ヒマラヤの山中、永遠に残るもの 【ADHDは荒野を目指す】
6-14.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
仕事も辛く、生活も潤いがない。
そんな毎日に耐えきれず、僕とは友人の津村と共に、ネパールにトレッキングに出かけます。
そして、風景を楽しみつつ、順調に高度を上げ続けていたのですが。
平和な日々は、左右に融けない雪や氷に囲まれ始めた頃ーー標高五千メートルを越えた頃に、不意に終わることになります。
徒歩で進むのですから、一日に稼げる標高などたかが知れている。
だから、高山病に弱い僕であっても、今回は大丈夫だろう。
――そう思っていたのですが。やはり、標高五千メートルの世界というのは、甘いものではありません。
その辺りから、僕はひどい頭痛を感じるようになったのです。
幸い、吐き気を感じることはなく、その頭痛自体、片頭痛の時に服用する薬で治めることは出来たのですが――数時間すると、またぶり返してきます。
それでも、所持する薬の量にも限りはあるし、あまり飲み過ぎる訳にも行かない。
苦痛が限界まで達した時にしか、それを服用しないことにします。
一歩進むだけで、頭にズシンと響く痛みに耐えながら。
それでも僕は、登り続けます。
それしか選択肢はないのです。
仲間と別れて山を降りるとなれば、当然、僕は一人、自分の荷物を背負って行かねばなりません。
しかも、人力のみで開拓された山道は、トンネルやショートカットなどなく、曲がりくねっている上にアップダウンが激しいーー登山中でも、下り坂は幾つもありました。
つまり、下山中にも、何度も登らねばならないということ。
それは相当に厳しいーーいや、不可能でしょう。
勿論、津村にも登山を断念してもらい、共に降りる道もあるにはあったのでしょう。
それなら、僕は荷物を運ばずに済むのですから、無事に下山出来るでしょう。
でも、その時の僕の頭には、そんなアイデアは寸毫も浮かびません。
他人に迷惑をかけてしまうーーそんな事態が、何より嫌いなのです。
責任感が強すぎるからではない。
他人に不快を感じさせることが何より怖いからです。
勿論、もっと楽なリタイア方法は、なくはない。
車道などない世界、車を呼ぶことは出来ません。
チベット旅の時のように、金持ち中国人のランドクルーザーも、巡礼者を載せたトラックも来ない。
ただその代わり、ヘリコプターを呼ぶことなら、簡単に出来るのです。
実際、ルクラ空港には何台ものヘリコプターがスタンバイしていて、遭難した登山者のみならず、足を挫いたり高山病にかかったりしたトレッカーなどが連絡すると、すぐに駆けつけてくれます。
現に、毎日何度もその爆音が聞こえて来る。
でも、僕にはこれも難しい。
恐らくヘリコプターは、僕の元には来てくれない。
というのも、ヘリコプターを呼んだ際、必ず聞かれるのですーー保険の有無を。
もし加入している保険がなければ、ヘリコプターは飛ばないことも多いらしい。
何せ、その費用は百万円ほどかかるのです。
しかもこちらは外国人ーー踏み倒しが容易な立場です。
幾ら死にかけていても、保険の書類だけは握りしめておけーーそんな言葉を聞いたことさえあります。
けれどもーーそう、僕は保険になど入っていない。
そもそも旅立つ直前まで、ヘリコプターが必要になるような危険な場所には行かず、途中で引き返すつもりだったのです。
万事適当なADHDが、大急ぎで保険を手配しようーー必要かどうかも分からない、高額な商品を購入しよう、なんて思う筈もない。
四十前の社長になっても、二十代バックパッカーだった頃と同様、計画性もなく生きているのです。
徒歩での下山も辛く、ヘリコプターなどの乗り物もないとなると、
荷物を運んでくれるポーターのジーベンと、僕のことを気にかけてくれる津村と共に、僕は登り続けるしかなかったのです。
苦しい日々になります。
頭痛薬が効き始めるまでは、亀のようにゆっくりゆっくり進むしかない。
それは効き始めたところで、痛みがなくなっただけ。体の疲労、呼吸の苦しさは何の変化もない。
一歩一歩、踏み締めるように登り続けます。
そしてこの辺りまで来ると、随分人影もまばらになります。
標高三千メートルあたりには、トイレにすら行列が出来るほど大勢いたトレッカー達も、予定通りなのかアクシデントのせいなのかは分かりませんが、どんどん登山を中断して引き上げて行くのです。
そもそもトレッカーの多くは、ロシア人と中国人でしたが。
恐らく、ロシア人はウォッカを飲みすぎて倒れ、金持ち中国人はちょっとしたトラブルで気軽にヘリコプターを呼んで帰って行ったのだろうーーなどと、推測したりもしましたが、本当のことは勿論分かりませんが。
とにもかくにも、道中殆ど人を見かけなくなる。
ヨロヨロ歩く僕を追い抜く人もいない。
人工物もなければ、人もいない世界。
岩と雪と氷。
青や藍を通り越して、黒ずんですら見える空。
聞こえるのは、吹き荒れる風の音と、時折の遠くの雪崩の音だけ。
荒野の中を。
半ば朦朧とした意識のまま、ジーベンと津村の背だけを追って、僕はただ歩き続けます。
突然、前を行く津村が道を大きく外れたことがありました。
何をしているのだろう?
不思議に思いながらも、さして気にせず、ジーベンの後を追って歩き続けていると、やがて戻ってきた津村が追いついて来て、言います。
ーーやっぱり野糞は気持ちがいい、と。
汚いな、臭いし迷惑だろ、そう言う僕に、津村は言い返します。
ーーこんな場所でウンコを踏む人なんていないし、すぐに乾いて匂いもなくなるだろ。
ーーそしてそのまま、俺のウンコは永遠にここに存在し続ける。
なるほど、と僕は頷きます。
そして、若い頃に旅したチベットのことをまた思い出します。
あの時僕は、夜ごとに、巡礼者達と共にウンコを拾い集めていました。
何日、何ヶ月、何年前に排泄されたものか分からない、乾燥しきったヤクの糞を、火をおこす燃料にするために。
また、僕達のいる場所のすぐ近く、標高八千メートルの世界には、登山中に亡くなった人の死体が、幾つもそのまま転がっている、という話を思い出します。
極地であるため、下ろすことも出来ず、埋めることさえ出来ないままに。
有機物を分解する微生物すら存在しないこの荒野では、そして火をおこそうとする巡礼者すらいないこの荒野では、人糞はおろか、人の死体すら、朽ち果てることなく、ずっと存在し続けるのです。
全てが目まぐるしく移り変わり、全てがあっけなく消えて行く、街とは違って。
そう思うと僕は、津村が無性に羨ましくなりーー痛む頭を抱えながら道を外れ、物陰に座り込むと、ゆっくズボンを下ろしたのでした。
永遠に残るものを出すために。
そして、ルクラ空港に降り立ってから、約二週間後。
僕と津村は、ついに目的の場所に辿り着きました。
標高五千五百四十五メートル、カラパタールという山の頂上に。
ーーけれども。
その時の僕には、大きな喜びもなければ。
達成感すら、なかったのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?