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婚活を始められないわたしの話4

 今日もぼんやりとした性的欲求みたいなものは治まらない。
 こまったものだ。

 昨晩、「抱ければ誰でもいい」という男性にどうアプローチすればいいのかわからない、と書いたけど、勇気を出せば出会い系サービスなどに登録すれば何とかなるかもしれないということは分かっている。

 ただ、(その勇気を出した方々には失礼ながら)出会い系サービスでヤリ目の人を探すということは、「そうしなければならない自分を認める」ことになってしまう。
 2で書いた、「婚活をするということは、婚活をしなければ自然と結婚ができない自分を認める」ことになるということと一緒だ。しかもそれよりも、さらに社会的なハードル、というか「恥ずかしいこと感」がさらに高い。

 しかしそもそも大して友達もいないのに、何に気兼ねをしているのか。
 万一バレるかもしれない?それはどの程度の確率なのか。天文学的確率に気兼ねして、99%見えている惨めな将来への回避策を取らないのか。

 しかし取れない。取れないのだ。

 そう考えると、わたしは「内面化した周囲」に縛られているのだと分かる。
 これはもっというと、「内面化した周囲と普段から脳内で入念にシミュレーションを行い、実際に人と会ったらシミュレーション通りの己を演じることで普段のコミュニケーションを成り立たせている」という壊滅的コミュ障の処世術が影響している。コミュ障というか、ASD的傾向の影響という気がする(自他境界の曖昧さ)。

とにかく、
・内面化した周囲に己が恥と感じることを行うと、普段のコミュニケーションと脳内シミュレーションとの間に大きなズレが生じる(現実の周囲は何も知らないが、脳内の中の私は重い恥を背負っている)
・やがてズレに対する処理負荷が積み重なり、実際に周囲にカミングアウトして『現実に恥を実装』しないとまともなコミュニケーションを実行できなくなる

というリスクが見込まれるのだ。
 自分で書いていて面白くなってきた。何だ『現実に恥を実装』って。
 
 さておき、「内面化した周囲に恥を背負うと、社会生活が送りづらくなる」ということは言えそうだ。
 それは自尊心の問題とも密接に関連している。つまり、私が一応の自尊心を持って周囲と日常的に向き合えているのは、「内面化した周囲に恥じることのない人生を送っている」という自負、自己認識ひとつにかかっているということだ。

 だって周囲が自分をどう思っているかなんて、永遠に分かるわけがない。
 だからといって「周りにどう思われてもいい」と思いながら生きると、変人は(積極奇異型ASDと言い換えることもできるのかもしれない?)あっという間に社会的ルールから逸脱してしまう。
 私は今持っている、安定した職業と社会的地位を手放したくない。
 そうなると、私が真っ当な社会人の顔をして生きていくには、「脳内対人シミュレーション・常時完全再演方式」を固持するしかないように思われる。
 
 そうすると、私は「変な事」を裏でできない。たとえ周囲に一生バレることはないとしても、出会い系メールサイトの掲示板でヤリ目の男を探すというような、品のないことはできないのだ。
 そんなことをすれば、社会人として生きている、表の顔の私の品もなくなってしまうだろう。

 婚活の話のつもりが変なところに落ち込んでしまった。
 最後に「品」と書いたけど、このことはは私がわりと温室育ちということも関係していそうだから、そのことはまた分けて考えようと思う。

 私は今から一週間分の作り置きをして、部屋を掃除し、夏物の服を買いに行く。ベランダでは洗濯物が風に揺れている。誰に話しても差し支えない、清潔な一日。
 私が何もしないことで守っている、何もない日常だ。

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