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肌の匂い

 鴛鴦歌合戦

 SSSのマネージャー青柳いちこは関係者入口の前で爪を噛みながら、13年前初出場を果たした鴛鴦歌合戦のことを思い出している。先輩歌手の楽屋をひとつひとつ挨拶して回り、リハーサルで段取りとフォーメーションを何度もチェックした。それが13年でこんなにも変わった。白い溜め息が冷たい夜空に向かって消える。出会った頃はわたしと話すにも伏し目がちだったあの子たちが、今ではわたしをおばさん呼ばわりする。ホールでは゛わ者゛の後輩ルアーズが今年もっとも売れた曲「ポイズン・ガール」を歌っている。3年前の春あたりから事務所のもっとも力を入れる看板(フラッグシップ)グループが、露骨にSSSからルアーズにシフトした。メンバーを選択し、組み合わせ、構築する輪中社長の能力は天才的だ。メンバー各々が当たり前のように自分の立ち位置を弁え、個性を発揮し、瞬時に行動を起こす。彼らが自分を活かせる仕事を見つけ、成長できる環境を整えてやること。未知の個性、まだ自分さえ知らないその子の中で眠る可能性を揺さぶり、掘り起こし、引きずり出してやること。新しい自分に気づかせ、誉め励まし、仕事に幅と深みを持たせ、質を高めていってやることがマネージャーの仕事だ。現状維持ではすぐに飽きられ、新しく来る者(ニューカマー)が椅子を奪い次から次へと忘れ去られていく。
メンバーひとりひとりに電話した時、峨眉山でドラマのロケをしていた学はチャーター機で移動中で繋がらなかった。ちとせはスカッシュ・ボルダリング・スケルトン・ジークンドー・水上バイクの現代五種競技に挑戦する正月特番の企画で、水上バイクから転落し水面で全身を強打、肋骨を三本折った体に鞭打ってこっちに向かっていた。会場では女性アイドルユニット「ポーキュパインとたらちね7」が歌っている。ヤマアラシのゆるキャラを中心に7人の子持ちの美熟女たちが歌い踊る。プロデュースは今をときめく君野ベルベル人、「ナマンダ」、森定末吉、「ヌーシャテル」「ヘル・ザ・マーケット」といった錚々たるアーティストたちを手掛ける売れっ子プロデューサー゛クォグマスープ゛。
会員制メンズエステでスペシャルコースを受けていた信也は、わたしの電話に夢心地の甘い溜め息で応えた。豪は寝ていた。周りの音ですぐにパチスロ屋と分かったSSSのリーダー哲二は、着古したスウェットの上下に女物のサンダル履き、フードを目深に被りメンソールを銜え煙草でボタンを連打する姿が目に浮かぶ。頂点を極め下り坂に向か始めた今、デビュー当時のキラキラした星屑の汗を振りまく5人を取り戻すすべはない。時計を見、白い息を吐く。あの日もこんな寒い夜でどうしても起こったことが現実と思えなかった。寒い夜が来るたび、吐いた息が白くなるたび苦しくなる。
゛晴者゛のグッドラックが「ダイアローグの中の仏」を歌い始めた。晴田学園は゛わ者゛のあとを追うようにして出てきた芸能プロダクションだった。
各地にキッズスクールを展開し、豊富で多彩な人材の中から新しいグループを次々にデビューさせていた。この世界に成功の法則はない。なにが売れるか分からないからこそわたし達は夢を見る。ここは夢と現実を行き来する廻り舞台で、夢見る愚か者にしか扉は開かない。SSSのメンバーが姿を見せ、いちこはぶちまけたい怒りを抑えて楽屋に急がせる。廊下を駆け抜けながら脱ぎ捨てる5人の服を拾い集め、あとを追いかける。SSSの出番の前に歌う照間みさえがすでに歌い出している。サビの部分
「パルナスの木 パルナスの木」のリフレインに入った時、衣装を着替え終えた5人は人と物でごたごたするバックステージを全力疾走し、舞台袖に辿り着く。やるときはやる、それがSSSの持ってるスペシャルな部分だ。
「今年も5人、それぞれが様々な分野で大活躍でした。デビュー15周年を迎え、さらなる飛躍を目指します。それでは歌っていただきましょう。
スメルスキンシップで「夕陽を背に飛ぶハードラー」。」
暗転していたステージ上に夕陽が浮かび、マイクスタンドの前の5人にそれぞれスポットライトが当たる。センターポジションに立つ鹿苑学は金髪のGIカット、星条旗をプリントしたタンクトップ、白のスパッツ、ワンスターコンバースを履いている。レース直前、ゴールだけ見つめて仁王立ちする学はキング・オブ・ポップだ。学の左、葱間ちとせはアフロのカツラを被りジャマイカ国旗をプリントしたタンクトップ、手首足首を捻じり捩り軽く跳ね手を叩く。ちとせの左、椿豪球はちょんまげで日の丸を背負い、腰に武士の命の刀、草履履き。首をぐりぐりと回し腰をひねる。学の右、上高地信也はユニオンジャックのターバン、デビッドボウイをリスペクトした全身銀ラメのタイツ。信也の右、前田哲二はコーンロードヘアにミラーグラスをかけた国籍不明の選手で、左の口元に付けぼくろをしている。腕、外股、内股をバンバン叩き口を大きく開けて緊張をほぐす。
オン・ヨア・マーク
スターティング・ブロックの位置を確認し、足を交互に高く上げ足裏をセットし爪先立ちで待つ。
ステディ ゴー!

 輪中融(とおる)

 中学の体育教師をしていた輪中融が、教え子たちを集めて作ったグループが゛わ者゛のはじまりだった。輪中が教師を辞めるに至ったいかがわしい理由、生徒への性的いたずら疑惑の正確なところは分からない。少なくとも戒告処分や懲戒免職を受けた事実はない。輪中自身が否定も肯定もせず沈黙を貫いているせいで、メディア・マスコミは好き勝手な憶測を並べ立てることができた。受講生を自宅に連れ込んで夜な夜な乱交パーティーに耽っているのが本当であれば、わ者事務所はとっくに潰れているはずだ。教師を辞めた輪中は運送会社の倉庫だった場所を借り、歌と踊り、演技をレクチャーする養成講座を始めた。受講生は12才から18才まで随時募集されているが、6年経ってもデビューできない場合強制修了となる。受講生を選ぶ絶対的権限を輪中が持ち、その相星眼(スターを見抜く目)がわ者事務所をここまでのし上げた。
スメルスキンシップも多くの受講生の中から選ばれ、組み合わされたグループのひとつだ。デビュー当時、メンバー間での喧嘩が絶えず輪中の眼も今回ばかりは狂ったかと思われた。6人組だったのが5人に減らされ、1人のメンバーが交代した。椿豪球はまだSSSに加入しておらず、倍音純がメンバーの1人だった。デビュー曲「ドント・ルック・バック」がオリコンチャート圏外という、わ者アイドルとしてありえない事態に輪中融は激怒した。SSS5メンバー5人、マネージャー青柳いちこ、事務所スタッフを廊下に正座させ、その前をスティーブ・ジョブズのように行ったり来たりしながらみっちり五時間、懇々と説教を垂れた。きみ達に欠けているのはやる気、元気、情熱、溢れる思い、表現したいという衝動、爆発、高みに到達したいという欲望、夢への憧憬、美への希求、神への讃美だと輪中は熱く弁じ立てた。「この美しい世界を創造してくれた神への感謝。今ここに生を享けた歓びを全身全霊でもって表せ。」
 教師時代、入学しては卒業していく子供たちを見ながら、輪中はせっかく大切に育てた掌中の珠が水のように指の間から零れていくようで空しかった。卒業してしまえば赤の他人で、新年度の生徒とまた同じ授業、ルーティンが繰り返されていくだけ。輪中が求めたのはあのキラキラした水面の輝きのような青春時代に、永遠に住み続けていたいという黙し難い欲望だった。
それが教師を辞めてまで求めた輪中の夢で、彼を突き動かし続ける原動力だった。
 輪中の説教が効いたのか、SSSのメンバー5人が出演した敗戦特別番組の企画ドラマ「丘の上の船」が高視聴率をマークし、業界内でも話題になった。スメルスキンシップは徐々に軌道に乗りはじめる。

 丘の上の船

軍曹 鹿苑学
落下傘部隊長 前田哲二
通信兵 上高地信也
衛生兵 倍音純
捕虜 葱間ちとせ

 鉄兜に小石が当たって目を醒ます。辺りには死体が野糞のように放置され、鹿苑のいた101部隊は全滅と分かった。目を上げると一人のチルドレン兵が機関銃を手に鹿苑を見下ろしている。敵味方どちらの兵であろうと名前はなく、シリアルナンバーで呼ばれるのがチルドレン兵だった。鹿苑は塹壕の縁から汗と埃にまみれた身体をズルスル持ち上げ、地面にあぐらをかく。
「おまえは青か、緑か」
チルドレン兵は鹿苑の質問に答えることなく、口笛でキラキラ星を吹いた。鹿苑は転がる死体からカラシニコフと幾つかの弾倉をポケットに突っ込んで立ち上がる。
「この辺りの地理に詳しいか」
チルドレン兵は口笛をやめる。
「案内しろ。」
チルドレン兵は眩しそうに鹿苑を見上げた。
「おまえの名前はラムだ。」

 チルドレン兵のあとに従いて沢を渡り山隘の森に入る。夜が更けていくにつれ霧が濃くなり、目の前が白濁していく。月明かりひとつなく前を行くラムが枝葉を踏みしだく音だけが頼りで、梟が鳴く。憂鬱な古い記憶のような霧の中で、同じ青い腕章の一小隊と出くわした。幽鬼のように現れた彼らもまた、鹿苑らと同じように道に迷っているのだった。
「所属部隊は」
居丈高な小隊長前田の誰何を鹿苑は無視した。
「上官の質問に答えろ」
肩を掴もうとした前田の手を振り払い、鹿苑は顔を近づける。
「6300方面の防衛に当たっていた101部隊は全滅した。」
脱走兵ではないかと胡散臭そうに鹿苑を睨みつけながら前田は、
「我々パラシュート部隊は6300方面の支援部隊として投入された。」
「じゃあもう用なしだ。とっとと失せろ。」
「そうはいかん。」
前田は銃を持って立つチルドレン兵を顎で差す。
「こいつは」
「知らんね」
「敵か味方か」
「おれはラムだ。」
前田はチルドレン兵が喋ったことに驚いた。訓練を受けたチルドレン兵は、戦場において沈黙と服従の誓いを立てていた。
 前田は通信兵上高地に現在地と状況を本部に伝えるよう指示する。ディップをたっぷり使って髪を七三に分けた上高地は、軍靴に撥ねた泥の染みひとつ我慢できない男だった。本部から作戦変更の打電が入り、パラシュート部隊は6‐B地点の丘の確保に向かうことになった。
「軍曹、君も従いてくるように。これは上官の命令だ。」
鹿苑は唾を吐き捨て鉄兜を目深に被る。ガムを嚙んでいた衛生兵倍音が皓い歯を見せて笑った。

