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四十二歳でやっと親離れをしたADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 8-12.

 台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業した僕は、十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。

 しかし、名義上の会社オーナーに据えていた、台湾人の元妻・リーファ、その母親・フォンチュや、妹・イーティンなどの裏切りに遭い、三千万円を超える資産と、会社の権利を奪われてしまう。

 その上、住居や携帯電話、就労ビザなど、生活に必要なあらゆるものも奪われてしまいますが。

 親からの借金を元手に、どうにか生活を立て直し、紆余曲折の末、再度自分の塾を創設。
 人事面で苦労はしますが、どうにか収益を上げられるレベルにまで持って行きます。

 その一方で、日本語の流暢な弁護士・章弁護士に力を借りて、フォンチュ・イーティンを刑事告訴、さらに民事訴訟も起こす。
 けれども、刑事でも民事でも、うまく行かない。

 第一審での敗北を覚悟し、第二審での逆襲をはかって、準備を始めます。


 けれどもそこに、父の訃報がやって来ます。
 八十歳での大往生。

 僕は仕事を部下に任せて日本に帰り、母と共に家族葬を執り行い。
 その後の手続きも完全に終えたところで、台湾に戻ろうとし。

 そこで、気付くのです。
 ――僕に、闘志がなくなっている、と。

 仕事をする気も、裁判を戦う気も、全く起こらないのです。

 

 勿論、父の死が原因です。
 それにより、僕は張り合いを失ったのです。
 
 けれども。
 それは、父を愛していたからではない。

 むしろ、その逆だったから。


 少年時代の僕は、ひたすらに父を憎んでいました。

 父は、地方公務員で、毎日六時過ぎには帰宅し。
 煙草を吸いながらビールを飲み、プロ野球を眺めて過ごす。

 僕を褒めることは一度とてなく。
 ただ叱るだけ、ただ馬鹿にするだけ。

 いや、それは僕だけでなく。
 仕事をしつつ甲斐甲斐しく父の面倒を見る母も。
 灘校でずっと首位を張り続ける本物の天才児であった兄も。

 彼にとっては、馬鹿にする対象でしかなかったのです。

 ただ、自分に自信のある母も兄も、そんな父を適当にいなしていましたが。

 ADHDであるがために、何一つうまく出来ない僕は。
 整理整頓も出来ず、忘れ物や落とし物ばかりで、授業も聞けず、机にも向かえない僕は。
 スーパーエリートばかりだったクラスメイトとも、まるで良い人間関係を築けず。

 誇るものを何一つ持っていなかった僕は。

 父の嘲笑一つ一つが胸に刺さってしまい。
 劣等感をどんどん増幅させてしまい。

 自殺を考えるようになり。
 しかし、そんな勇気も持てず。

 結果、父を激しく憎むことで。
 徹底的に馬鹿にすることで。

 馬鹿の言うことなんて、聞く必要がない、と思うことで。
 どうにか自尊心を保とうとしたのです。

 でも、その一方で。
 僕は、その馬鹿にしている相手に養われている、という事実が。
 その相手に大金を出して貰って、私立中学高校に通わせて貰いながら、まるで勉強をせず、そのお金を完全に無駄にしている、という事実が。

 ますます僕自身を惨めに思わせ。

 結局僕は、父だけでなく、自分自身をも憎み。
 そんな現実に耐えられず。

 ゲームや読書といった、現実逃避だけで日々を送る。
 そんな、鬱屈した少年時代を過ごすしかなかったのでした。


 そして。
 大人になり、自由を手に入れた僕は。

 心まで自由にはなっておらず。

 思っていたのです。
 ――父を見返してやる、と。

 僕は本当は有能な人間で。
 僕は本当はタフな人間で。

 そういう自分を、父親に見せつけたくて仕方がなくて。

 本来は、ものぐさで、自信の欠如した人間であるのに。

 そんなことお構いなしに、ひたすら無謀な挑戦ばかりしてきたのです。


 とはいえ、勿論。
 大人になってからも、そんな想念に取りつかれていたわけではない。

 勿論、兄の葬儀の時や。
 台湾人妻を引き合わせたりした時には。

 短い実家滞在だったのにも関わらず。
 僕が多少反抗する力を得ていたせいもあって、父との諍いはより酷い物になってしまい。
 ますます憎しみの念が募ったりもしたのですが。

 そんな思いも、数日あれば忘れ去り。


 特に、台湾で仕事を始めてからは。
 その日その日を生き抜くのに必死で。
 父親のことを思い出すことも、殆どなくなっていて。

 時折、何かのはずみに父の姿が意識に浮かんでも。
 不快な感情こそこみ上げて来るものの。
 憎しみや怒り、というものはどこにもない。

 それは、父が晩年に近づき。
 癌の摘出手術を受けたり。
 酷くやせ細ってしまったり。

 僕を見ても、馬鹿にするような言葉を発さなくなってしまったりしてからは。

 最早、父は憎むべき対象ではなくなっており。

 さらに。
 父の入院中、父の部屋から、精神科の診察券を発見した時は。

 ――父も苦しんでいた、ということに気付いてしまう。


 そう。
 彼もまぎれもなく、僕同様、発達障害を持って生まれた人間で。

 整理整頓が出来ず。
 他人とうまく喋れず。
 不注意から来るミスばかりで。

 でも、発達障害の存在など、誰も知らない時代の中で。
 ただただ、だらしのない駄目な人間だと見なされてしまい。

 友人も出来ず。
 家族にも疎まれ。

 ただひたすら苦しみながら。

 自分と似たような存在で、そして自分より弱い存在である僕を、ひたすらに嘲笑することで。
 何とか自分を保っていたのでしょう。


 それに比べると。
 大人になってからであるとはいえ、自分の障害をどうにか理解し。
 その障害と、ある程度はうまく付き合うことが出来て。

 しかも、高度な学歴という、誰にも奪われることのない武器を持たせてもらった、僕は。 

 父よりも、遥かに恵まれた人間なのです。


 しかも。
 父はそんな苦しみの中にいながら。

 子供二人を育て上げ。
 しかも、立派に定年まで勤めあげたのです。

 父は、僕などよりはるかに立派な人間なのです。


 そう気付いた僕には、最早。

 父への憎しみの念など、一切浮かぶことがなく。

 けれども流石に、大事に思う、ということは出来ず。

 ただただ、悲しい人なんだな、と。
 そう思うだけだったのです。


 ――それなのに。

 その父の死は、思いがけないほど、大きな影響を僕に与えます。

 


 どうやら。

 顕在意識の中では、父への憎しみは小さく小さくなっていても。
 潜在意識の中では、それは厳然と存在し続けていた、ということなのでしょう。

 感受性豊かな十代を、余りに辛く過ごしたが為に。
 僕はそれに、しっかりと囚われてしまい。

 その辛さから逃れるために。
 自由になる為に。
 ただただ、足元も見ずに、走り続けるしかなかったのでしょう。


 ――でも。

 父の死によって、僕を追いかけるものはいなくなり。

 四十二歳の僕は、ついに、親離れを果たしたのでした。

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