髭を生やした女性が主人公の映画「Rosalie」を鑑賞する
数週間前まで、「そういえば随分、じっくりどっぷりと浸かれるタイプのフランス映画が放映されていないなぁ」と思っていたところ、どどどっと大波が押し寄せるように複数のフランス映画が公開された。
ただ、残念なことに、この大波の時期にシマ子が気に留めているイベントがいくつも重なったのと、晩春の締め括りに遠出をしよう、とラストミニッツの誘いがあったり、はてまた体調不良だったり、と様々な理由により、観ようと思っていた幾つかの映画を逃してしまった。
"逃す"、つまりアバウトに言うと「興行収入が良くなく2週間で上映が終了した」ため、もしかしたら観ることが叶わなくてよかったのかもしれないが、それでも残念には違いなく、今回見た映画は、それがたとえ冴えない結果になったとしても、外すわけにはいかなかった。
今回観た映画のタイトルは「Rosalie」という。
Clémentine Delait(1865, Chaumousey - 19/04/1939, Épinal)という実在したひげを蓄えた女性の人生にインスピレーションを得て制作された映画である。
そもそもなぜ、この映画に注目したのか。
それには訳がある。
私が小学校高学年の頃、クラスメイトに色黒の少女がいた(彼女をAとしよう)。道産子ゆえ、クラスメイトの大半が色白だった中、Aの肌色は南米人のそれに近く、かなり目立った。
私は子供の頃から空想好きで、ピアノの練習以外の時間は、駐輪場の屋根の上でぼーっと空を眺めているような子だったため、周囲とはかなり異なる外見をしたAに自ら声をかけられなかったが、今でもたまに連絡を取り合う当時の友人が社交的、かつ容姿で差別することのない人物だったため、いつからか彼女と一緒にAの家に遊びに行くようになった。
Aは当時、クラスの男子たちから酷いあだ名をつけられてからかわれていた。そのあだ名は非公表とするが、とにかく、そんな呼び方をされたら絶対に嫌だな、という類のものだ。裕福な家庭の少女ゆえ、「いじめ」ではなく「からかわれ」の部類に入れられていたが、当初はそのあだ名の出所を知らなかった私も、Aの家に通うにつれ、気づくことになった。
Aの顎の下とすぐ裏側には、黒い細い毛がふさふさと生えている、ということを。。。
そしてAは、高学年になってから、それを隠すために次第に剃るようにしていたが、以前は生えたままにしていたことを。。。
「Rosalie」のあらすじを読んだすぐ後に、30年以上思い出しもしなかったAのことが脳裏をかすめ、「そうだ、多毛症というのは聞いたことがあるけれど、今思えばAもこれだったのかもしれない。今どこで何をしているのかは知らないけれど、元気にやっているといいな」という郷愁にも似た思いと共に、この映画が観たい、と強く思ったのだった。
映画内では、うらぶれたカフェを救う作戦として、Rosalieが数少ない常連客と「私に髭が生えたならいくらくれるか」という賭けをし、1か月後に見に来るように、と告げる。髭と体毛があるからと見向きもしてくれない夫のAbelのために、Rosalieは自らの意思で客寄せパンダになるわけだ。
だがそれが功を奏し、カフェは大繁盛する。
その後、写真家の目に留まったRosalieは、様々な衣装でポーズを取った絵葉書を作って売り、有名になっていくが、一方ではそんな彼女をよく思わず、貶めようという男がいる。その男とのもめごとで怪我をしたRosalieを診た医師の発言により、彼女の身体について知ったAbelは、次第に愛情を抱きはじめ・・・とネタがばれないうちにやめておくことにする。
この作品では「差異に対する反応の多様性 」をメインのテーマとしていると思う。
私たち鑑賞者は、この映画を観ることで、私たちの身近にある、または世界で繰り広げられている、差異によって生じている多かれ少なかれの不具合について、改めて考えざるを得ない機会を手にすることとなる。
その多様性を、手練手管で排除しようとする人たちが完全にいなくなる世の中は決して訪れないだろうが、少しでも多くの人がわずかでも視野を広げ、好む好まないに関わらず、(勿論、私自身も含め)受け入れるべく更なる努力をする社会に変わっていくことを期待したいと思う。