コミュニケーション能力が低い発達障害が、それでもうまくコミュニケーションできる場所 【ADHDは高学歴を目指せ】
28.
若い頃の僕は、「コミュニケーション」がとにかく苦手でした。
何を喋ればいいか。どう喋ればいいか。あれを言ったほうがいいのか、これは言わないほうが良いのか。
どう話せばよいか分からず、話始める前から、頭は混乱し。
ちゃんと伝わっているだろうか。この反応はどういう意味だろうか。怒っているのだろうか、笑っているのだろうか。
相手のことを考えすぎて、話している途中でも、頭が混乱する。
一対一でこれなのですから、大勢の人を相手に話をする場――ミーティングなどは、本当に苦手で。
「場の流れ」を読み取りながら、自分の発言するべき内容を考え、適切にまとめ、タイミングよく発言する――そんなことが、出来るはずもない。
そして、それが出来ていない自分に気づき、さらに焦ってしまう。
そうして、パニックに陥った僕に出来ることは、ただ、支離滅裂な内容を、ぼそぼそと口にするだけ。
周囲からは、微妙な反応をされたり、馬鹿にされたりするだけ。
その後、たまらぬ羞恥を覚え、後悔し、反省し、そして自分を笑った連中に対して強い怒りを覚える。
そんな繰り返しでした。
勿論、ある程度の年齢になってからは、そんな失敗もめっきり減りましたが。
これは決して、僕がうまく喋れるようになった訳ではない。
ただ、「黙って笑っている」ことを覚えただけ。
若い頃は、自分が失敗する可能性が高いことを分かっていながらも、「目立ちたい」「驚かせたい」「自分を認めさせたい」という欲求に勝てず、とにかく口を動かしていたのですが。
年を重ねて、そんな意欲が薄れたお陰で。
「失敗したくない」「失敗する必要がない」と判断し、口は開かなくなり、笑顔が出るようになった。
ただし勿論、これは別の問題を産むだけの行為。
黙っていることが出来るようになっただけで、「何も思わなくなった」訳ではないのです。
頭の中ではいろいろなことを考えている。
でも、黙っている。
これでは、その「話し合い」が無事に終了するだけで。
僕の意思が一切関与しないことにより、話の流れが、僕の意に反するものになるケースは多い。
そうなると、僕はそれにストレスを感じてしまう。
もっといい意見があるのにな――一切口に出さないくせに、内心では強い不満を覚えてしまうのです。
結局、僕が口を閉ざしたことは、他人に貢献出来ない上に、自分にも被害を与えているだけ。
これならまだ、愚かなことを口にして、大いに恥をかいていた若い頃の方がマシです。
他人の役には立ちませんでしたが、僕自身は、反省と後悔を通じて、多少は成長出来たのですから。
と、こんな具合に。
「コミュニケーション」がひどく苦手なまま生きてきた僕ですが。
それでも、自分の人生を思い出してみると。
「特定の環境」においては、僕のコミュニケーション能力は、むしろ普通の人よりも高いものであったのではないか、と思えるのです。
その「特定の環境」は、三つほどあり。
一つは、「異邦人」として、他国(特に途上国)で外国人を相手にしている時。
英語圏はともかく、それ以外の土地であれば、僕が言葉を喋れないのは当たり前、現地の文化を理解出来ないのは当たり前。
だから、口下手であっても、問題視されないし。
何より、僕が伝えようとしていることを懸命に理解しようとしてくれるケースが多い。
母語である日本語を用いて、同胞である日本人相手に喋る――ことがうまく出来ないくせに。
外国では、コミュニケーション能力が格段に上がるのか。
言葉の通じないチベットで、巡礼者達と共にヒッチハイク旅をやってのけたり。
外国人女性と結婚をしたり。
外国で会社を経営することすら出来たのです。
二つ目は、「先生」として、教室で子供を相手にしている時。
勿論、最初からそれがうまかった訳ではありません。
大失敗し、生徒に泣かれたり辞められたりした経験は無数にあります。
それでも、高学歴であることが幸いし、どれだけ失敗しても、チャンスは与えられ続け、経験を積み重ねて行く内に。
僕自身の中身が子供に近い分、子供の心理は読みやすいものだし。
子供側が僕に対して多少の敬意をもって接してきてくれるし。
僕がミスをしても、気づかれないことが多いし。
そういった点が、僕に有利に働き。
余裕をもって喋ることが出来て。
そうやっている内に、「授業がうまい先生」という評判を得ることが出来たのです。
僕がうまく話すことの出来た三つ目の舞台は、僕が経営していた会社のミーティングです。
