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続・グリーンバーグ批評選集を読んでジュエリーに当てはめて考えてみた

前回からの続きとして、これからどのように⑦の層とコンテンポラリージュエリー(CJ)が接続できるのかを考えてみる。作家視点からの意見ということで、偏った部分があることもご了承いただきたい。


前回ジュエリー市場を支えている層が図の⑥と⑧だと解説したが、ここに当てはまる大抵の人たちはジュエリーやアクセサリーにしか解消できない欲求を持っていると推測できる。幻想的な光り輝くものに惹かれたり、何かと精神的に繋がりを求めていたり、ただただファッションが好きなだけだったり。これらの層にとってのジュエリーとは、着用者を誘惑し、そして幸福感をもたらしてくれる特別な存在だと言えるだろう。
勿論、作り手や売り手もそのことを理解しており、「ジュエリーとは着用者がいて完成する」「ジュエリーは着用されて意味を成す」「ジュエリーは誰かが着用することで化学反応が起こる」といった文言がジュエリーを紹介するときに用いられている。したがって、ジュエリー市場のジュエリーとは着用者のために存在するものだと理解できるが、別の言い方をすると、この状態とは作り手よりも買い手(着用者)の方が“上”に位置するのかもしれない。ジュエリーの作り手は、着用者に選ばれることを目指し、自身の主張と需要とのすり合わせを重要視している。これが⑥と⑧の層が支えているいわゆるジュエリー市場の現状だと言えよう。

一方でCJはどのように着用者や市場と関わっているのだろうか。
2006年に東京国立近代美術館工芸館で開催された『ジュエリーの今・変貌のオブジェ』を企画した学芸員の北村仁美によれば、国内のジュエリーとは・戦前期《美を念として》・50〜70年代《ジュエリーの地位》・70〜90年代《素材の解放》・90年以降《変わる身体》の4つの動向に分けられる、と解説している。そして、『内在化された自己批判のプログラムー「ジュエリーの今」を読み解く』という資料の中で北村は、50年代以降の3章をまとめて「ジュエリーとは何かに対する自問自答の歴史であった」として総括し、ジュエリーの身体性や精神性について解説していた。
その中でも私が個人的に興味を抱いたのは戦前期の動向である。洋画家の奥村博史と工芸家の富本憲吉は「個」を頼りに、生活の中に美しいものを創り出そうとする熱意を持ち、北村は彼らの創作活動を、ジュエリーという場における「個」の追求、すなわち作家による制作の対象としてのジュエリーがあったと論じていた。しかし、この戦前期の動向は直接的に50年代以降のCJのムーブメントとは関係ないとも解説しており、西洋ジュエリーの文脈とは異なった日本色の強いジュエリーの時代だったと想像できるだろう。
反対に50年代以降は西洋ジュエリーの影響を多大に受け、ジュエリー自体への熟考と応答、ジュエリーと人間の関係性など、“ジュエリーを問うジュエリー作品”が主だったと言える。美術館でCJにフォーカスした展覧会をキュレーションしていた学芸員の福永重樹、樋田豊次郎、関昭郎などが残した資料を読んでみてもそのことは明かである。また、日本の工芸史との繋がりも重要であり、金工や漆工などの分野とも関係性が深かったことが伺える。

ここからは私の考えだが、現在のCJのあるべき姿とは、作家が表現したいという欲求をジュエリーを用いて視覚化する行為ではないだろうか。つまり、着用者側の要望を叶えたり、ジュエリー自体の更新をするのではない。単純に計算して70年以上もジュエリー(もしくは西洋ジュエリーの文脈)について議論したわけであるから、これからは奥村や富本が純粋に個人的な美の追求をしていた時代のように、ジュエリーに固執しない創作活動に立ち返ってみるのはどうだろう。
しかし、このような作家中心のジュエリーは度々エゴイスティックな作品として語られがちである。なぜ作家のためのジュエリーではいけないのか。これは単なる「着用者不要、着用者無視」という話ではない。作家のためのジュエリーとは、作家の内にある思考や衝動を外へと連れ出してくれる、いわば祭器のようなものだと言い換え可能だろう。
時代を遡れば、ジュエリー(装身具)とは姿の見えない神や精霊や自然と人間が繋がるための祭器や祈祷の道具でもあった。大衆が着用するためではなく、皆が崇める対象/象徴になることによって、その装身具は神秘的な力を持っている(持っていてほしい)と想像させたのだ。当時はコミュニティが生き残るために社会全体の“願望”を込めた装身具が作られていたが、時は流れ、個人主義のマインドが強くなった現代では、作家個人の“主張”がジュエリーとして形作られるとは言えないだろうか。そしてこの祭器(ジュエリー)は、実際の着用者がいなくても成り立つはずだ。
だけれども、CJと市場の関係性を見たとき、現在のCJ市場は一般的なジュエリー市場に似通ってきたと言える。というのも、CJも販売することを目的とした選ばれるジュエリーを作る傾向が強くなってきているからだ。ジュエリーとしてCJを考えてきた歴史からみれば当然の変化かもしれない。ジュエリーであることを問うのであれば、着用者に受け入れられる(=売れる)ことも、ある意味避けては通れないと納得できる。