 丘には強固なトーチカが構築されており、援護射撃のもと一気呵成に丘を駆け上がり銃座を奪うしかなかった。丘の周囲を二班に分かれて索敵していた時、遮蔽壕に潜んでいた敵兵を発見する。捕虜葱間は大腿部から夥しい出血をしており、長く持ちそうになかった。前田は捕虜を手当てしてやるよう倍音に指示した。
「丘の堡塁には何人いる」
葱間は呻き叫ぶばかりで何も聞いていなかった。本部に丘への砲撃を要請したが、作戦部隊のみでの丘の攻略、確保を期待すると送ってきた。

 攻撃前夜、前田は鹿苑に
「鉄兜を交換しないか」と言い出した。
「これは101部隊長の形見だ。そんなものと取り換える気はない。」
ラムは夜空を見上げながらキラキラ星を吹いている。倍音はガムを嚙みながら口笛に合わせハミングしている。軍靴を靴墨でピカピカに磨き上げている上高地を、葱間が不思議そうに見ている。
「どうせ死ぬのに何の意味がある。」
「磨いてると生死を忘れることができるのさ。」

 沼地のような丘の斜面に踝まで沈めながら、前田は総攻撃の号令をかけた。トーチカ、塹壕から一勢斉射が始まり、遮蔽物の一切ない味方兵士たちは次々に斃れていく。上高地がズタズタの蜂の巣にされて泥の上に転がる。後方に下げられた上高地の屍を見た葱間は、乱れた髪をぴったり七三に撫でつけ、顔についた泥を拭いてやる。倍音が運ばれてくる負傷兵に近づこうとして銃弾を浴び斃れる。葱間は倍音のところまで這っていって、胸ポケットからガムを1枚取り出し、折って口に入れてやる。鹿苑のもとで戦っていたラムの右腕が吹っ飛び、左腕もズタズタになって斃れる。鹿苑はラムを膝上に抱え上げ、血だらけの耳元でキラキラ星を吹いてやる。銃座に辿り着こうと身を乗り出した瞬間、前田の鉄兜に銃弾が貫通し前のめりに突っ伏す。鹿苑は前田の身体を仰向け、顔の血と泥を拭って見開いたままの目を閉じてやる。穴の空いた鉄兜を脱がし自分の鉄兜と交換する。
鹿苑が銃座を奪った時、パラシュート部隊は全滅していた。屍が落ち葉のように重なる丘の上にひとり立って、鹿苑は笑った。

 鹿苑学

 「丘の上の船」以降、わ者事務所にはSSSへの取材、出演オファーが殺到する。いちこは来た仕事をなんでも受けるスタンス、なりふり構わぬ強引な売り込み、ゴマすり、根回し、ツテとコネで取ってくるバーター仕事、ケチな仕事をさもチャンスであるかのようにメンバーに力説する嘘から解放されて、個々のメンバーの才能と魅力を引き出してくれる監督、プロデューサー、クリエーター、放送作家、演出家を質と名前で選べるようになった。学は「丘の上の船」でレッドバトン新人賞を受賞した。
「もともとこんなことをやるつもりなんかなかった。」と、学はある雑誌のインタビューに応えて言っている。゛わ者゛なんて女の子にキャーキャー言われたいだけの目立ちたい奴らがバカ騒ぎする猿山集団だと思っていた。写真付きの受講用紙を勝手に送ったのは学の姉で、姉に無理やり連れて来られたオーディション会場は薄汚い倉庫で入るなりムっとし、天井の換気扇は止まったまま板張りに塗られたワックスが強烈に匂った。ジャージの上下で首からホイッスルをぶら下げ、手拍子していたおっさんが輪中社長だったと後で知って驚いた。
学のSSSからの脱退・独立は時間の問題で、遅かれ早かれいつかは訪れる避けられないことだと誰もが思っていた。
「あなたにとってSSSとは何ですか」と訊かれて、学は
「戦友です。」と答えた。

 ドッキリ

 シングル・アルバム共にオリコンチャート1位を獲得し、SSSは名実ともに゛わ者゛アイドルトップの座に君臨し、ライヴチケットがもっとも入手困難なアーティストに成長した。パフォーマンスの質を高めるため、葱間ちとせはその頃からジム通いをするようになった。他の4人は遊ぶことを覚えた。前田哲二はキャンピングカーで温泉地巡りに没頭した。二十歳になったばかりの純は夜毎街のクラブに出没し酒を飲み豪遊した。プライベートではなにをしようが、やるときはやるのがSSSで、いちこが小言めいたことを言おうものなら
「うるせえクソババア」呼ばわりされて、いちこは育てた子供に裏切られた気持ちになるのだった。
 4枚目のアルバム制作に入っていた頃、テレビ番組の特別企画で彼らにドッキリを仕掛けたことがある。マネージャーのわたしはすべての事情を知る仕掛け人のひとりだった。PV撮影と偽って使用していた老舗旅館にチンピラ風情の人たちが現れ、
「誰の許可があって撮ってるんだ」とスタッフにいちゃもんを付け始める。ショバ代を出せと強請る怖いお兄さん達の前で、SSSのメンバーがどんなリアクションをするかお茶の間のみなさんに楽しんでいただこうという趣旨だった。その本番、チンピラが啖呵を切って旅館に乗り込んできて凄んでみせると、ちとせが口答えした時からなんだか雲行きが怪しくなった。兄貴分のこめかみから下顎にかけてザックリ向こう傷のある男がドスを机に突き立てた時、じりじりしていた学がチンピラに手を出し、純が一人に飛び蹴りしてあとは大乱闘になった。「ドッキリ」と書かれたプラカードを持って慌てて飛び出したレポーターも巻き込まれ揉みくちゃにされた。プラカードがへし折られ、老舗旅館の壺を割り、障子・屏風を蹴破り、座卓を投げて襖・床の間に穴を開けた。当然ドッキリは「大失敗」でテープはお蔵入り、いちこは方々に頭を下げて回った。
SSSの5人はすべてはドッキリで仕組まれた嘘だったと説明されても、荒い息を吐いてそこらじゅうを歩き回り、目をギラギラさせていた。かわいらしいウブでシャイな少年たちだとこの前まで思っていたのが、今では一歩間違うと5匹の血に飢えた野獣の群れと化すという驚愕の事実に、いちこは恐ろしくなった。マネージャーは調教師・猛獣使いなのか、それともよき理解者・相談役なのか。わたし達が今日まで育ててきたのは愛さずにはいられないアイドルなのか、抑圧された欲望を抱え手のつけられなくなったモンスターなのか。そもそもアイドルとは始めから、いもしないものをみんなで創造し崇め奉り祀り上げた恐るべき怪物だ。

 ニ・一四事件

 二月十四日早朝、○○公園には決起集会を行う不穏な集団があった。各々の額には「天誅」と書かれた鉢巻、同じ「天誅」の文字を記した幟を立て、
エイエイオー! 何度も鯨浪(ときのこえ)を作った。彼らはネットのかきこみ、リツイート拡散に応じて参集した、もてない男の一団だった。降り積もった雪の上を行進し、襲撃地点から50mほど離れたビルの死角で待機する。霏々と降り続く冷たい雪の中で待つこと三時間、とうとうついに4台の大型トレーラーが現れ、わ者事務所前に横付けにされる。運転席からドライバーが降りたと同時に
「天誅!」を叫びながら男たちは走り出し、ドライバーを殴りつけトレーラーを奪うとそのまま乗り込んで逃走した。
前代未聞の強奪劇に警察はパトカー30台を動員し、マスコミ各社は自社のヘリを飛ばした。もてない男たちが向かった先は○○学園のグラウンドで、4台のトレーラーが次々に校門の柵を突破して入っていく。荷台の扉がバールでこじ開けられ、段ボール一杯に詰め込まれ積み上げられたバレンタインチョコを見た時、男たちはどよめいた。泣く者、笑う者、拝む者、抱き合う者、肩叩き合う者、1個1個に頬擦りする者、鼻を啜る者、天を仰ぐ者、小さくガッツポーズする者、早速開けて貪り食う者、包装を丁寧に折り畳んで取り除けうやうやしく蓋を取って鼻腔一杯に匂いを嗅ぐ者。ネットに書き込んでもてない男たちに呼びかけた、リーダーとおぼしきもっとももてない男の号令一下、包みを破り箱を開ける班、銀紙からチョコを取り出す班、ステンレスボウルにチョコをぶち込む班、コンロで湯煎しチョコを溶かす班、溶かしたチョコをプールにぶち込む班に分かれ、すぐさま実行に移される。
 テレビ各局のヘリはその異様な光景、古代の邪教密教儀式、悪魔崇拝のサバト(安息日)のようなグロテスクで醜怪なものを実況生中継した。生チョコのプールに飛び込んでチョコまみれになり、チョコを掛け合ってはしゃぐ男たち。身体のチョコを舐め合ってチョコフォンデュを楽しむ異形の者たち。テレビで観ていたお茶の間の人たちは嘔吐した。

 倍音純

 倍音純はスメルスキンシップのメンバーの中でもっとも若くハイトーンボイスで、踊りの上手い格闘技好きの少年だった。母親に武道館である極真空手の試合を観に行こうと言われて、嬉々として連れて行かれたのがわ者養成講座だった。受講生になった当時まだ13才で、メンバー最年少の16才でデビューする。曲のサビが斉唱(ユニゾン)で歌われる時、純の高音は美しいハーモニーを生み出し、そのあどけない笑顔に誰もが恋をした。デビュー7年目のその年一番寒い冬の夜、純は自宅マンションのベランダから転落死した。いちこは毎晩のように飲み歩いて遅刻が多くなった純に何度も注意した。「アイドルとしての自覚を持て」「もっとアイドルらしく」と言ったが
「アイドルらしいって何ですか」と逆に訊かれた。
アイドル4ヵ条
 恋愛の禁止
 下ネタ禁止
 お金の話禁止
 ファンを悲しませること禁止
ピンクのうんこと虹色の小便をすると信じられているアイドル。そもそも大も小もしないとまことしやかに囁かれているアイドル。枠に嵌め込まれ逃げ場を失った純は、柵にぶつかり自らを傷つけ、あたら若い命を散らしてしまった。純にはデビュー前から秘かに愛を育んでいた幼なじみの恋人がいた。純が社長に彼女と結婚したいと言った時、輪中はにべもなく一蹴した。その後、純の話を一切聞こうとせず、断りもなく彼女に手切れ金を渡そうとし、「休みなしに仕事を入れろ」とわたしに指示した。手負いの獣のようになった純は仕事と酒に溺れて我れを忘れ、自分を見失った。
あの時、もし純と彼女が結婚できていたらという、今となってはどうしようもない思いがメンバーといちこの中に消えずに残り、燻り続けた。純の代わりなんていないと誰もが怒りに震えながら社長に話したが、輪中はメンバーの補充に固執した。受講用紙を過去のものまで引っ張り出してオーディションを繰り返した。てっきり受講生の中から選ばれるものと思っていたある日、ひとりの薄汚い少年をSSSメンバーといちこの前に連れて来て社長は
「今日から彼がスメルスキンシップのメンバーだ。」と言った。
近所の駐車場にたむろしてスケボーする家出少年にしか見えなかった。いちこはマネージャーとして純の死を防げなかった責任を感じ、社長に辞職願いを出した。
「君はSSSのマネージャーだろう。右も左も分からず入ってきた彼を放ったらかしにして辞める方が、よっぽど無責任じゃないのか」
わたしは思いとどまった。
 椿豪球を加えた新生SSSで以前から話が進められていた映画「騙る」は制作された。紆余曲折あったがこの映画によってSSSはメンバーの死という悲劇を越えてさらに飛躍し、スケールアップするきっかけをつかんだ。

