発達障害は、「可愛くないウーパールーパー」だ。 その① 【ADHDは高学歴を目指せ】
38.
「竜と流木」という小説を読みました。
南洋のある島を舞台にした、バイオミステリー小説です。
非常に可愛らしい外見・おとなしく人懐っこい性格をもった、水棲の両生類・ウアブという生物に魅せられた主人公は。
ウアブの生息する島で、保護活動に従事するのですが。
その島に、突如、凶暴な巨大トカゲが発生します。
非常に醜悪な姿をしたそのトカゲは、隙を見て人に噛みつく。
噛みつかれた人は、傷口から体に菌が入ってしまい、適切な治療を受けないと、命を落とすことさええ珍しくない。
そんなトカゲの脅威に怯えていた主人公は、しかし、その死体を手に入れたことで、その正体を知ることになります。
それは、トカゲなどではなく。
彼が懸命に保護していた両生類・ウアブの、成体の姿だったのです。
ウアブの、水の中で生活することや、その可愛らしい外見・おとなしい性質などは、あくまでも幼体の時のものでしかなく。
成体になると、地上に上がり肺呼吸をし、非常に醜悪かつ攻撃的な生物へと変態してしまう。
ウアブとは、そんな生き物だったのです。
主人公が、保護運動をするほどその両生類を愛していたのに、その変態について一切知らなかったのは。
ウアブは、普通の環境下では、決して成体にならなかったから。
普段は、幼体時の非常に可愛らしい外見のまま大人になり、繁殖さえも行っていたのです。
こんな生態ですから、「変態をする」という可能性を考えることすらないのも、当たり前のことでした。
そして、そんなウアブが、突如変態を始めてしまったのは。
保護をするという目的で、主人公が、ウアブにより良い環境を与えてしまったがため。
その環境変化が引き金となり、ウアブは、凶暴な成体へと変貌を遂げたのです。
自分の責任を痛感した主人公は。
そのウアブの成体を駆除しようと、戦いを始めるのです。
――そういう話です。
その話の筋、描写、ともに非常に面白いもので、本当に楽しい読書体験だったのですが。
その中で僕は。
「幼体のまま成熟する生き物がいる」という記述に、疑問を抱きます。
こんなことがあり得るのか?
言ってみれば、オタマジャクシがカエルにならず、オタマジャクシの外見のまま生涯を過ごし、産卵まで行う、というのです。
そんな生態であることで、オタマジャクシには、何の得があるのでしょうか?
折角、手足を持ち、俊敏に地上を跳ねまわることの出来る生物・カエルになる潜在能力を持っているのに。
その能力を発揮せず、四肢のないな幼体のまま、水中に居続ける。
そんなことなど、何の意味もないように思えます。
だから僕は、この記述はあくまでもフィクションなのだろう――そう思いながらも、念のためにインターネットで調べてみたところ。
幼形成熟=「ネオテニー」と呼ばれる現象は、実際の生物界にもちゃんと存在する、ということを知るのです。
しかもその代表例は、僕が――というか、昭和末期を過ごした日本人がみな、良く知っている生き物。
あの、ウーパールーパーだったのです。
つまり。
ウーパールーパーのあの可愛らしい外見は、あくまでも幼体の時のものでしかない。
成体になると、お世辞にもかわいいとは言えない――ある意味魅力的ではあるのですが――イモリやサンショウウオのような外見になり。
水中から出て、陸上生活を送るようになるのです。
可愛らしいオタマジャクシが、醜悪なカエルになって地上に飛び出すように。
ただ、全てのオタマジャクシが、カエルになるのとは異なり。
自然環境下で、ウーパールーパーが成体になることは、ごくまれだとのこと。
殆どのウーパールーパーは、その姿のまま産卵し、死んで行くのです。
僕の読んだ「竜と流木」に登場するウアブは、ほぼ間違いなく、このウーパールーパーがモデルで。
幼体の可愛らしさはより強調し、その成体にはより凶暴な性質を付与することで、様々な出来事が起こるようにしたのでしょう。
生き物と言うのは本当に不思議ばかりだ――僕は感心します。
けれども。
と、なると、先に抱いた疑問が舞い戻ってきます。
「幼体のままで成熟することに、いったいどんな利益があるのか」ということ。
人間を含めた生物が、「利益のないこと」を行うことは決してない、と僕は思っています。
つまり、幼体成熟にも、必ず何かの利点がある。
そこで、このネオテニーについてさらに調べている内に。
イヌも、一種のネオテニーだ、という説に行き当たります。
イヌは本来、オオカミの仲間です。
けれども、その成体は大きく違う。
オオカミは、非常に狡猾で残酷な生き物で。
家畜のみならず、人間が殺されるケースも多くあったと聞きます。
けれども、そんなオオカミでも、幼体の頃の性質は、穏やかなもので。
好奇心豊かで恐れを知らず、考え方は柔軟で、環境適応に秀でている。
この、幼体の時の個性を残したまま成体になる――そうして、生涯好奇心豊かで、どんな環境にもすぐに適応する、人間のよきパートナー、「イヌ」が生まれたのだ、と。
なるほど、と僕は思いました。
確かに、僕の飼い犬を見ていても。
老犬と呼ばれる年齢に差し掛かっても。
靴下等、どうでもいいものを取り込んだり。
取り返そうとしたら必死に抵抗してきたり。
家にやってきた人、物の匂いチェックを徹底的に行ったり。
テレビに映る恐竜に吠え掛かったり。
また、新しい家に越しても、すぐに間取りを覚え、トイレの場所を覚え。
新しい同居人が出来ても、すぐに懐き、遊び相手にする。
見た目こそ多少変わったものの、成犬としての落着きや頼りがいなど、一切なく。
好奇心豊かで、環境順応力は高いまま――幼犬の時とそれ程変わらない可愛さのままでした。
この不思議な生物を。
「オオカミのネオテニー」だと――つまり、体は大人になっても、ずっと幼い精神状態のままのオオカミだと考えれば、理解が出来るような気がしました。
そして。
気づくのです。
発達障害――ADHDである、僕も。
「人間のネオテニー」なのではないか、と。