勿論最初は、大人相手にうまく喋れませんでしたが。
四、五年ほど経つと、ペースが掴めるようになりました。
とにかく、思いついたことを適当に喋る。
それは未熟な意見だったり、明らかに間違っていたりすることは多いのですが、それでもとにかく口にする。
頭に浮かぶままに、さらに喋り続ける。
勿論、部下の表情は多少は気になるのですが。
そもそも、僕の会社は、外国にある零細企業。
社員のほとんどは、「外国に住みたい」「外国で仕事をする経験をしたい」という程度の意識しかなく、実際、一、二年で去って行く人たち。
つまり、仕事に対してそれほど真剣ではない。
ワンマン社長で、そこ以外に居場所の一切ない僕だけが、必死だったのです。
だから、僕のどんな言葉に対しても、それほどの反応を見せない。
そうして、気ままに喋っている内に。
自分の意見を、適度に客観視出来るようになるのでしょう。
徐々に、頭の中も、喋る内容も、どんどんまとまって行く。
それまで一人でどれだけ考えても、分からなかったこと、思いつかなかったことが、次々分かってくる、浮かんでくるのです。
そして、多くの場合、そのミーティングをうまくまとめることが出来るのでした。
かくして。
コミュニケーションが苦手な僕でも、こういう特定の環境においては、社会の一員として堂々と存在することが出来たのです。
この経験を通して、ようやく、僕は気づきます。
コミュニケーション能力に関しても、結局のところ、「失敗を許される」環境が大事だったんだな、と。
これまで僕は、「発達障害は普通の人よりもはるかに多くの『錯誤』をする分、その回数に負けない『試行』をしさえすれば、(時間と労力がかかるが)かなりの試行錯誤を経ることになり、結果、普通の人よりも高い能力を持つことがある」といったようなことを主張してきましたが。
コミュニケーションに関しても、まったく同じで。
外国、子供相手、自分の会社という、僕の愚かな発言を許してくれる環境に飛び込んだお陰で、コミュニケーション能力をある程度伸ばすことが出来たのだろうな、と。
そして、さらに思います。
多くの人は、子供時代にそういう経験をして、コミュニケーション能力を伸ばしてきたんだろうな、と。
子供時代の彼らは、様々な発言をし。
そこで叱られたりしても、口を閉ざす必要まではなく、またいろいろな発言をする。
そこでまた叱られたり、今度は褒められたりする。
そういう失敗成功を、子供のうちに繰り返して。
大人になるころには、適切なコミュニケーションが出来るようになっていたのだろう、と。
それに対して、僕は。
物心つくまでは、勿論自由気ままに喋っていましたが。
まだ自分の「錯誤」を自覚できない年齢ですから、それで成長することは殆どありません。
そして、ようやく「錯誤」に気づけるだけの年齢に達した時には。
残念ながら僕は、自由に話すことが出来ない環境にいました。
発達障害のくせに、灘校という、天才集団の中に入ってしまったせいもあるだろうし。
僕と同じ発達障害を抱えた父親が、ストレスを子供にぶつけ始めたせいもあるでしょう。
典型的な発達障害で。
忘れ物なくし物ばかり、授業も聞けずノートも取れず、いつでもそわそわしている。
そんな十代の僕は、毎日毎日、何をしていても、何を言っても、馬鹿にされることばかり、怒られることばかり。
ただひたすら、「失敗」しかないのです。
それでもどうにか「成功」をしたかった僕は。
必死に頭を働かせるのですが――結局、冒頭に書いた通り、考えすぎてパニックに陥っただけ。
どれだけ試行を行っても、錯誤しかなく。
成功することが殆どない。
こんな状況下では、コミュニケーション能力が伸びるのは非常に難しいことでしょう。
そういう人生だったのですから。
もう、どうしようもありません。
発達障害に生まれ、それを否定される環境で生きてきた僕は。
コミュニケーション能力が低いのも、仕方のないことで。
生涯、劣等感を抱えて生きていくしかない。
――と、思う一方で。
小さい頃に、適切な試行錯誤をして、コミュニケーション能力を伸ばした人たちは、日本社会でしっかりやって行けるのでしょうが。
その一方で。
途上国だったり、子供相手だったり、外国に作った自分の会社だったり、という特殊な状況では、彼らは、それほどうまくはやれないのかもしれない。
そう思うことで。
発達障害にも良いところは必ずあるのだ、と。
少し自分を慰めたりもしています。
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