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「誰かのために」は難しい

先日、旧正月で韓国から友人が大阪に遊びに来ていた。難波でハシゴ酒だったのだが、難波はイイ。あまり行かないけど、ベチャッとしてて、イイ。

それはともかく、その友人は日本好きで、日本にも小さい頃住んだことがあるし、留学でも来ていた。よく日本に遊びに来るし、私もちょくちょくご一緒している。言葉もできるし、日本のことをよく分かっている韓国人だ。

その彼がコロナを挟んで3年ぶりに日本にきて曰く、「日本のサービスの質が下がった」という。結構考えさせられるご発言。理由を聞いたら「人の目を見ない」「コンビニとか外国人(お前もやろというツッコミは置いとく)が多く話が通じない」「日本人の愛想が以前ほど良くない」「もっと昔は暖かみがあった」などなど。少し盛ってるかもしれないが、本家本元の韓国人の思考をベースにした定点観測とすれば、なかなか示唆に富む会話だった。

五輪招致で滝川クリステルさんが「おもてなし」を語ったとき、「訪れる人を慈しみ、見返りを求めない深い意味があります」と言ったらしい。利他を軸とした他者への愛、といったところか。もしかすると、心の余裕が、なくなってきているのかも。生きるのに必死?精神的に貧しい?お金はあるけど心がない?

まあ別に、多くの日本人にとってわざわざ(めんどくさい)韓国人にへーコラしたくないという考えを持ってもおかしくない。むしろそういう考えの発露もしくは無意識的な気持ちが元でなら、まだ分かりやすくて良い。昔、あからさまに韓国人だからってイヤな顔されたこともある。

自分の話をすると、なんか徒労感を感じることが増えた。「世のため」「人のため」は、難しい。自分が生きることで精一杯。自分のことしか考えられない。私の人生のテーマのひとつが「貢献」だが、これはとても、難しいこと。

前回のレポ記事にも書いたような、「やりたいこと」をやって、「仲間に貢献」できたら、いいなーとあらためて想う。難しいし、やはり自分のことを考える方に傾く。そのことをまずは「認識」して、「意識的に利他」を目指すことか。

「おもてなし」を美徳とする日本人は、その美徳を維持継承できていないのかな。「論理」に負けてるのかな。アメリカナイズされ続けている現実に、気づいている日本人もいると思うけど。国で語るのがナンセンスともいえる。なんだか取りとめのない感じ。モヤモヤというか、寂しさ。一緒に行った難波の立ち飲み屋は、とても暖かかった。仲間感あったな。

同居人のために、キムチチャーハンをこしらえたのだが、皿ごと割ってしまった。めっちゃムカついた。カレーを作ったが、あまり上手くできなかった。いろいろ入れ過ぎて、味の方向性がブレた。「誰かのために」は難しい。

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