 騙る

詐欺師1 鹿苑学
詐欺師2 前田哲二
いかさま師 上高地信也
刑事 葱間ちとせ
若い男・ピエロ 椿豪球

 学と哲二が事務所がわりに使っているホテルの一室に、刑事葱間が現れたのはふたりがひと仕事終えた翌朝のことだ。
「証拠は何もないし誰も被害届けなんか出してない。そうだろう刑事さん。」
「そうだ。」
3人は睨み合ったまま立っている。哲二が部屋のドアを開けると、葱間はソフト帽を目深にして出て行った。
学と哲二がカモにしているのは金持ちだ。仲間の国税局職員からリークされるグレイリスト(脱税の疑いのある者)をもとにカモを抽出する。首にぶら下げた職員証明カードと白手袋さえあれば、誰でも税務調査官になれる。偽造した令状を示して家に上がり込み隠した金、金庫の中身、金目のものをことごとく差し押さえて早々にずらかる。臑に瑕持つカモがご丁寧にも警察に被害届けを出すはずもない。

 そのカジノへはコンビニの飲料補充庫から直接二階へ上がる階段があって、20人ほどの客がいた。ディーラーが手早くカードを配りプレイヤーがチップを置く。学と哲二が着いたテーブルには、なかなかうまくいかさまをする男がいた。技術の高さだけでなく、ひとり勝ちしないで適度に遊ぶところもよかった。学はわざといかさま師に負け、上高地もそれに気づいた。上高地はゲームを切り上げ学と哲二を付設するダーカウンターに誘った。3人でしこたま飲んで階段を下りコンビニを出た時、通りの向こうに張り込む刑事葱間が3人を見ていた。

 女と子供ひとりを連れた若い男椿がホテルの部屋に駆け込んできたのは夜も更けた遅い時刻で、ルームサービスの食事を終えた3人がブラックジャック遊びをしていた時だ。椿は目に落ちかかる乱れた前髪を搔き上げながら、ボスのスケと駆け落ちしたらオマケにガキまでついてきたと、下らない川柳のようなことを言った。
「見つかればなにをされるか分からない。3人ともドラム缶の中にコンクリ詰めにされて海の底に沈められるだろう。」
「なにをされるか分かってるじゃないか。」
「たぶん死ぬのはおまえ一人だけだろう。」
「頼むから匿ってくれよ。」
「金は」
「あったらとっくにサイパンにでも高飛びしてるだろうが」
「金はない。あてもない。ついてない。女とガキがついてきた。一体どうする」
「助けてくれよ」
「おまえのボスは誰だ」

 プールとロータリーのある瀟洒な家の門扉が自動制御で開き、上高地は応接間に通される。そこに葱間の姿があったが、上高地は無視した。その頃葱間は容疑者の誤認逮捕による降格処分と、妻との離婚調停が重なり暗闇の只中を漂うような生活をしていた。バラバラになった家族とマンションの30年ローンだけが残った。自暴自棄になりひとり酒を吞んで朝まで一睡もしない、そんな毎日を送っていた葱間に声を掛けてくれたのが街のボス楽士だった。応接間に姿を見せた楽士は目の下に隈を作ってすっかり憔悴していた。上高地は楽士の妻子と逃げた椿がホテル住まいの男二人に匿われていると喋った。葱間がほくそ笑むのを上高地は見逃さなかった。そこに一枚のカードが運ばれてくる。
妻子と引き換えに金のコインで三億
場所は二子玉川移動遊園地射的場

 学と哲二は路上パフォーマー、旅役者(ムマー)、チンドン屋、大道芸人(シャルラタン)、旅芸人一座、曲馬団、エキストラの客を雇い移動遊園地を一杯にする。ジャグリングする者。火を吐く者。空を飛ぶ者がいる。綱渡りする者。身体に巻いた鎖を断ち切る者。無くなった腕時計が帽子の中から出てきて驚いている者。卵を口に入れてヒヨコを取り出す者。金魚を呑み込んだまま取り出せない者。象に筆箱を踏ませる者。首にニシキヘビを巻いた者。宙に立てた梯子に登って滑り降りてくる者。美女の頭上に乗せたリンゴめがけてナイフを投げる者。地面に水筆で絵を描く者。とてつもなく長い足で歩く者。足踏みオルガンに合わせてダンスする者。縄抜けする者(エスカポロジスト)。馬を棹立ちさせる者。女の子に風船で帽子を作る者。扇子の先から水を噴き出す者。巨大な一輪車に乗ってヨーヨーする者。上半身女、下半身魚の人魚。
 アタッシュケースを持った楽士、屈強な男たち、上高地が二子玉川移動遊園地入口に車を乗りつける。ゲートをくぐると、早速足長ピエロが近づいてきて楽士を持ち上げる。
「降ろせ!」 じたばたしている楽士は足長ピエロがポケットの中のものを探り当てたことに気づかない。射的場に入ると中は暗くじめじめしていて、目が慣れるのに少し時間がかかる。カウンター横に学と哲二、その後ろに楽士の妻と子がいる。突然、スポットライトの眩しい光が上高地を照らし出す。上高地は楽士を殴りつけアタッシュケースを奪うと逃走を図る。出口に向かった上高地を学が拳銃で撃ち、上高地は背中から血を流し倒れる。
誰も何もひと言も発せず、動かない射的場に葱間が銃を構えて現れる。倒れている男を一瞥する。葱間は両手で銃を掲げ最初に学、次に哲二を射殺する。驚愕している楽士に葱間は、カウンター脇まで飛んでいたアタッシュケースを手渡す。
「ここからはやく消えろ。妻子はあとで自分が送り届ける。」
楽士は屈強な男たちと移動遊園地を出て、待たせていた車に乗る。
射的場の暗がりの中、声も出せないでいる女と子供が見守っていると、学、そして哲二、上高地が立ち上がる。腰をかがめて入って来た足長ピエロ椿と葱間が握手を交わす。学は女が差し替えたアタッシュケースを受け取る。
「撤収だ。」

 リアシートに収まってほっとした楽士は、アタッシュケースが軽いのに気づいた。スーツの内ポケットを探ると鍵がなくなっている。動揺したまま留め金をガチャガチャしているとアタッシュケースは簡単に開いて中身はカジノのチップで一杯だ。車はリンカーン・コンチネンタル、タイヤから白煙を上げてUターンし遊園地に戻る。楽士が降り立った二子玉川移動遊園地はもうどこにもになく、何十年も使用されていない場所のようで、まるで夢のように人っ子ひとりいない。

 中古の軽ジーノを運転する学。助手席に女が子供を膝に乗せている。後部席に哲二、上高地、葱間、椿が鮨詰めになっている。鍵を取り出した椿がアタッシュケースを開けると、中から金色のコインがこぼれ出す。

 葱間ちとせ

 メンバーの中でもっとも俳優としての頭角を現し、演技評価が高まっていったのはちとせだった。デビュー当初、なんの取り柄もなかったちとせに演出家末順繁明の舞台オーディションを勧めたのはいちこだった。思わぬ才能が開花して暗く内向的で自分から何かをしたいと言ったことのなかった彼に自信を植えつけた。ひとの可能性を本気で信じられるようになったのはそれからだったと思う。ちとせの成長を目の当たりにするまでは、どこかで努力以前の問題、持って生まれた星、天才だけが残っていくと決めつけていた。いちこはどんな子に対しても誉めることが多くなった。大した成果でなくても自身を持たせてやることで、その子がやる気になり自ら学び楽しむようになれば大化けする可能性が生まれる。いちこは可能性、チャンスの拡大こそがマネージャーの仕事だと思う。
ちとせは週二回のジムでのトレーニング、毎日10キロのランニングを欠かさない。
「SSSはぼくにとって部活だ」とちとせは言う。あなたにはずっと成長していってほしい。見ているとこっちまで楽しく、嬉しくなってくる。あなたをずっと見ていたいとファンはみんな思っている。ファンが応援したくなるような存在になれたら、それは本物のアイドルだ。

 学の結婚

アイドル4ヵ条
 恋愛の禁止
 下ネタ禁止
 お金の話禁止
 ファンを悲しませること禁止
これらの条項は明文化されていないものの、全アイドル必須の掟、暗黙の了解事項だった。この禁忌(タヴ―)を公然と侵して憚らず嘲笑したのが学だった。60年代ロックスターのように手あたり次第に来る者拒まず、貪り食らう野獣のような性欲は「帰って来たセックスマシーン」と言われた。本当のことは事実のごくごく一部に過ぎずあとは盛られた嘘、膨らませた虚構妄想のたぐいであっても、世間一般のイメージはいたいけな何も知らない10代のうぶな女の子をスイートルームのベッドに転がす糞まみれのブタ野郎だった。映画「騙る」でボスの妻役を演じていた藤巻ミンミと椿豪球は親密な関係を築いていたが、学主演の医療ドラマで彼女と共演したことがきっかけでそっちになびいた。豪球は学に何も言えず悶々と恨み辛みだけを募らせ、いちこをはじめわ者関係者、スタッフがどうしたものかやきもきしているうち、藤巻ミンミが妊娠してしまった。学は突然の死刑宣告を受けた未決囚のような顔をしていたし、豪球は狂ったように街を徘徊し夜な夜なクラブやバー、路上でいざこざを起こした。学が
「結婚します」と社長に報告した時、今度ばかりは輪中も認めない訳にはいかなかった。純のこと、今まで築き上げたスメルスキンシップの栄光と挫折、アイドルという偶像の破壊、黄金時代の終焉、あらゆることが去来しぐちゃぐちゃになって輪中融を襲った。青春時代の輪の中で永遠に踊り続けていた何かがガラガラ崩れ落ちる音がして、振り向くとそこに何があったのか、あまりに歳をとり過ぎていて思い出せなくなっている。きっと素晴らしくキラキラしていたもの、ずっと楽しいことがあったのに思い出せない。気づけば黄昏が目の前に迫っていて、すべてのものを押し包む。

