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コンテンポラリージュエリーと展示〜作品か商品か〜

今回はコンテンポラリージュエリー(以下CJ)の《展示》にフォーカスする。
CJ作品を制作している作家はいわゆるアート作品と同じようにギャラリーやアート(デザイン/工芸)フェアで作品を販売している。ほとんどの場合はギャラリストに作品を預けているので、(私の経験上)作家とギャラリーは50:50の割合で売上げを折半しているのが一般的だ。もちろん他の割合や作家個人で作品を販売している場合もあるが、それはさておき、今回取り上げるテーマは、作品を売る際に《どのように作品を展示しているか/紹介しているか》について考えたい。

昨今の現代アート市場では、作品が《商品》として流通する側面が強くなっている。オークションやフェアでの売り上げ総額や最高額、完売作家といったトピックスは今でも頻繁にメディアを賑わせていることは言うまでもない。芸術は特権を持った一部の権力者と結びついたパトロン制の時代を経て、アーティストが自由に作品を制作できるようになり、また一方では学問の一つとして学術的にまたは文化的に研究されている。そして現代のアート分野では資本主義経済と強い結びつきを持ったビジネス的思考(投資的価値)も重要視されている。学術的側面と市場的側面の両立が特徴と言えるかもしれない。
ではCJはどうだろうか。
どこかで展示を見たことがある人はわかるかもしれないが、昨今のCJ作品を見せる展示は、一般的なジュエリーのように“バリエーションの陳列”だと私は感じている。一つ一つの作品と向き合うことはほとんどなく、複数のデザインの中から目に付くものを選んでもらうという「数打ち当たれ」の受け身の展示と言ってもいいだろう。
しかし、このような“作品をたくさん見せることが良い”という安易な考えは捨てるべきだ。私も作り手なのでたくさん見せたくなる気持ちや売りたい気持ちも十分に理解できるが、本当にその見せ方がベストなのだろうか?
例えば、多くの作品を壁や台に並べてインスタレーションのように展示する方法が最良な場合も勿論ある。しかしその作品は“個々”を見せているのではなく、空間全体を含めた一つの大きな作品として鑑賞されるべきで、沢山ある中の一つを手に取ってもらいたいわけではない。“個のビジュアル”と“総体のビジュアル”のどちらで見せるべきなのか、様々な視点から判断する必要があるだろう。ただし、総体で見せたい場合には他の作品との一定の距離感や空間条件など、インスタレーション作品として機能するための制約があることも知っておかなければならない。ただ単に“小さいモノをたくさん並べれば面白く見える”または“スペースを埋められる”と安易に考えてしまうのは、一つの作品では物足りない、つまり、“作品としての強度が足りない”と自分で認めているようなものだと言わざるをえない。
しかしながら、ジュエリー市場で販売したいと考えるのであれば、デザインやカラーやサイズに関して複数のバリエーションを一度に見せた方が売れる確率が高くなるのはその通りかもしれない。だけれども、ジュエリーを現代アート市場で見せたいのであれば、単純なバリエーションなど全くもって必要ない。それ以前に、作り手が表現したいカタチ、もしくは必然的なカタチとして出てきた作品であるなら、そもそも着用者の趣味趣向に合わせる必要もないだろう。

現代アートは学術的に見識がある人たちにしか浸透していなかった狭い世界に投資的価値(商品化)を取り入れることにより、ビジネス界隈を筆頭に裾野が広がることで分野内の循環が活性化された。つまり、どんな形であれ新しい層にアート作品を広めることができたのである。
CJはどうか。
私は、「アートの流れに沿って同じように商品化を強くすれば市場が活性化するはず」もしくは「アート市場に乗れるかも」と多くの人が勘違いしているのではないかと考えている(もしくは何も考えずとりあえず展示してるだけか…)。
なぜそれが勘違いだと言えるのか。それは元々ジュエリーは《商品》として一般的に普及しているからである。
ジュエリーは、一部の権力者のジュエリーから一般市民のジュエリーへ、服装の変化(男性用や女性用)、そしてシチュエーションに合わせたジュエリーなど、幅広い層に向けて使用を促した商品としてのイメージが歴史的に植え付けられている。これは当たり前のことだが意外とスルーしている人が多い。なのでアートと同じように《商品》的扱いでジュエリーを紹介しようとすると、結局のところジュエリーに興味のある層にしか響かない。つまりいつまで経ってもジュエリー市場からは抜け出せない状態が続くということになる。CJの作り手や売り手が注視しなければならないことは、《いかに作品として見せるか》だと私は考えている。
「作家が作る一点モノのジュエリーは立派な作品だ!」という意見も聞こえてきそうだが、果たしてそれは正しいのだろうか。やはり前回の内容同様、作品には鑑賞に耐え得る強さが必要だと、私は強く言いたい。

展示方法以外にも作品の紹介の仕方についても気になる点がある。
現在では実際に展示会場に行かなくてもSNSなどで作品の解説を目にする機会が増えてきた。「ボリューム感があるが軽くて身につけやすい」「貴金属ではない〇〇という新しい/珍しい素材を使っている」「作家が一つ一つ手で作っている一点もの」「ユニークなデザインで個性を表すアクセントとして…」などといった説明を聞いたことはないだろうか。これらは作品を説明する上で全く必要としていない内容である。これは何を説明しているのか?そう、着用者目線に立ったジュエリー(商品)を売るためにフォーカスした説明/情報である。
私の経験上、作品や作家について深く理解しているギャラリストはほんの一握りしかいないと言っても過言ではない。作品の根幹を蔑ろにした表面的な説明や「あなたに似合うから!」と販売員としてしか機能していないギャラリストは世界中に数多く存在する(もちろんギャラリストだけでなく作り手も同じように発信している人が多いことが問題なのだが…)。結局のところジュエリーに興味を持っている層にしか届かない言葉であり、それではいくらCJを売る裾野を広げようと思っても変わるわけがない。私が言いたいのは、ジュエリー好き以外の人に興味を持ってもらうためには何をするべきか?ということだ。
着け心地やサイズ感やファッション哲学などは人それぞれなのにも関わらず、作品が内包するメッセージ性や作家の想いなどではなく、いかにその人に相応しいかという着用者目線が強すぎる。結局のところ、作品が重要なのではなく、着用者(お金を払う人)が重要なのだ
これはCJに関わる多くの作り手、売り手、そして買い手にも当てはまることであり、ここに分野の大きな改善点があると私は考えている。作品を構成している要素は何か、何が強みなのか、根幹となる部分は何かをしっかりと理解している(考えている)人はどのくらいいるのだろう。着用者に似合う似合わないではなく、なぜ(この作家が)ジュエリーという形で作品を作ったのか?を地道に伝えていかなければならないし、作り手は自身の美的感覚に依存しない部分で作品と向き合う必要がある。センスや勢いや物珍しさでCJが注目された時代はとっくに終わっている。

“作りたい作品”と“収入/生活”のバランスは古今東西、重要なテーマとして議論されるし、私が投稿している多くの内容は一定の人たちからすると絵空事に感じるかもしれない。「作品性が強くなると売れない」、「口だけの世間知らず」と。しかし、私は“売る”ことを目的としたジュエリーに何も面白さを感じない。今のCJは文化的興味深さよりも消費の対象としての側面が強すぎる。
作品を作る上でジュエリーという形態がベストだから、ジュエリーが制作のアイデアをもたらしてくれるから、だから私は今でもジュエリーに興味があり考察を続けている。

2023年も稚拙な文章を読んでいただきありがとうございました。来年も個人そしてCJSTの活動で新しいことに挑戦します。引き続きよろしくお願いいたします。

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