正当なものだと裁判所が判断すれば、凍結は解除されるのです。

 けれども、僕の件に関しては、この「通知」がなかったせいで、「不服申し立て」の期間を逃してしまったのです。

 結果、仮差押えは確定されてしまった。

 よって、裁判の判決が出るまで、僕の口座は凍結されたままになってしまったのです。


 どうして通知がこなかったのか?

 その原因だけが分からず、僕と妻は、陳弁護士に尋ねます。
 陳弁護士も首を捻りましたが――もしかしたら、と言い出しました。

 そのアドバイスに従い、ある日僕は、塾兼自宅に移り住む前に住んでいた、古いアパートを訪れます。

 そのアパートの入り口奥には、管理人がいました。
 七十過ぎの男性で、朝から夕方まで、受付に座っているだけ。掃除なども一切しません。
 いつでも無表情で、挨拶をしても無視しますし、気に障ることがあったら大声で文句を言う――そんな存在ですから、僕と妻は、余り関わらないようにしていました。

 その管理人は、半年ぶりに会った僕を見るなり、通路の片隅を指さしました。
 僕は急いでそこにあったものを拾い上げます――数多くの、僕や妻宛てのどうでもいい郵便物の中に、案の定、裁判所からの封筒が混ざっていました。

 ――やはり、こちらに届いていたのか。

 僕は溜息を吐きました。

 「仮処分」は、僕個人ではなく、会社に関係することなので、会社にその通知が届きました。

 しかし「仮差押え」は、僕個人の問題ですので、僕の住所に送られます。

 そして勿論H舎は、僕と妻が塾に住んでいることを知りません。
 彼らが把握している住所と言えば、僕がH舎在職中に住んでいた場所だけ。
 だから、こちらに送られてきたのでしょう。

 それでも、この「特別送達」は、必ず本人に届けなければならないもの。
 今その住所には住んでいないと分かれば、裁判所に差し戻される筈です。

 ところが、そんなことは起こらなかった。
 郵便局員はその書類を管理人に渡して終わり、管理人はそれを通路脇に放置して終わり。

 かくして、『仮差押え』は、当人である僕が知らないままに執行され、不服申し立てすら出来ない内に確定されてしまったのでした。


 いい加減な社会だ、と僕は溜息を吐きます。

 ただ、それでも。
 ショックなどは、一切ありませんでした。

 むしろ――笑顔がこみ上げて来るのです。


 と、いうのも。

 民事訴訟の場合、被告の氏名や住所、口座情報など、全て原告が調べ上げなければなりません。
 警察や裁判所は勿論協力してくれません。

 ですから、H舎が裁判所に伝えた僕の住所が昔のものであったように――彼らが指定した僕の銀行口座もまた、普段全く活用していないものだったのです。

 だからこそ、それが凍結されたことにも、僕は一切気付かなかったのです。

 会社の売り上げは、当然会社が開設した口座に入っており、勿論それが凍結されるようなことはありませんでした。

 そして、僕の口座に入っていた金額は、百円程度なのです。

 それを凍結されたところで、ジュース一本が買えなくなるだけの話。


 そして、その一方で。

 通常であれば、口座凍結というのは、された方には大きなダメージが与えられるもの。
 その為、この「仮差押え」に関しては、申告した原告が、巨額の「供託金」を支払っておかねばならないのです。

 原告が勝訴すれば、供託金はすぐに全額返金されます。

 しかし、もし被告が勝訴してしまえば、「仮差押え」によって出た被害まで補償しなければなりません。
 それを、この「供託金」から支払わせるのです。

 そのため、この「供託金」は、大きな金額になります。


 そう。
 H舎は、僕の口座を凍結させるために、「供託金」を支払っているのです。

 しかも彼らは三千万円もの請求を行っている――その分だけ供託金も大きくなる。

 ――恐らく、三百万円ほど支払っているでしょう。
 陳弁護士が言いました。

 つまり。

 H舎は、三百万円ものお金を支払って、僕の口座を凍結したのです――百円しか入っていない口座を。

 流石に、笑わずにはいられません。

 ――ライオンはウサギを捕まえるのにも全力を尽くす、といいますしね。

 陳弁護士も笑います。

 勿論裁判が終了すれば、その三百万円は彼らにそっくり返却されますが、それでも、これは痛快です。

 H舎を知って二年半、彼らに関することで心から笑えたのは、初めてのことでした。


 そうして、笑っている内に。

 ついに、一回目の「口頭弁論」が行われる日が来ます。
 裁判所にて、お互いがお互いの意見を言い合う、初めての機会です。

 ただし、民事裁判ですので、被告の僕に出廷義務はありません。
 仕事もありますし、そもそもどうせ言葉が分からない。

 さらに言えば、初回の口頭弁論などは、お互い主張を読み上げ合うだけで、何も起こらずあっという間に終わるそうです。
 行く必要がありません。

 全てを陳弁護士に任せて、僕は仕事をして過ごします。


 そしてその夜、僕はとんでもないことを聞かされるのです。

 ――私自身は勿論のこと、三十年弁護士をやっている先輩でさえも、一度も聞いたことがないという事態です。

 陳弁護士は、驚きに満ちた声で、そう言ったのでした。

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