 鹿苑学と藤巻ミンミの結婚式はタイのプーケット島でメディア・マスコミ完全シャットアウトの厳重警戒の下、おごそかに挙行されるはずだった。哲二とちとせは顔を見せたが信也と豪球は来なかった。お腹の子は誰の子なのかという疑問が、学と豪球をいつまでも苦しめた。潮騒の音が眠りを誘う穏やかなプライベートビーチに突き出した、椰子の木に包まれる海上コテージでふたりの誓いのキスが交わされようとしたその時、ターコイズブルーの海から上がって来る黒い十人の女たちが見えた。ゴーグル。アクアラング。フィン。スキューバ用具一式をひとつひとつ外していく女たち。ココナッツのようにたわわに実った胸と天使のえくぼ、上向いたお尻が売りのグラビアアイドル。ダンスユニット「ミスティ」の元メンバー。滑舌の悪さで人気が出た某キー局女子アナ。ゲイのAD。デビュー前の元カノ。スマイル0円のハンバーガー店員。SSSのライヴに帯同するバックダンサー。度胸と根性で勝負するオーバーリアクションセクシー女優。髪をてんこ盛りにしたキャバ嬢。いちファンの女の子。みんな鹿苑学被害者の会の人たちだった。学はミンミの手を引いて逃走を図ったが、花嫁が純白のウエディングドレスの裾を踏んで倒れ、ヴァージンロードの上でセクシー女優とバックダンサーに捕まった。学は細マッチョのADに羽交い絞めにされ笑顔のハンバーガー店員に思いっきり顔を引っぱたかれた。悲鳴が上がる中「ミスティ」の元メンバーがミンミの着ているデザイナーズドレスを引き千切り、止めに入った天辺の禿げた神父にグラビアアイドルが抱きついて海にダイブした。逃げ惑う参列者の間を元カノとキャバ嬢、いちファンの女の子が椅子とテーブルを引っくり返し、花を散らしてコテージを滅茶苦茶に破壊した。女子アナが司会進行(MC)を担当していた某キー局の同僚女子アナからマイクを奪い、
「これは天罰です。わたし達は正義です。ミートゥー!御覧なさい、あの脅えきった仔豚のように泣き喚いている顔を。地獄に堕ちろクソ豚野郎!」
ひと言も噛むことなく喋りきった女子アナはマイクをリング上に投げ捨て、学狩りに加わる。いちこはなす術もなく呆然とそれを打ち眺め、哲二とちとせは少し離れたところから高見の見物をしている。メディア・マスコミをシャットアウトしていたのが幸いして、これが表沙汰になることはなかったがタイの観光推進事業部、各方面の関係各社に多額の賠償金を支払わなければならなかった。学は顔と身体の傷跡がひくまでホテルのスイートから一歩も出ようとしなかったし、ミンミは別に取った部屋で一晩中泣いていた。初夜がどうなったのかわたしは知らない。

 救いの手

 プライベートはともかく椿豪球は仕事の上ではつねに笑顔を絶やさず、歌とダンスにも真面目に取り組んで格段にうまくなっていった。学に対する蟠り、怒りや悲しみも今ではすっかり解けて忘れてしまったものと、いちこは安心していた。ある日、豪球が楽屋に縦横2mはあるばかでかい鏡を運び込んできた。どうしたのか訊くと買ったのだと言う。その時は特に何も思わなかったが、日が経つにつれどんどん楽屋に持ち込む鏡が増えていったので、これはおかしいということになった。いちこが訳を訊こうとすると、豪球は話をはぐらかしたりiPodで音楽を聴き始めたりした。リーダーの哲二にそのことを話すと、哲二は咥え煙草でロト7をしながら
「誰にだって心の闇はあるし触れられたくない部分、秘密を持ってる。ひとの心に土足で踏み込んで、決定的に破壊してしまったらどうなる。取り返しがつかないだろう。豪球は自分の心を守ろうとして少し過剰になっているんだ。」とフロイト・ユングじみたことを言った。ケチケチリーダーと陰で囁かれている哲二は、後輩にご飯をおごったことなど一度もない。いつも割り勘で済ませ、何の領収書でも取っておいて事務所の経費で落とそうとした。マネージャーのわたしの頭越しに社長の輪中とギャランティの直接交渉の場を設けて、そこには個人弁護士が立ち会うのだった。
 わたしは豪球がよく通うファイトクラブのオーナー、セコンドトレーナー、ピンボールバーでたむろしている半グレの子たちに最近、豪球に変わった様子はないか訊いて回った。すると豪球は「救いの手」という新興宗教団体に入信し、悪いものが憑いてると言われて除霊の品をいろいろ買わされているのだという。わたしは豪球の住んでいるマンションに行き、マネージャー特権を行使してコンシェルジュにドアの鍵を開けてもらった。そこには夥しい数の鏡。何百もの川原石。流木。ガラス瓶の欠片があった。他にも「救いの手」と言われて買った「孫の手」。「清めの水」と言われて買った「水道水」。「神の家」と言われて買った「犬小屋」。「神の木」と言われて買った「牛蒡」。「聖なる壺」と言われて買った「尿瓶」。「命の綱」と言われて買った「藁」。「命の母」と言われて買った「ヤクルト」。これらをひとつウン十万も出して買っていた。モノに取り憑かれた豪球にせめて本物と偽物の区別くらいはつけて欲しくて、仕事の合間合間に無理やり美術館やギャラリーに連れ出して見て回り、一見さんお断りの贅沢なもの、隠れ家的なお店からチープでB級なファストフード・ファッション、安かろう悪かろうのジャンクフードまで食べ歩いた。自分の買っている物がつまらないもので、本当に大切なものはお金で買わなくてももうみんな持っているんだと気づいてほしかった。

 わ者大運動会

 中学教師だった輪中融ならではのイベントが毎年恒例のわ者大運動会だった。秋10月10日、ファンのために国立競技場を借り切って午前の部運動会、午後の部サッカーフレンドリーマッチが、わ者事務所所属のアイドル総出演で行われる。紅組キャプテンは8年連続で鹿苑学、白組キャプテンは成長著しいルアーズの三崎昇太だった。5万人のファンが詰めかけグラウンドに出てくるお目当ての子に手を振り、悲鳴を上げ、名前を叫ぶ。ファン参加の二人三脚、借り物競争などもあり、最後は全員参加の豪華リレー対決で午前の部は終わる。午後からのフレンドリーマッチで負けた方の組は、罰ゲームで全員が毎年恥かしいコスプレをして場内を一周した。去年は赤ふんどし一丁で走ったし、一昨年はバニーガールの衣装でローラースケートを履きビールを運んだ。昨昨年は股間に白鳥の首を付けたチュチュを着て輪になって踊った。今年はどんなコスプレをするのか毎年楽しみにしていたファンも多く、メディア・マスコミの注目度も非常に高かった。それが突然の中止という発表が出された。予定していた国立競技場の爆破予告がネット上に書き込まれたためで、安全を考慮しての処置だった。この苦渋の決断に輪中融は男泣きした。警察のサイバーテロ犯罪捜査特殊一課チームがひとりの被疑者、蛭禅輝生の名前を特定した。
 デビューして二年、鳴かず飛ばずだったスメルスキンシップのメンバーが6人から5人に減らされ、メンバー交代で前田哲二が加入、代わりに外されたのが蛭禅輝生だった。その後蛭禅は新しいグループでデビューするチャンスもないまま6年が経過し、受講修了証を受け取った。それからの蛭禅輝生がどのような人生を歩んだのか。彼は警察の取り調べに対し緘黙を貫いた。
自分が抜けたその後のSSSが飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていき、芸能界の頂点に登り詰めていく5人の姿をどのような気持ちで見ていたのか。あのままメンバーに残っていたら、自分が山の頂きに立っていたのにと考えなかったか。どんな運命が彼から栄光を遠ざけたのか。輝きは戻らない。誰かを殺しても。

 ホースメン

牧場の息子 椿豪球
馬主 上高地信也
競馬騎手1 前田哲二
競馬騎手2 鹿苑学
調教師 葱間ちとせ

 ぼくは馬とわらの匂いが好きだ。馬小屋を掃除してわらの匂いをいっぱいに嗅ぐと幸せな気持ちになる。馬の肌は磨けば磨くほど虹色に光る。ぼくの宝物だ。今年生まれた仔馬は小さかった。茶色くてよく跳ねる。かなでさんが面倒を見ている。ぼくには触らせてくれない。かなでさんはきれいな人だ。いい匂いがする。髪を馬のしっぽみたいにして帽子の穴から出している。ぼくはかなでさんに「シッシッ」と言われるけど、仔馬を見る振りしてかなでさんを見ている。ぼくはかなでさんが好きだ。飼い葉を作るかえでさんからは汗の匂いがしてくる。汗の匂いも好きだ。馬が放たれている原っぱを見ていると、かなでさんに怒られた。馬小屋のわらを変えていなかったから。かなでさんに怒られるのも好きだ。馬とかなでさん、どっちも好きだ。わらと汗の匂い、どっちも好きだ。かなでさんはぼくが嫌いだ。

 かなでがこの牧場に来てからもう5年になる。椿夫婦が経営している牧場には2頭の預託馬と、2頭の繁殖牝馬がいて今年1頭の仔馬が生まれた。ウレトの仔だ。わたしには特別な思い入れがある馬だった。中学生の時、引きこもっていたわたしをケースワーカーの人が馬を見に連れて行ってくれた。とくに動物が好きでもなかったわたしが、草原の中の馬を見た途端涙が止まらなくなった。近寄ってきた馬の目を見ていると、しゃぼん玉の弾ける音が頭の中でした。牧場で馬の世話をする仕事を探してここを見つけた。
ここでは牧場主の椿さんが馬の管理、生まれた仔馬の馴致をし、妻のしのぶさんが経理担当、ダウン症の息子豪球とわたしが馬の世話をしている。わたしは毎日馬のそばにいられるだけで嬉しくて、きつい仕事にもすぐに慣れた。冬の朝が早くても、出産時期寝ずの番が続いても嬉しかった。父親の暴力のことも、母親の見て見ぬふりのことも忘れた。自分の居場所を見つけることができたこと、誰かに必要とされていること、少しでも自分が役に立てることがあるのが嬉しかった。でも悲しいことは突然起きた。一昨年、ウレトが生んだ当歳馬をわたしの不注意で骨折させてしまい、仔馬は殺処分された。椿夫婦の慰めも、わたしには仔馬の死を責めているようにしか受け取れなかった。うつになった母親を介護していた頃、ずっと思っていたことが噴き出してきて、わたしは夜の牧草地をさまよい歩いた。わたしを助けてくれたのは仔を亡くした母馬ウレトだった。夜の牧草地に出てきたウレトはわたしの赤く充血し腫れ上がった目を見て、長い顔を近づけ頬を寄せてくれた。
あなたの方がずっと悲しいのに、わたしがずっと泣いてるなんて可笑しいよね。わたしの方があなたに慰められるなんて可笑しいよね。
今年、ウレトに仔が生まれた。亡くなった仔の弟だ。わたしはこの仔を強い馬にしようと決めた。

