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今はコンテンポラリージュエリーの過渡期〜続き〜

前回の続きとして、私自身がどのように現代美術の世界に挑戦しようとしているのか少し解説する。あくまでも作り手側の一つの意見として読んでいただけるとありがたい。

まず注目したのは作品のサイズ感である。現代美術を取り扱うギャラリーや美術館に行ったことがある人はイメージができるかと思うが、展示されている作品は巨大なモノが多い。これはアメリカを中心に変化していった歴史、トレンドのようなものがあるが、その中でも“アートとしての写真作品”について一部説明してる本があったので抜粋して紹介したい。

1990年代、その写真がアートであると見分ける基準は、写っている人が誰も笑っていないこと、あるいは芝居がかった態度が目につくことだった。しかしその写真がアートであるとわかる一番の方法は、巨大さだ。サイズによって、スナップや報道写真ではなく、絵画のような存在感を得たのだ。…(中略)優れた写真家であるマーティン・パーに、他の写真と区別するためのアート写真の定義を教えてくれないか尋ねたことがある。「高さ二メートル以上、価格が五桁以上であること、かな」と彼は即答した。

みんなの現代アート 大衆に媚を売る方法、あるいはアートがアートであるために
著者:グレイソン・ペリー、訳者:ミヤギフトシ、出版社:フィルムアート社、2021年、p182
引用p85、86

これは写真というこれまた独特で変化の激しい分野なのでジュエリー分野に当てはめることは容易ではないが、このように《アートorアートではない》を判断する基準の一つとして“サイズ感”はイメージし易いだろう。そして、アーティスト自身が自分の中での定義を持っている、ということにも注目したい。

ではこのサイズ感という基準をジュエリーにも当てはめてみる。機能はなんでも良い。指輪でもネックレスでもブローチでも。着用者の身体的差異によって多かれ少なかれ差はあると思うが、ある所までいくと着用が困難もしくは不可能になる。ここで一つの疑問が出るはずだ。はたして着用できなくなったジュエリーはジュエリーなのか?と。このサイズ感については昔から議論されている内容であるし、考えれば考えるほど壁が高くなっていく(実際にはジュエリーの形を模した巨大な彫刻作品や空間作品も存在している)。私自身、安易にサイズを大きくすることに対しては懐疑的だが、作り手側にジュエリーの形状を使用した明確な意図があれば巨大な野外彫刻でもコンテンポラリージュエリー(以下CJ)分野で議論しても面白いかもしれないと考え始めた。しかし、このサイズ感という基準については簡単に答えが出そうにないので別の機会に議論したい。
また引用文内でもあったように、作り手であるなら個人的な定義は必要だと私は考えている。定義というある種の線を引くことで次の線が見つかるし、過去の作品や他分野との差も(仮としてだが)明確になる。“正しい”か“正しくない”かは二の次で、この線引きがあることでアーティストとしての制作活動が可能になるし、同時に批評が生まれる。このように常に新しい線を探し求めることがアーティストの営みだとすると、この無数に引かれた無秩序な線を整え並べ、社会一般に伝えることが《文脈作り》だと言えるだろう。しかし残念ながらCJ分野には文脈作りの担い手が不足していることは歴史が証明している。これも前回書いた“批評家がいない”という問題に繋がっているのだが、作品と文脈と批評は密接な関係にある。具体的な文脈が構築されなければいつまで経っても批評は活性化しないことは明確だ。しかし落胆する必要はない。時代は変わった。歯車が噛み合えばすぐに動き始めるだろう。過去やしがらみに囚われることなくCJ分野の未来を見据えるのであれば、恐れずに自分なりの考えを発信したり定義するべきだ。ある種の選ばれ者しか発言できなかった時代はとうに過ぎ去っている。

