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「危なっ!」 File3 ~高速道路加速車線での出来事。


1 出来事

 高速道路を走行中のことだ。

 とあるインターチェンジを通過しようとしたところ、左側から流入しようとした軽自動車が、加速車線の一番先まで行って止まってしまった。

 軽自動車に続いて流入してきた車は、軽自動車を追い越すようにして本線に流入して行き、軽自動車は取り残されたような危険な状態となっていた。


 事の成り行きはこうだ。

 その数秒前の私の位置は、合流地点より少し手前にあり、先行する大型トラックとは多少の距離があった。

 私の少し前を走っていた大型トラックがインターチェンジに差し掛かると、インターチェンジから流入して加速車線を走る軽自動車と並ぶ状態になった。(場面1)

 軽自動車は、右にウィンカーを点滅させながら加速し、トラックと同じくらいの速度になったが、本線を走行していた大型トラックはそのままの速度で走行を続けており、軽自動車の後続車は加速しながら軽自動車の後方に迫り、そこから大型トラックの後方に流入すべく進路変更を始めてしまっていたので、軽自動車は前にも横にも減速して後方へも位置を変えることができず行き場がなくなってしまった状態である。(場面2) 

 軽自動車の後続車は、停止した軽自動車の横を通過して大型トラックの後ろにさっさと流入して行ってしまったので、私はといえば、後続車もなく、追い越し車線を走行する車もなかったので、多少減速しつつ追い越し車線に進路変更して進んだところ、軽自動車がゆるゆると本線に流入してきたという状況である。(場面3) 

 私は、軽自動車の横を通過する際にその運転席に視線を向けたところ、運転していたのは高齢の男性だったように見えたが、様々な問題が内包しているように感じた。

2 不適格者の排除 vs. 共存 

 高速道路が開通したばかりの頃(もう、35年以上前のことになる。)には、一般道路の合流車線に一時停車標識があるかのごとく、高速道路の加速車線の一番先で止まって右後方の本線を確認している車を見かけることが度々あった。

 最近では、さすがにそういう場面は見られなくなったが、今回の場合は、これとは大きく異なる問題があるように感じる。

 加速車線での出来事の例から見ると、進路を譲らない大型トラック、後方から進行して先行車の進路を塞いだ後続車の行為は、その根底に、「不適格者の排除」という発想があるのではないかと思う。
(※注:専門的な見解ではなく、単に私見として申し上げていることをお断りしておく。)

 彼らの行動は、

 「何モタモタしてんだ!」とか、
 「遅ぇなぁ!」とか、
 「トロいなぁ!」

といった感情から発して、

 「邪魔だ!」
 「どけ!」

といった、他人の行動を一方的に批判してその動きを押しのけようとする行動であり、自分たちの行動原理に反する者を排除する発想に他ならない。
(※注:行為者が意識していたかどうかは想像の範疇であるが。)

 もしかしたら、自分にもそういう場面があるかも知れないと、反省とともに感じてはいるが、いずれにしても「共存」にはほど遠いものだ。

3 社会構造自体が変わってきていることを認識することが共存に繋がる

 高齢ドライバーが増加している中で、認知機能が低下するなどして、交通上危険な状態を発生させている事例も後を絶たず、放置できない大きな社会問題ともなっていることは事実である。

 年齢を重ねることで、個人差はあっても、運転に必要な「認知」・「判断・予測」・「操作」といった一連の行動レベルが落ちてくるこのは、ある程度は得やむを得ないものであって、ドライバー全体の30パーセント以上が高齢者となれば、それは、前提条件として考えざるを得ない事実でもある。

 認知症を発症して法規走行が困難な状態となれば、もはや運転免許証は返納するべきであるが、多少反応が鈍くなっても、法に従った安全な運転が可能であれば強制的に道路交通の場から排除することはできないし、今後の高齢化社会を考えれば、排除すべきではない。

 多様性が重視されつつある社会の変化の中で、「高齢」であること、「高齢化による一定の能力低下」も、年齢的な特性という、多様性の一分類として共存を図っていかなければならないのである。

 免許証を取ったばかりの初心者だったころは、だれしも、運転技術はもとより、判断や予測についても未熟であったろう。

 個人の能力は千差万別で、運転が上手い人もいれば、あまり上手くない人がいるのも現実で、それも、一種の特性に分類される。
 身体に障害があっても、様々な条件の下で運転免許を受けて道路交通の場に進出することができるようになってきており、これもドライバーの特性と考えられる。

 要は、道路交通の場には、人それぞれの個性が渦巻き、現にそれらが共存しているということである。

 これは、道路交通の場に限ったことではなく、社会全体がそうなのだ。
 道路の場面はその一場面に過ぎない。

 ならば、どうすればいいか。

4 心に「ゆとり」を持って、互いに「思いやり」「ゆずり合う」こと。

 交通安全の標語などを眺めていると気付くことがある。

 危険を気付かせるための標語や、安全を訴える標語
 ドライバーや歩行者の責任を訴える標語
 様々なスローガンが謳われているが、

 その根底にあるのは、

 安全をしっかり確認すること
 時間や車間距離、心に「ゆとり」を持つこと
 何よりも、自分以外の者に対する「思いやり」の気持ちを持つこと
 そして、互いに「ゆずり合う」こと

である。

 運転の技術を高めることは重要だが、それによって、瞬時の判断、操作に「余裕」が生まれる。「ゆとり」である。

 危険をいち早く察知し、予測し、適確に対応(反応・操作)するためには、心身に「ゆとり」が必要である。

 そして、すべての人に優しい環境を、1人1人が醸成し、安全を育む。

 「ゆとり」が「思いやり」を育み、「ゆずり合い」を実現するのだ。

 少しの「ゆとり」があれば、大型トラックのドライバーも、減速したり、追い越し車線に避けたりして軽自動車の進路の安全を実現できたろうし、後続車も、先を急がずに後ろからついて行くだけで、軽自動車は安全に流入することができただろう。

 道路交通の現場では、一瞬一瞬の判断が重要で、あうんの呼吸も必要かも知れないが、誰もが、皆、あなたのようにスイスイ走れるわけでもないことを知って、ほんの少し「ゆとり」を持って、優しい気持ちで運転するだけで、道路は、すべての人に優しい環境に代わってゆくのではないだろうか。

 今日の「独り言」である。


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