 ウレトはあの偉大な種牡馬サタデーサイレンス産の最後の繁殖牝馬だ。ウレト自身は一度もレースに出走することなく繁殖馬生活に入った。この馬のいる牧場主の椿と上高地は幼なじみだった。原発事故のせいで牧場経営を断念した上高地家とは違い、椿一家は違う土地に移り住んでも牧場を諦めなかった。上高地は馬を買うことで昔の夢、ダービー馬を作るという全ホースメンの悲願に追い縋った。ダービーオーナになることでしかもう、昔の夢は叶えられない。
去年、妻を癌で亡くし遺品の整理をしていると一枚の色褪せたメッセージカードが出てきた。
゛ほたるの木の下のぼくの気持ちをどうか受け取って下さい゛
それはくせのある字で、椿が書いたものとすぐに分かった。妻とわたしと椿は同じ農業高校の馬術部に所属していた。あの頃の三人は仲のよい関係を崩すまいと気を遣ってばかりいた。わたし自身、本心は明かすまいと決めていた。椿が地元に残りわたしと妻が上京したことで、わたしと妻の関係は自然と深まっていったものとばかり思っていた。
 真実を確かめるために、わたしは三人の失われた故郷に向かった。事故の影響で危険区域に指定され、今も封鎖されている立ち入り禁止の土地だ。境界のそばで野生化した馬を集め、飼い慣らしている農家で一頭の馬を貸してもらい、立ち入り禁止区域に入った。上高地家と椿家の共同牧草地だった場所は、大人の背丈ほどある葦の茂った深い藪になっており、木がどこにあるのか見当もつかなかった。葦原に夕日が落ちていくのを馬上で途方に暮れて見ていると、ぽつり またぽつりと電飾の点る木が遥か視線の先に見えた。
わたしは馬の腹を蹴った。葦原の只中を突き進むにつれ電飾の数が増えていき、夕日を背景に浮かんだ木のシルエットに無数のほたるの光が浮き輝いている。馬を下り木の下を探ると、マーブル模様のブリキ缶が埋まっている。
開けると中に蹄鉄を模した手作りの指輪と、わたしが妻に贈った婚約指輪が入っている。
妻はここに来た。椿の想いを蹴ったことに最後まで苦しい思いをしていたのだろうか。そんな思いをしても彼女はわたしを選んだ。最後まで牧場を諦めなかった椿ではなく、諦めてしまったわたしを選び、最後までわたしと一緒にいてくれた。約束の地、いつかここからダービー馬を出そうと誓ったほたるの木の下でわたしは泣いた。誓いを守れなかった自分の不甲斐なさに、椿の届かなかった想いに、妻のやさしさに。
夕日に映えて燦然と光り輝く星々の木の下、わたしは誓った。椿の牧場からダービー馬を出す。妻の想いの分まであいつに返してやりたい。来年いっぱいで閉鎖するしかないだろうと言っていた椿のために、できるだけのことはしてやりたいと思った。わたしはウレトに菊花賞馬スパンダワーとの種付けを椿に勧めた。種付け料を出して生まれた仔を買った。名前をワンダーワンダーと付けた。

 ワンダーワンダーが入厩してきた日、上高地オーナーは黙って葱間と握手して帰っていった。新馬のオーナーなら誰もがダービーへの出走、勝利を夢見る。その権利がある。調教師としてできることは預かった馬を怪我なく、能力を十分に発揮させてやるため精一杯手を尽くすこと。ダービーで走れるのは一生に一度、3歳馬18頭のみ。中央で勝てない馬は地方競馬に流れていく。ダート馬に変更になることもある。怪我や病気で出走不能と判断されると、よほど血統がよくない限り殺処分が待っている。3歳馬の頂点ダービー馬になれるのは毎年1頭だけ。
ワンダーワンダーに乗ってみて気づいたのは股関節が柔らかく折り合いもつき、追い切りをかけると鋭く反応することだ。馬体が小さくその時点で確信めいたものは何もなかった。しかしいい馬になりそうな、そんな予感はした。騎乗は前田哲二騎手にお願いした。ひとと馬の相性次第で競馬はコロコロと変わる。相馬眼なんてものは葱間にはない。かろうじて持ち合わせているとすれば、ひとと馬との関係性、相性を見抜く目だ。ワンダーワンダーのようにひとが騎乗すると大人しくなり、つねに冷静で折り合いもつく賢い馬には、つい夢中になって我を忘れがちになる前田のような騎手が乗ることで、相乗効果を発揮すると考えた。馬はひとに我慢すること、威厳とはどんなものかを教え、ひとは馬に闘争心、野心を植え付けずにはおかないだろう。人馬がうまく嚙み合えば空も翔べる。
 新馬戦を2着でデビューしたワンダーワンダーは、2歳ステークスで初勝利した。弥生賞で3着に終わると、葱間は上高地オーナーと相談してダービー一本に照準を絞ると決め、そこまでに至る出走計画を立てた。筋肉がつき大きくなっていく体を持て余しているようなワンダーワンダーに、古馬のハルパルサーを付けてウッドチップコースの岐路で追い切りをかける。あとはじっくりと歩かせ怪我や病気の兆候はないか、何度もチェックする。
七曜新聞杯を半馬身差で差し切ってゴールしたワンダーワンダーは、ダービー出走権を獲得する。

 葱間くんの厩舎でその馬を見た時、正直そんなにいい馬だとは思わなかった。体が小さい上にやんちゃでよく暴れる。前田が近づくと隙あらば嚙もうとするし、蹄鉄を嫌い体をいつもわらまみれにしてそっぽを向いている。今の自分相応の馬をあてがわれたなと感じた。勝てない日が続くと、そろそろ引退かという目で周りから見られ憂鬱になる。競馬学校で同期だった鹿苑学は今年もリーディングジョッキーを獲得しそうな勢いだった。勝てば強い馬への騎乗依頼が殺到し、強い馬に乗れば勝つ確率は高くなる。弱い馬で勝つためには、己の才覚、腕一本で勝負していくしかない。馬7ひと3、といわれる競馬は馬の能力を十二分に引き出し、馬の走りたいように、気持ちよく走りやすいように手助けしてやるのが理想の騎乗だが、勝つためには少し手荒く鞭搏ってでも勝とうとするのがひとの性だ。騎手にも生活があり人生がかかっている。綺麗ごとばかり通じる世界じゃないのはどこでも同じだ。
馬を見極めるなんてことは誰にもできない。大穴があったりダークホースがいたりするのは当然だ。ひとも馬も分からない生き物だから。分からないからのめり込む。
父親はすべてのギャンブルに手を出して借金まみれになった。母親は舅と姑の介護の果て、ふたりとも看取ると抜け殻になった。5才上の兄が土方をしておれを競馬学校に行かせてくれた。これはおれの復讐だ。家族を滅茶滅茶にした父親、ギャンブルへの復讐のつもりで競馬学校に入った。そこには鹿苑学という父親もまた偉大な騎手というサラブレッドがいて、才能も努力もずば抜けていた。おれの動機は不純だったが、馬は好きだ。競馬のことを知るにつれ父親のこと、ギャンブルのことを少し許せるようになった。これなら父親がのめり込むのも仕方ないと思えるようになった。おれが勝てばいい、おれが勝てば勝つほど父親よりおれの方がましだと証明でき、父親が負けた分を取り返せるんだと思った。だが壊れた家族はもとに戻らなかったし、父親への復讐も今では空しかった。馬を愛せば愛すほど父親もおれも同じだ、同じものを愛したんだと気付かされた。ひりひりするような勝負事の瞬間を、すべてを賭ける馬の美しさ、はかなさ、走るためだけに生まれてきた、散るためだけに咲く桜のような哀しさを愛したんじゃないか。
 ワンダーワンダーにトレセンで騎乗した時、この馬はひとが乗ると急に大人しくなってリズムよく歩くことに気づいた。この馬とならうまくやれそうだ。

 かなでは朝から仕事が手に付かず、午後三時になると飼葉桶を放り捨てテレビの前に駆けつけた。他の厩務員もこの日ばかりは同じようにテレビの前に集まってくる。かなでは一年前から馬の育成、調教を行なう牧場に移り厩務員として働いていた。椿牧場はワンダーワンダーが巣立っていった後、一度は閉鎖されると決まったが、上高地オーナーはじめ多くの馬主の人たちの尽力で、引退馬が余生を送る養老牧場として続けられている。かなでがワンダーワンダーの出生に立ち会い育てたことは他の厩務員たち、牧場のスタッフも知っていて、みんながかなでに声を掛けてくれる。かなでは
「お兄ちゃんの分まで走って」と祈る。わたしが殺してしまったお兄ちゃんの分を取り返して一

 日本ダービー。東京競馬場芝2400mには13万人もの大観衆が集まる。シルクハットに燕尾服姿の上高地は、関係者席でかなり浮いている。やっと顔を見せた葱間調教師と黙って握手を交わす。ワンダーワンダーは一戦ごとに逞しくなり、見るたびに筋肉がついて体が大きくなっていった。前田哲二は一戦ごとに馬を知り、馬に教えられ自信を深めた。騎手デビューして15年、ダービージョッキーになるなんて夢はとっくに捨ててた。最近は引退の文字ばかり頭にちらつき夜も眠れず、周りのそういう空気に押し潰されそうだった。そんな時ワンダーワンダーに出会った。チャンスは巡ってくる。
パドックでひどく暴れて牽引する厩務員を困らせていたワンダーワンダーも、前田が乗ると落ち着きを取り戻した。オオタカシューズに騎乗する鹿苑学を盗み見る。皐月賞馬オオタカシューズは単勝オッズ0・2倍。断トツ1番人気の青鹿毛で、隆々とした上脚筋が黒光りしている。他の馬など眼中にない様子で尻尾を振り、テレビカメラもパドックに犇めく観衆も大本命だけを追いかける。16番人気のワンダーワンダーには誰も目もくれない。人気、実力、経験、結果、年収何もかも同期学との差は歴然だ。そんな学でさえダービーにはまだ一度も勝ったことがない。リーディングジョッキーを5度獲得しGIレースに16勝もしている学が、なぜダービーだけ勝てないのか。魔物がいるとよくいわれるが、魔物がいるところなら宝物もそこにはある。チャンスは巡ってくる。自分の実力、努力、器量とはまったく関係なしに。掴めるか、掴めないかでそいつの一生が決まる。親父、あんたの気持ちがよく分かる。あんたは逃したチャンスを掴みたかったんだろう。今度こそ、今度こそと、二度と来ることのないチャンスに何度も何度も賭けてたんだ。分かるよ、その気持ち。このヒリヒリとした高揚感、生死の階に立ってるようなギリギリとした痺れる状況が、たまらなく好きだったんだ。おれが掴んでやるよ、親父。あんたの分まで掴んでやる。それでおあいこ、恨みっこなしだ。