ここで問題なのは《着用者/ジュエリーのためのジュエリー》と《作家のためのジュエリー》が一括りのCJとして紹介されていることだ。この両者は根幹が明らかに異なっているにもかかわらず、CJと宣言しているという理由で同じように語られて(もしくは見られて)いる。このことで生じてくるのが鑑賞者離れだ。ジュエリーに興味がない層にとってこの両者が混在していると、鑑賞のきっかけを見つけることが困難になる。ジュエリーとして着用するものなのか、作品として鑑賞するものなのか、と。

では、この両者のCJは具体的にどのような差があるのだろうか。
「ジュエリーを着用することで意図しない相乗効果が発生する」と聞いて、初めは私も興味を持った。これは着用機能という特性を持っているジュエリーならではの愉しみ方だと十分に理解できる。とはいうものの、これはジュエリー(の着用)好きという限られた範囲にしか伝わらないという一面を持っていることも事実だ。本来であれば作品自体(ジュエリー)の中には鑑賞者が思考を巡らすコンセプトがあるはずなのに、そこから作家の意図しない情報、例えば着用者から得られる様々な視覚的情報、着用者と鑑賞者の関係性、身に着けている場所や時間、さらには着用した感想の共有などが入ってくると、一体どこまでを作品として受け入れればいいのか判断に困る。この作り手がコントロール不可能な部分もジュエリー作品の特徴かもしれないが、単純に要素が多すぎるとも言えるだろう。過剰な着用者の存在感はジュエリー自体の鑑賞体験を妨げる要因になるかもしれない。
勿論、鑑賞者に着用体験を促すことで機能するコンセプトや意図的に選んだ着用者を利用する場合も考えられるし、実際に存在する。だけれども、ジュエリーが鑑賞対象になるためには、鑑賞者に着用の実体験や共有をするのではなく、着用した先を想像させることが重要だと私は考えている。なぜなら、どんなに着用を拒む人がいたとしても(特殊な地域を除けば)何かしらのジュエリーやアクセサリーを身に着けている人を絶対に見たことがあるからだ。つまりはジュエリー鑑賞にはその程度の関係性でも十分だと言える。この経験があるからこそ、“ジュエリーと着用”の条件が満たされ、ジュエリーでも鑑賞者との対話が成立すると私は考えている。しかしそうではなく、鑑賞者自体がジュエリーを着用して作品の一部となることを想定/斡旋したり、実際の着用者込みでの鑑賞を求めると、作品との対話が困難だとして抵抗感を持つ人は多いかもしれない。私自身も多くのジュエリー作品と関わってきたが、着用している作品を純粋に鑑賞しようとしても、結局はその着用者の方に気が取られてしまう。それくらい人間の存在感とは強いとも言えるだろう。ジュエリーにとって着用者は必要不可欠かもしれないが、鑑賞にフォーカスすると不必要な存在として考えれるかもしれない。

以上のことから、新しく⑦の層にCJを見てもらうためには、ジュエリー以外の作品と一緒に並ぶことを視野に入れなければならない。これまでのCJを紹介する展覧会の鑑賞者は、大抵“ジュエリー好き”が見に来ており、作り手や鑑賞者が深く考えなくとも自動的にジュエリーであることが受け入れられる状態であった。言い換えれば、(どんな造形やコンセプトであれ)ジュエリーを作ったということに何も疑問がなかったのだ。もしジュエリーを美術や工芸の世界で見せるのであれば、ここの問題は大きく立ちはだかってくる。なぜなら、作品がジュエリーであることは必ず問われるからだ。このことをイメージできているかどうかが、CJが外へ出る鍵になるだろう。

CJがジュエリーのアップデートでは無くなった先に


最後に、CJが作家のためのジュエリーとして⑦の層へアプローチすると想定して話を進める。過去の投稿でもCJの課題について触れてきたが、今回は度々議論されている《サイズ感》についてフォーカスしたい。