話が脱線してしまった。皆さんにも様々な意見があると思うが、ここで一つ、1970年代以降に始まったであろう伊藤一廣先生を中心とした議論を例に出す。具体的には、着用性や身体性について重要視しないという内容だった。『美術的価値や芸術としての存在性といった、従来のジュエリーからはみだしてしまう部分をどう位置づけていくかがジュエリーを担う我々が今やらなければないないこと』というテキストを残していた。ジュエリーの《鑑賞性》という点をどのように社会一般に広めるかについて議論が本格化した時代ではないかと思う。私はこの文を読んだ時に心底共感したのだが、しかしその一方で30年経った今でも変化していない現状にがっかりした。いつまでも“ジュエリーの着用機能の良し悪し”や“凝り固まったジュエリー論”を議論したり慰め合ったりするのではなく、もっと、具体的に《鑑賞》を促すかを考える必要がある。そのために作品は中途半端ではいけない。着用機能を排除するのであれば鑑賞者を唸らせる提案が求められるだろう。それはジュエリーとしての提案ではなく、現代社会を生きる1人の人間の思考として。
もし、“着用して欲しい”という想いが一番にくるのであればCJとして発表しない方がいい、と私は言いたい。ジュエリーと名のつく分野の話をしているのに何を言っているのか、と感じる人もいると思うが、制作動機がそこにあるならもっと相応しいマーケットが存在しているし、その方が経済的な成功には近い、ということである。もちろん経済的な成功もいらないというのであれば、趣味の範囲で作る自己満足なジュエリーとして作ればいいし、それはそれで良いと思う。“着用して欲しい”と“着用の必要性”は全くの別物である。

《鑑賞性》についての問題に戻る。この問題が簡単に解決できないということは現状をみて貰えばわかると思うが、情報を発信し易くなった現代において作り手の戦略が鍵を握っている。アート、映画、華道、スポーツ等といった多くの文化は“何も考えずに鑑賞できるエンタメ的な部分”と“鑑賞方法を理解する必要があるもしくは理解した方が好ましい教養的な部分”に分かれると私は認識している。もちろんCJ分野にも当てはまり、圧倒的に後者の比重が足りていない。「ではすぐにルールブック/作法を作りましょう!」と言って簡単に解決する話ではないが、鑑賞方法についての言語化や文章化は早い段階で必要だろう。その為にはもちろん文脈の形成が必要不可欠だが、一方では作り手たちの意識改善も重要だ。CJの作り手たちは《ジュエリー》という社会一般の先入観と戦うもしくは利用していたりするが、伊藤先生の言っていた“従来のジュエリーからはみだしてしまう部分”を丁寧にわかりやすく伝える戦略が求められている。学術的な方向へアプローチするのか、市場的な方向へアプローチするのかは各々自由な選択が可能だろう。どちらも発展途上でチャンスがあることは間違いないのだから。

私のイメージが伝わるかわからないが、ジュエリー思考の中にいる状態からはみ出した部分を説明するのではなく、ジュエリー思考の外に立ったうえでジュエリーからはみ出ている部分をピックアップする、ということに挑戦している。できるだけジュエリーという枠組みから距離をとった位置で客観視することで、自身の表現手段の一つとして利用する目的がある。別に新しいジュエリーとして認めてもらいたいわけではない。ジュエリー文化を広めたいのではない。ジュエリーは選択肢でしかない。なぜなら私も大抵のアーティストと同じように個人的な承認欲求で制作活動をしているから。
これまでの投稿を省みると矛盾している点もあるかもしれないが、正直、私自身の考えも少しずつ変化していることを理解してほしい。文章化することで新しい線を引き続けている証拠だろう。だがCJ作品は面白いし好きだということ自体は変わっていない。あくまでもジュエリーという大きな括りではなく、アーティスト/作品という単位で。なのでCJ分野が認知されることで素晴らしい作品に出会う機会を多くの方と共有したいし、そうなるように地道な啓蒙活動を継続するつもりだ。もちろん作品を発表する側としても。
もし、同じような志を持って活動する方がいればCJSTでもあなたの活動を応援したい。1人での活動には限界があるが、人数が増えていけば新しい道が開けると私は信じている。


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