 各馬ゲートインし、横一列のスムーズなスタートを切る。メインスタンド前13万の大観衆から凄まじい歓声が上がる。コーナーを左周りに回っていく。芝生を蹴立てる馬群の重苦しい馬蹄の音が遠ざかる。向こう正面直線でワンダーワンダーは後方から5番手あたり。先行して逃げていくのはシンキングタイム。1番人気のオオタカシューズは最後尾から。
6ハロンを過ぎて以前先頭はシンキングタイム。2番手グッジョブタケダ。ワンダーワンダーはじりじりと順位を上げて7番手から8番手といったあたりで走っている。オオタカシューズは悠々と大外を回って上がってくる。
第3コーナーを回り終えて縦長だった集団がひと塊になりながら、第4コーナーに突入してくる。シンキングタイムが吸収されロックオハラ、ハロキチ、ワンマンジョージが先頭を争って鞭の叩き合いになる。大外から回ってきたオオタカシューズが飛び込んでくる。一気に先頭に立って鞭が入る。ヴェポラップとハロキチの間を衝いてワンダーワンダー。オオタカシューズに二馬身、一馬身と詰め寄り半馬身、クビ、ハナ。頭の上下で抜きつ抜かれつしながらゴール盤手前、僅かに優ったのはワンダーワンダー。2着ハナ差オオタカシューズ。3着ハロキチ。

 葱間調教師は関係者席の柵のそばで拳を突き上げ、上高地オーナーは被っていたシルクハットを放り投げた。かなでは祈りが届いたのを見て握りしめていた手を解き、両手に顔を埋めた。前田哲二はワンダーワンダーの首筋を叩いてやり、馬上で何度も雄叫びを上げた。メインスタンド前へ戻りながら鹿苑学とすれ違う。ゴーグルで目は隠れていたが、微笑んでいるのが学の口元で分かる。メインスタンドの大観衆を背にして、哲二もキャップを目深にして微笑む。

 馬小屋の中は暗くて涼しくて気持ちいい。釘に掛けたラジオからひとが叫んでいる。
「ワンダーワンダー」と何度も言ってる。喋るのが速すぎてよく分からない。
「ワンダーワンダーワンダーワンダーワンダーワンダーワンダーワンダーワンダー」
わらを入れるのをやめて向こうの緑の原っぱと青い空を見上げる。

 上高地信也

 「ぼくはわ者に相応しい」
信也は自分の顔を鏡で見ていてそう思ったのか、自撮りした写真を添付して受講用紙を送っている。歌にも踊りにもまったく興味のなかった彼が、なぜ養成講座を続けることができたのか。本人自身が『明星』のインタビューで
「鹿苑学がいたから」と答えている。BL疑惑が浮上しても否定せず、プライベートに関しては一切明かそうとしなかった。
「SSSはぼくの飽きないオモチャだ」 彼の個性を愛してやまないコアなファンは、ライブ会場に信也の好きなアニメのコスプレをしてくるためにすぐにそれと分かる。
――アイドルであることは楽しい?
――アイドルであることは怖ろしい。そこには鏡しかないから。
――鏡?
――鏡を失ってしまった世界は闇だ。光もなければ色もない。形もない。ア
イドルとは世界に光と色、形を取り戻すための人身御供なんだよ。
ひとは夢を見る。とびっきりの夢をアイドルに託して、闇に満ちた世界を泳ぎ渡ろうとする。何もない人生に光と色、形がもたらされ、とびっきりの夢を夢見ることができるなら、アイドルは神だ。神であることは怖ろしい。
いつ見捨てられ、破壊され、踏み躙られ、忘れ去られ、何もなかったように次の神を作られるか、びくびくしながら生きている。アイドルであることの栄光も暗黒もそににある。忘れ去られてしまった偶像は土に還る。そしていつか未来の考古学者が砂にまみれた欠片を見つけて、何だったんだろうと思いを馳せる。アイドルを作り出しているのはひとの頭の中の想像力=鏡で、
想像力=鏡が失くなってしまった時が世界の終わりだ。

 ちとせの恋

 映画「ホースメン」でSSSの5人は揃っていくつもの主演男優賞を獲得、映画は日本アカデミー作品賞を受賞した。スメルスキンシップが今や押しも押されぬアジアのトップスターに君臨し、並み居るライバルたちを遥か眼下、米粒のような小ささで見下ろしていた頃、ちとせは恋をしていた。相手は24歳の一般女性で外資系金融コンサルタント会社に勤めるOLだった。事務所の先輩に誘われて行った食事会の席に彼女がいて、そこで彼女がホノルルマラソンとボストンマラソンに完走したことがあると聞いたちとせは、「今度一緒に東京マラソンに出ましょう」という話になって意気投合した。彼女とのジョギングデートの際、目深に被ったキャップ、黒のマスク、サングラスを掛けて走る姿は異様で、すれ違う誰もが訝しみ二度見した。
彼女の住むマンションにちとせが入っていく姿が週刊誌に載る。結婚も秒読みと思われていたふたりだったが、ひとつのボタンの掛け違いであとの全部のボタンがひとつずつずれていった。ちとせが配信映像会社の海外ロケから帰って来た朝、彼女は多量の睡眠薬を飲んで自殺を図っていた。
輪中は事態の収拾を早期に図ろうとメディア・マスコミ各社にありとあらゆる手段を講じた。隠蔽工作がなされたことさえ巨大芸能プロダクションへの忖度、同調圧力によって禁忌(タヴ―)とされた。倍音純の死、蛭禅輝生の爆破予告と同じように彼女の自殺未遂もまた禁忌、触れてはいけないものとされたことは、ちとせを二重に苦しめることになった。それは確かに起こったことで、彼女は死を選ぼうとした。それをなかったことにするのは自分の人生を否定されるのと同じだった。それはひとりの人としての葱間ちとせを殺し、アイドル、虚像としての葱間ちとせだけで生きろというに等しかった。
 いちこはすぐに新しいマンションを借り引っ越しの手筈を整え、腑抜けになったちとせに付きっきりで食事の世話、洗濯、掃除、ゴミ出し、日用品の買い出しなんでもやった。

 哲二の選挙出馬

 いちこが葱間ちとせの世話に掛かりっきりになっている間に、鹿苑学には3人目の子(女の子)が生まれ、上高地信也はストーカーにつけ狙われ、椿豪球がMDMA所持疑惑でマスコミを賑わせた。テレビの情報番組でMCを務める前田哲二が、日曜朝10時の生放送中、突然参院選に出馬する意向があると言い出した時、世間の誰もが首を傾げた。SSSのファンはリーダーどうしちゃったんだろうと心配したし、哲二の親も呑んでいたお茶を吹き出して、「気は確かか⁉」とブラウン管の中の息子に向かって叫んだ。事務所の後輩ルアーズの三崎昇太は「SSSオワタ」と裏アカで書き込みほくそ笑んだ。輪中は哲二を呼び出し
「馬鹿なことはやめろ」「落ちたらどうする?どうなる?」「芸能活動に終止符を打つ気か」「SSSの看板にキズ」「アイドルのすることじゃない」
「デメリットしかない」「時間の無駄」「エネルギーの浪費」と懇々と諭し説得を図ったが、哲二は
「今回ばかりは自分の我がままを通させてもらいます。」と聞かなかった。
思わぬ反撃に遭って目を白黒させ、たじたじとなっている社長を見て、哲二はいい気味だと思っていた。SSSは確かに社長のおかげでトップスターにまで上りつめた。恩も義理も返せないほどある。だけども非情に切り捨てたもの、傷つけたひと、取り戻せない過ちが多々あるのもまた事実だった。
今のSSSはもう誰のものでもない。社長の力、鶴の一声うんぬんでどうこうなるものでもなくなっていた。
「議員になって何がしたいのか」という質問に、哲二は
「愛と平和、そして自由を」と答えている。
哲二本人は至って真面目で真剣だった。選挙公示日二日前、哲二は愛車のキャンピングカーで中央分離帯に突っ込む衝突事故を起こし、全身打撲と手首を骨折、選挙カーから手を振ることができなくなった。公示日前日、出馬に反対するファン10万人の著名簿が事務所に届き、哲二はあえなく立候補を断念した。

 椿豪球

 「MDMA所持疑惑」「隠し子騒動」「堕胎強要事件」「児童ポルノ出演疑惑」「リベンジポルノ画像両出」 これらは豪球の異国情緒たっぷり(エキゾチック)な風貌が招き寄せた出まかせ、あくまでも噂に過ぎないといちこは信じている。誤解されがちで損することも多いけれど、映画「ホースメン」で演じたダウン症の男の子の役は高く評価された。本人自身が一番喜んで
「これでやっとSSSのメンバーになれた気がする」と語った。
豪球は14の時に家出し同じ境遇の子たちとかつあげ、万引き、かっぱらい、置き引き、枕探し、空き巣をして生活していた。誰もいなくなった夜中の商店街で仲間とストリートサッカーに興じていたら、いきなり上下ジャージ姿の知らないおっさんが飛び入り参加してきた。土のこびりついた汚いプーマのスパイクを履いていて、ラフプレーには審判になって首からぶら下げたホイッスルを吹いた。
「スターにならないか」
汚いプーマのスパイクを履いた上下ジャージのおっさんは豪球に言った。すでに世間で知らぬ者のなかったわ者アイドルグループSSSに加入した豪球は、まわりの胡散臭そうなものを見る目、どこの馬の骨だとあからさまに蔑む態度に堪えなければいけなかった。しかしストリートチルドレンとしていつも臭いモノに蓋で見ないように目を逸らされていた本人は、むしろ見られることに喜びを感じていた。どんなに怪訝そうな目で見られても、みんなが自分の存在を認めていると感じたからだ。豪球は
「SSSは家族だ」と言う。行き場のなかった自分に居場所を与えてくれた。メンバーはぼくを受け入れてくれた。だから社長には感謝してるし、SSSはぼくにとって帰る場所だと。
純を失った時、わたし達、メンバー、ファンは空いた穴の大きさに堪えきれず今にもバラバラになりそうだった。そこに豪球が現れ、いつの間にかみんなの中にぽっかり空いていた穴を埋めてしまった。それは豪球自身がSSSを家族と感じ、ここにいられる喜びに感謝しながら日々を懸命に学びとり、SSSに相応しい人間になろうと努力していたからだ。社長の目に狂いはなかった。空中分解しようとしていたSSSに絆をもたらしたからだ。SSSを家族だと言ってくれる子を、わたし達に与えてくれたのだから。