ジュエリーは《着用》という機能面から、サイズや重量にある程度の限界があることはご理解いただけると思う。人間が使用するものと規定すると、その振り幅は生物としての個体差程度である。一方で美術市場では絵画や彫刻、そして写真などに対するスケール感への渇望は凄まじい。海外の美術館やアートフェアに行ったことがある人はわかると思うが、その圧倒的なスケール感を持つ作品の前に立った時の衝撃は忘れられない体験だった。この作品と対峙した時のファーストインパクトは、例えるならば巨木や大河や名峰と対面した感覚に近いかもしれない。
そしてこの傾向は工芸分野にも一部当てはまる。諸工芸には元来、ジュエリーと同様の“実用性”という機能的な制限がある。しかし、昨今の工芸分野ではこの実用性を排除することが受け入れられ、工芸的な文脈に寄り添いながらも、美術作品のようにスケールの大きな作品が目立つようになってきた。伝統的な作法から取捨選択することによって大きさという限界を突破できたのかもしれないし、あるいは、美術より“下”に位置していた工芸をあえて利用するアーティストが出てきたからだとも言える。
また一方では、工芸の特徴でもある“手業”に注目し、全体のスケール感は元来のまま、テクノロジーの介入や分野の交流などによって他の作品とは異なった魅力を追求する動き(超絶技巧)もみられるようになった。使用する工具や材料の精度が上がれば、自ずと作品密度も高められるという側面もあるし、それは単に“過去の名品”を乗り越えようとする情熱がそうさせているのかもしれない。
この対比は工芸出身の私にとって興味深い内容だが、それぞれの作家が自身の信じる工芸の魅力について真摯に向き合ってきた結果だと想像できるし、CJにも共通する部分があると感じている。これらはどちらが優れているというわけではなく、現代の工芸的表現として美術市場に挑戦する作家が増えていることは事実だろう。

ジュエリーに話を戻そう。
美術や工芸とジュエリーに大きな差があるとすれば、前者にはスケール感による作品の崩壊は起こらないが、後者はそのスケール感によってその存在自体が維持できなくなってしまう。つまり、異常に大きなジュエリーになってしまったら、それはジュエリーで無くなるということだ。残念ながら《着用》がイメージできなければ(脳内に)人物像が現れず、作品のコンセプトが成立しない、ということに繋がってしまうだろう。
私も作家としてこの問題点に向き合った時期があった。「美術市場を狙うには巨大なジュエリーを作るしかないのか?どのように大きくすればいいのか?」と。しかし、試行錯誤を繰り返してきた結果、今は「ジュエリーとしてのサイズは維持しなければならない」という結論に達している(“今は”と強調したのは、作家活動を通して変化する可能性を示している)。
コンセプトの一部にジュエリーを用いるのであれば、ジュエリーの体裁を保つ必要がある。鑑賞時に「なぜジュエリーになっているのか」「なぜジュエリーを使用したのか」となってくれれば、鑑賞者側から自然と作品に歩み寄ってくれるだろう。だが、物体として「これはジュエリーなのか?」という疑問が出てしまったら、それは作品の本筋に必要のないノイズとして鑑賞者の興味を削いでしまうし、そもそもジュエリーとして認識されなければコンセプトが崩れてしまう。先程も指摘したように、ジュエリーの展示(ジュエリー内ジュエリー)として見に行くのであればこの問題は皆無だ。しかし、美術作品としての展覧会参加を目指すのであれば視覚的にもジュエリーになっていること(=人間が身につけられるであろうスケール感)は、CJには必要なのかもしれない。

とはいうものの、一括りにCJと言ってもその表現方法は多岐にわたる。この(人間が着用することを想定した)方向性とは全く異なったアプローチでジュエリー作品を制作する作家も勿論いる。ドイツ人作家のギースベルト・シュタッハは市販のパールネックレスを植物に着けてその成長過程で生じる視覚的変化を記録した作品や、貴金属が特殊な液体で溶けて消えていく様を撮影したビデオ作品などを発表していたり、日本人作家の大山由華はジュエリーを制作する模擬工場を作り、ジュエリーを起点としたリレーショナルアートのような作品形態として発表している。
このような作品は、今回注目した《サイズ感》の問題について直接的に当てはまらないアプローチだと言えるだろう。これから少しずつCJの世界に興味を持ってもらえるように、このような作家について今後紹介できたらと思う。


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