子どもはすでに主体的に考えている

 なんでもかんでも教えることはよくない。
詰め込み・ゆとり教育の反省を踏まえ、教育現場では自分で考えられる力を育むことが求められていると思います。そこから、では、どのようにすれば子どもたちは自分たちで考えられるようになるかということが議論されるようになっていると思います。
 
 単に黒板を用いて知識を教えるだけでなく、グループディスカッションを増やして考える力を養っていく試みやテストも記述式の問題を増やして考えを表明させる機会を増やす試みがあるように思います。
 
 ただ、一塾講師として普段から、子どもたちとかかわっていて思うことでいうと、
 結論、子どもたちはすでによく考えているように思います。
 こちらからなにかをいわなくとも考えているように思います。
友達のこと、勉強のこと、将来のこと。かなり考えているように思います。
もっといえば、そうした悩みに対する解決策まで考えているように思います。
 
 こう言うと、いや考えていないと言う人が多くいるように思うのですが、そうした方には自分が子どもだったころを思い出してほしいです。
なにかしらは考えていませんでしたか。たしかに現在大人になった自分と比べると、子どもの自分は経験もなく知識もないため、思考力は低かったのかもしれません。それは否定しませんがしかし、少なくとも何かは考えていたように思います。
 
 そもそも考えていないという人はいるのでしょうか。
人は何かを「考える」ということ自体は教わっていないように思います。
本、学校、人を通して教えていることは考える「内容」であって、考えることそのものは教えていません。
こうすれば考えられる、といったことを教わった人はいないように思います。
そうしたことを踏まえると、考えること自体は生まれつき持っている能力なのではないでしょうか。
 
 自分で考えるという力は子どもであれすでに有しているように思います。
 
 ではなぜ自分で考えられるような人を育てようという動きがあるのでしょうか。
正直なことを言うとそうした動きがあること自体よく分かりません。
ただ、以下に自分なりの考えを記述したいように思います。
 
 
 
 結局、「いい考えを自分で考えられるような人」を社会は求めているのではないでしょうか。
単に考えられるのではなく、いい考えを作れる人を求めているように感じます。
 
逆に言うと、役に立ちそうにもない考えは別に求めていない。
そうした社会的な暗黙の了解があるのではないでしょうか。
 
 
 指示まち人間と呼ばれるひとがいます。指示待ち人間とは、誰かからの指示がないと動くことができない人をさすわけです。言われてようやく動けることから一般にこうした人間は自分では考えることができないとされています。
 
 しかし、自分はそうした指示待ち人間もなにかしらは考えているように思います。
日々、自分が行う業務に関して考えていること、少なくとも思うことはあるように思います。
 
 ただ考えている内容を「いい考え」とは思えない、もしくは言う必要がないと判断し、自分から動こうとしないのではないでしょうか。自分が考えたことよりも上の人から言われたことのほうがいいと判断し、指示を待ってしまう。もしくはそもそもその職場が自分の考えを受け入れる環境ではないのかもしれません。
 
 「いい考え」が求められるがゆえに主体性が損なわれてしまう。
いい考えをもとめるというのは一般に考えて当たり前なのかもしれませんが
しかし、主体性を求めるという視点に立つと弊害となりかねないように思います。
 
 
 そして実は子どもたちにも「いい考え」を求めているのではないでしょうか。
 
 
 指導中、子どもたちと話をしていくなかで、そのなかには、子どもということもあって、大人からするとつたない考えが目立つことが多いように思います。自分も塾の教え子と話をしていて、単純なことを話しているなと思ったり短絡的であるなと思うことがあります。
 
 ただそう思ったときについ口をはさんではいないでしょうか。
子どものいったこととは違う視点で何か意見を言ってはいないでしょうか。
 
 
 その口をはさむという行為はアドバイスとしてなのかもしれません。心配で相手のことを思ってのことなのかもしれません。
または、その子がさらに考える上でのヒントとして言ってあげているのかもしれません。
 
 そうした相手を思いやる気持ちは大切であるとは思いますが、
しかしそうした口をはさむという行為の背景にも、
やはり「いい考え」を追求したいという思いがあるのではないでしょうか。
 
 子どもが話していたことよりも、もっといい考えが自分のなかにあると思うからこそ、つい口をはさんでしまうのではないかと思います。
 
 きっと口をはさんだその意見はいい考えなのだと思います。なぜなら子どもが考えたこととは異なり、大人がそれまでの経験と知識を用いて作った考えだからです。
 
 指導する側としては、子どもに良い意見を伝えることができたためそれはよかったのかもしれません。
 
 しかし、まさにそのいい考えを伝えるということが、
子どもの主体的に考えていくという力を阻害する結果をもたらすのではないでしょうか。
 
 子どもからすれば、せっかく自分の思いや考えを話してみたが、自分の考えは通らなかったということになります。それに自分のよりも優れた意見が述べられてしまったことになります。
 こうした経験から子どもたちは、その先自分の考えに価値や意味を見出せなかったり、またいい考えでなければ口にだしても意味がないという思いをいだいてしまうのではないでしょうか。
 
 それが結局は、考えられているにも関わらず、主体性を欠く子どもたちや自分では考えることができないと思われる子どもたちを生み出すことになるのではないでしょうか。
 
 自分で考えられる子を増やしていくためには、一度「いい考え」を求めることをやめる必要があるように思います。そしてそれに伴う、考えに対する口出しをやめる必要があると思います。
 聞いている側からしてその意見が全然いいように思えなくても、主体性を重んじるのであればその意見を尊重させたほうがいいと思います。そうしないと話し手が自分の意見を述べることに意味を見出すことやモチベーションを抱くことができず、主体性がなくなってしまう恐れがあるからです。
 
 意見を尊重して失敗したらどうするのか。と反論されるかもしれません。特に子どもであれば余計にそうなるのかもしれません。
確かに、法律に触れる失敗、身を滅ぼしかねない失敗が想定される場合はそれを避けるよう促す必要はあるように思います。
 
 
 しかし、自分から気づいていくように思います。
自分が作った考えがよくなかったということはこちらから言わずとも、その考えをもとに行動し、そして失敗することで自ら気づいていくように思います。そのため、こちらからわざわざいい意見は言う必要はないと思います。
こちらからいい考えを与えるのではなく、自分から気づかせてあげることが大切であるように思います。なぜなら行動したことでまずチャレンジができたこと、そしてそこから失敗に至るまでの過程がすべてその人の経験値となるからです。また、失敗したことで次の行動に対して反省点や修正点を持つことができるからです。
こうしたことも先にいい考えを言ってしまうと経験できなくなってしまいます。
 
 
いい考えを出すことが大切なのではなく、
その子が自分の考えを出すこと自体がいいことだと思います。

 
 
 子どもたちはすでに考えを持っています。
その考えがスムーズに出てくるように接してあげればいいように思います。
 
 いい考えを求めず、口を挟まずに話をきいてあげられればいいように思います。
 つたなくても、それは失敗すれば本人が気づいていけると思います。
ただそのためにも、よくない考えや失敗を許容できるような環境を用意する必要はあると思っています。

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