 信也の失踪

 葱間ちとせを救ったのは筋肉だった。ほとんど何もしないネット注文ですべてを済ませる無気力な生活で、如実に現れるのが筋肉の低下、内臓脂肪の増加、肉のたるみだ。ある日これに気づいたちとせは、どうしてもぽっこりお腹が許せなくなった。割れた腹筋(シックスパック)を取り戻すためジムに戻り、週7で猛烈なリハビリ生活を始めた。介護を終えたいちこがほっとしたのも束の間、ちとせの復帰後初のライブリハーサル初日、上高地信也が姿を見せなかった。携帯は繋がらず、いちこは信也のマンションに向かった。コンシュルジュに訊くと、昨日の夜上下のスウェット姿でコンビニに行くと出かけたきり、まだ帰ってきていないと言う。いちこは信也の行きそうな場所を片っ端から当たっていった。プライベートな話題は極力避けていた信也の事で、いちこの知っていることはほとんどなかった。
会員制メンズエステサロン。美容院。中野ブロードウェイ「まんだらけ」。探し回りながら信也が失踪した理由をあれこれ考えていた。信也は
「アイドルであることは怖ろしい」と言った。「そこには鏡しかないから」と。もう一度マンションに戻ってみたが、コンシュルジュは黙って首を振った。部屋の鍵を開けてもらい中に入ると、さまざまな色と香りが渦を巻いて降り注ぐインド映画のような部屋だった。ガラスケースの中にゾイド、レゴ、ガンプラ、フィギュアが並ぶ。本棚はマンガでぎっしり埋まっている。焚きしめられたアロマの匂いで頭がくらくらしてくる。他の4人が個々の才能を開化させたのに比べて、信也には取り残された感があったのかもしれない。純を失った時、わたし達は心臓を抉り取られるような思いをした。あなただって同じように苦しんだはず。みんなの心配する姿を見て自分の居場所を確かめるなんて幼稚だ。それで安心するなんて子供のすることだ。SSSを終わらせないで。夢の続きを見させて。SSSじゃないと見れない夢があるの。みんながわたしのSSSだと思ってる。これってとてもすごいことなのよ。みんながあなた達の夢を見てる。あなた達に夢を託してる。SSSだから託せる。スメルスキンシップはわたし達の船なの。勝手に沈めないで。
 次の日信也は何もなかったようにリハーサルスタジオに現れた。メンバーもスタッフもいつもと同じようにリハーサルを始めた。いちこは言いたいことが山ほどあったが、口を開くと内臓と一緒に悲鳴と暴言が飛び出しそうで、慌てて両手で口を抑えてトイレに駆け込み個室の鍵を閉め、誰憚ることなくわんわん泣いた。

 渡る

朝鮮人 葱間ちとせ

 顔の周りを飛ぶ蠅を追う気力もない。わたしはもう死にかけている。蝉の声が聞こえる。今日もあの日のように暑い一日だ。陽炎が揺らめく。草いきれがする。長い一日が終わり、今日も一日生きていたと気づく。こんな一生ももうすぐ終わる。覚えているのは昔のことばかりで、寝たきりになってからのことは何も覚えていない。国に帰って来てからのことは全部だ。川に跳ねる魚。岸に沿って並ぶ風ぐるま。井戸に沈めた西瓜の音が聞こえなかったか。
 わたし達家族五人は河川敷にトタンで作ったバラックに住んでいた。祖母、父、母、妹、そしてわたし。そこには国から多くの朝鮮人が移り住んでいて、朝鮮語(オンムン)が罷り通った。チョンガーとからかわれ石を投げられることもあったが、家族が一緒に暮らしてさえいければ幸せだった。土方をしていた父が家族を呼び寄せたのはわたしが14、妹が11のときだ。
その朝、父は飯場に泊まりで留守だった。わたしは工場での勤労奉仕、妹は被服工廠で作業、祖母と母は家にいた。途中までわたしと妹は一緒に歩いた。橋の袂で分かれる妹にわたしは声を掛けた。何度も何度も、声をかぎりに叫ぶが妹は振り向きもせず行ってしまった。
わたしは奉仕作業までの時間を潰そうと川岸に下り、雁木に寝転がって空を見ていた。空襲警報が鳴ってもそうしていて、空高く飛ぶB29が美しく光っていた。わたしは妹を追いかける。橋を渡り被服工廠に向かって走る。レンガ造りの建物に沿って、妹が少女たちの集団の中で歩いている。背後がピカッと光って妹が振り向く。すべてが溶明していく。妹の名前を呼ぶ。ハクジャと。日本名は鶴子。
わたしは妹と手をつないで紅蓮の炎の中を歩く。爆風で吹き飛び灼き尽くされた街の中を。焼け爛れた肌を垂らして歩く人々の間を縫って。その人たちとは逆方向に、祖母と母と父を探して歩く。道の先は真っ赤で空は黒くて、白い花が咲いている。
――熱くないか、ハクジャ
――いいえ、お兄さまは?
――熱くはない さあ行こうか
――はい
 この道はどこまでも続いていた。炎の海になった街と、呻き泣きながら歩く裸の人々と、ひとの身体で埋まった川と、黒い雨、白い花はどこまでも続いていた。
蝉の声が聞こえる。今日もあの日のように暑い一日だ。陽炎が揺らめき、草いきれがする。畑の中に麦わら帽子を被った案山子が見える。犬も鶏も鳴いている。家族が待つ島に向かってこの海を渡ろう。

 晴田鮫吉

 映画「渡る」は「騙る」を撮った鞠人弘直監督の作品で、海外映画祭のコンペティションで先行上映された。主役の朝鮮人被爆者を演じた葱間ちとせは大絶賛され、プレスで記者に質問攻めにされた。今のSSSは個があまりにも大きくなりすぎ、誰もSSSをコントロールできない状況だった。選挙に出る出ないで哲二から思わぬ反抗をされたことが、あまりにもショックだった輪中は、SSSの一切をいちこと事務所スタッフに丸投げした。哲二は選挙戦出馬断念のあと、今やっているお昼の情報番組、クイズ番組のMCに加えて、ひとりでレシピを面白可笑しく紹介しながら料理を作る動画をユーチューブにアップし始め、これが主婦層に大層受けた。ますますギリギリのギャランティ交渉に現を抜かすようになった哲二は、いちこのことを平気で男性トイレに入ってくる掃除のおばさん程度にしか見なくなった。鹿苑学は世界のスポーツという旅番組で世界中を経巡りながら、各地のめずらしいスポーツに挑戦していた。去年ソロで発表したアルバムのPV監督だった映像作家唐光宏司にモロに刺激を受けた椿豪球は、自伝的なドキュメンタリー映画の自主製作を始めた。
 SSSに追いつけ追い越せと、輪中融は次々に新たなグループを誕生させていった。特にルアーズはSSSの好敵手(ライバル)として位置づけられオリコンチャート、アルバム売上げ、再生動画回数、ダウンロード数、ライブ観客動員数、グッズ売上げ、テレビ出演本数、レギュラー番組本数、CM本数、ドラマ主演本数、映画主演本数、舞台本数、テレビ視聴率、ラジオ聴視率、ことごとくSSSと競わされることになった。帰国子女で英語とスペイン語がネイチャーなルアーズのリーダー三崎昇太は、ブロードウェイの舞台に立っている。わ者の中で誰よりも早くハリウッド進出を果たした三崎は、ミュージカル映画「21stセンチュリーマン」で見事なタップダンスを披露した。
 こうしたわ者事務所の独り勝ちの状況に待ったをかけたのが晴者、晴田鮫吉学園だった。元文科省のエリート官僚だった晴田は、官僚時代に根回しして広げた人脈(伝手とコネ)を最大限に利用して資金を集めると、全国各地に歌と踊りのキッズスクールを開校、大々的なオーディション企画をぶち上げてアイドル誕生までのストーリーを追わせ、ファンを獲得する戦略を展開していった。中でもグッドラッグは圧倒的なダンスパフォ―マンスを見せるユニットをバックに、歌姫サンファが6オクターヴの超絶の歌声を響かせ聴く者を恍惚とさせる。ライバルは多く競争は熾烈で、消えるのは早かった。

 前田哲二

 SSSのリーダー哲二ほど分からない人はいない。ある時期からヒッピー文化に目覚めた哲二は、たまの休日になるとキャンピングカーを飛ばして全国を旅した。温泉地を巡りご当地のうまいものを食べ歩いているうち、料理に凝るようになった。それでいてパチンコ、スロット、宝くじ、ロト6、ナンバーズ、スクラッチ、オッズパークといった射倖的なものに目がない。ギャランティ交渉はいちこの頭越しで社長、スポンサー、テレビ各局との直接交渉の場に弁護士と共に現れ席に着く。マネージャーのわたしをまったく信頼していないのかというとそうでもなくて、SSSやメンバー個人に来る取材、出演オファーはすべてわたしを通すようにと、事務所サイドに伝えてくれていた。
哲二は中学生の時、友達数人とわ者事務所アイドルが出ている歌番組を見ていて、「おれ達もなれるんじゃね?」と面白半分でそれぞれ受講用紙を送った。哲二にだけ通知が来ると、友達は「そんなのやめちまえよ」「どうせアイドルになんかなれる訳ねえし」「ダセえよ」「それよりコンビニでエロ本立ち読みしようぜ」と言った。哲二が反抗的な気持ちになって養成講座に通う始めると、友達は哲二を裏切り者呼ばわりして仲間から外し無視するようになった。彼にとって
「SSSは真剣な遊びだ」という。哲二はアイドルになろうとしてなれなかった友達を、SSSのメンバーの中に見ていたのかもしれない。裏切り者と言って去って行った友達に、今でも呼びかけ叫び続けているのかもしれない。「一緒に遊ぼう」と。
 デビュー当初、鳴かず飛ばずだったSSSにメスを入れ6人から5人にし、1人をメンバー交代した。代わって入った前田哲二が他のメンバー4人に初めて挨拶した時、哲二は
「おれは遊びのつもりでわ者に入ったけど、今は本気と書いてマジと読むんでよろしく。」と言った。ある時、彼は本気と書いてマジと読むきっかけになったのは、わたしだと言った。わたしは養成講座のゲスト講師として呼ばれた際、三角座りをして聴く子供たちに「使えないマネージャーとの接し方」と題して話したことがあった。
「マネージャーはあなた達のドラえもんではありません。マネージャーはあなた達に売れてほしいと思っています。売れれば嬉しいのはあなた達だけじゃない、マネージャーも嬉しいんです。マネージャが頑張るのは事務所のため、ばかりじゃありません。あなた達のため、お金のため、ばかりじゃありません。自分が喜ぶためです。あなた達の成功が、わたし達マネージャーの喜びになるんです。マネージャーはドラえもんではない。でも覚えておいて下さい。決してひとりではないのだと。頑張って。」

 未完成

 スメルスキンシップのライブドキュメンタリー映画の企画が持ち上がったのは、SSS結成17年目を迎えた夏のことだ。監督は「ジョン・パウリ」「ハノイの塔」「オーラリ」「紙・石・鋏」「モルフォ蝶」「NiPoPoPoPhon」といった作品で知られる恵方圭介で、海外にもファンの多い娯楽大作の巨匠だった。御年89才の恵方はこの映画を畢生の大作にしようと、数々の無理難題をプロデューサー、スポンサー、事務所、制作スタッフに出し続けた。富士山麓の御殿場に設営された巨大なセットは、レイ・ハリーハウゼンの特撮映画(ストップキャプチャー)に出てくるノアの方舟をモチーフにしたもので、ライブ収録の際には本物の動物たちを舟の中に入れるよう監督は要求した。スタッフが動物の手配に奔走する中、セットは組み立てられていく。恵方は何かもの足りないと思ったか、ステージの向こう正面にバヘルの塔を作り長大な吊り橋で舟と塔を繋ごうと言い出した。それでは予算オーバーになると怒るプロデューサーや輪中社長の声も、生涯最後の一本に没頭して夢中になっている監督の耳には入らず、次から次に作りかけのセットが増えていった。監督を恵方にしたのは誰だとか、そもそも映画を作ろうと言い出したのは誰だとか責任のなすりつけ合いが続き、一年経ってもセットが完成しなかった。撮影の予定は立たず経費は天井知らずに増え続けた。
プロデューサーが何人も交代し、出資していたスポンサー、配給会社が撤退していく中、8月の終わりの台風が直撃してセットが崩壊、そしてわ者事務所と共同で企画段階から参加していた制作会社の社長が海外へ逃亡、会社は破産申請を出した。このすべてを見届けるかのように巨匠恵方圭介は90年の映画人生を終える。未完の大作のセットと莫大な借金だけがわ者事務所に残った。

 いちファンの子

 火の車になったわ者事務所は所属するアイドル達のライブ数を極端に増やした。大物アーティストの前座。ショッピングモール、イベント会場でのライブ。デパート屋上遊園地前の特設ステージ。仮面ライダーショーやイルカショーの間。ショーパブのつなぎ。普段は売れない芸人が顔と名前だけでも覚えてもらおうとプライドを捨て体を張ってする仕事。熱湯風呂、裸に放水、乳首相撲、ゲテモノを食べ、猛獣と闘い、お尻に火を点けられ、粘着シートに落とされ、ローションまみれになり、パンツにサソリを入れられる仕事。どんな汚れ仕事でもなりふり構わず入れるようになる。輪中融は奴隷商人と呼ばれ、児童虐待防止法や労働基準法に抵触した疑いがあるとして、任意に事情聴取を受ける。メディア・マスコミ各社はこの時とばかりセンセーショナルに書き立て視聴率、発行部数、アクセス件数を伸ばそうとした。アイドルたちの闇、過去の醜聞(スキャンダル)、禁忌(タヴー)とされ封印された事件を報じ噂、デマ、憶測のたぐいを盛りに盛って大っぴらに記事にした。週刊誌、ワイドショー、スポーツ新聞はこぞってSSSの解散、秒読みを口にし始める。
『学と哲二は犬猿の仲』『哲二、ギャランティ配分の問題で社長と決裂』『ちとせ「これからはお芝居一本でやっていきたい」と事務所サイドに伝える』『豪球、脱退をほのめかす「もう船(檻)の中はこりごり」』『学、女優興段美卵20歳下と不倫』『信也「SSSは壊れた玩具、もういらない」』『マネージャー談「ルアーズの方がかわいい」』『輪中社長心中を吐露「SSSは死んだ」』
 ファンは動揺を隠しきれなかった。今までにもこんな嘘、まやかし、出まかせ、フェイクニュースは五万と出回って消えていったが、今回は状況が状況だけにもしかしたら本当に、そんなことがあるのかもしれないと。憶測が憶測を呼び、ないものをさもあることのようにして真実めいた話がひとり歩きし、誠しやかに囁かれつぶやかれた。そしていちファンの子からわ者事務所オフィシャルファンクラブのホームページに、
゛SSSが解散するなら、はじまりのはじまりで死にます゛ と書き込まれる。いちこは事務所を飛び出した。旅番組のロケでアンカラにいる学に連絡を取る。繋がらない。後回しにしてちとせのいるゴールドジムに電話する。この時間帯はここ。ちとせがルーティンを狂わせることはまずない。カムバックするボクサーを演じるドラマの役作りのために、身体を徹底的にいじめ抜いているはずだ。連絡が取れ、ファンの子の書き込みのことを伝える。苦しみと悲しみを越えて、ちとせはひと回りもふた回りも成長した。もうわたしが手助けできることなんてなにもないかもしれない。それでいい。みんな大人になっていく。いつまでもわたしが子守りしてる訳にもいかない。
信也は都内の某スタジオで舞台の稽古中だった。直接会って話す。新たな挑戦をさせるため、わたしは信也にミュージカルのオーディションを勧めた。鏡の中の男が変貌し、新たな一面を見せてくれるのを期待して。休憩の合間に汗だくの信也を捕まえ、書き込みのことを伝える。信也はペットボトルの水を口にしながら、
「分かった」とだけ言って稽古に戻る。豪球は自主製作した映画の編集に没頭している。今もパソコンの前に首っ引きで座って血まなこになってるはず。電話するとひどい声で出た。ファンの子のことを話す。豪球は遅れてSSSに加入している。はじまりのはじまりのことを詳しく話した。何も言わないので耳を澄ますと寝息を立てていた。豪球は来てくれる。ファンもSSSの家族だ。
学に電話してみる。繋がらない。LINEの一斉送信なんて意味ない。今すぐに、ひとり欠けたって駄目だ。それだけでファンは嘘、まやかしを本当にする。特に学がいなかったらそう思う込む。『学はSSSを脱退したがっている』『それは時間の問題で学の気持ちひとつで決まる』『グループでちまちまやってるより、ひとりになった方がずっと稼げるし大きく翔(はばた)ける』『輪中社長はすでに学の退所を了解済み』 ずっとみんなからそう思われてきた。でも本当は違う。純が死んだ時も、豪球が新しく入ってきた時も、ちとせが地獄を見ていた時も、信也がリハに現れなかった時も、誰よりも先頭に立って声を出しスタッフみんなを励まし、SSSを牽引していたのは学だった。リーダーの哲二はメンバーに自由に遊べる場を与え、学はSSSが逆境にある時こそ力を発揮した。信じる人は少ないけれども、学は努力のひとだ。人知れず何倍も努力して何もしてないといった顔をする。テスト勉強を誰よりも計画的に何週間も前からやってたのに、「全然してない」と嘯く不良ぶる学。そんな学がわたしは好きだ。SSSを一番愛しているのは学だとわたしは思う。
哲二に会うためにテレビ局に向かう。料理番組の10本撮りを終えた哲二は楽屋でメンソール煙草を吸いながらスクラッチしている。
「はじまりのはじまり?」
「そう、はじまりのはじまり。」
わたしがそのことを話すと、哲二は10円玉で一所懸命に擦りながら
「いいよ、行くよ。」と言った。
あなたが自由を愛するからこそSSSは楽しい。喜びに溢れている。「仕事を楽しめ、遊べ、笑え」といくらわたしが口で言ったって、メンバーには伝わらなかったはずだ。学に電話する。繋がる。気球に乗って空からカッパドキアを見下ろしているそうだ。ファンの子のこと、書き込みのこと、はじまりのはじまりのことをわたしが話すと、
「すぐ帰る。」と言ってくれた。みんな、ありがとう。わたしはスメルスキンシップのいちファンとして、あなた達に感謝します。ありがとう。

 はじまりのはじまり

 「ここがぼく達のはじまりのはじまりです。」
18年前、スメルスキンシップが船出した日、当時養成講座のスタジオ兼教室として使用していた倉庫で、鹿苑学が雑誌『明星』のインタビューに応えて言った言葉だ。現在の養成講座は中目黒に移転して立派な建物の中に入っている。その倉庫はまだ同じ場所に残っていたが使われなくなって久しく、板張りの床はすっかり腐ってぼろぼろで埃をかぶっていた。建物全体が一方に傾いでおり屋根に穴が開き、換気扇は蜘蛛の巣に覆われ、錆びた鉄骨の支柱から雨水が垂れて水溜まりができている。倉庫にあったすべての物は持ち去られていて何もなかった。
天井から射す倉庫にできた陽だまりに、ファンの子が割れた天窓から落ちたガラスの破片を手首に押し当て泣いている。足音がしてビクリと肩を震わせファンの子が頭を上げる。SSSの5人がそこにいる。
「本物なの?」
「そうだよ」
「本物が来てくれたの?」
「そうさ」
「わたしなんかのために」
「きみだけのためにね」
「解散するって本当なの?」
「嘘に決まってる」
「本当?」
「本当だよ」
「わたしはSSSがデビューした時、まだ5才で純くんのファンだった。純くんがいなくなって寂しくて、そしたら豪くんが入ってきて、もっと好きになって。それからのわたしはずっと辛い時も苦しい時も、ずっとSSSに励まされて生きてきたの。どんな時でもわたしのそばにいてくれて一緒に頑張ってこれたの。SSSが解散しちゃったらわたし、わたしは・・・」
「解散なんかしない。約束する」
「本当?」
「こっちに来て」
「え」
「きみの匂いを嗅ごう」
「いや、 臭いかも」
「きみの匂いだ」
「恥かしい」
「手を繋ごう」
「うん」
「SSSは解散なんかしない。いいね」
「うん」
「スメルスキンシップはきみのものだ」
「ありがとう」
「一緒に行こう」
「うん」

 逆光の中に5人のシルエットが見える。
鹿苑学
葱間ちとせ
上高地信也
椿豪球
前田哲二
ステージ上の光の中に出ていくと、待っていたファンの歓声が5人を包み彼らはスメルスキンシップになる。わたしはそれをステージ袖から見ているのが好きだ。わたしはひとりのファンの女の子になって、5人に出会えたことに喜ぶ。満面の笑顔になって飛ぶ、跳ねる、踊る、歌う、叫ぶ、泣く、また笑う。泣き笑いのぐちゃぐちゃの顔になって両手をいっぱい振りながら
「ありがとう」を繰り返す。あなた達に出会えたこと。同じ時代、同じ場所、今、ここにいること。ありがとう。

                           おわり 


 


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