音楽は鳴り続ける/星野源「POP VIRUS」|耳鳴り #1
一人になったとき、ふと口ずさむ歌がある。雑踏の中、一小節分のメロディを聞いただけで「あ、あの曲だ」と足を止めることがある。
ほとんど無意識に歌は口をついて出て、耳は音の連なりを聞き分ける。つまりそれほど密接に、音楽は僕たちの記憶や生活に結びついている。
音楽とはなんだろう。
それはフォークロアであり、流行語でもある。言葉を持たないものであり、言葉から生じるものでもある。
手を鳴らすだけで音楽は生まれ、集積回路が膨大な計算を行い音楽は生まれる。
音楽はローカルだ。でも世界共通の言語でもある。
音楽は後世に歴史を語る。
愛しい人に恋心を伝える。
コンサートホールで聴く音楽があり、ジャングルの奥地で聴く音楽がある。
路傍のギタリストから聴く音楽があり、枕元の母から聴く音楽がある。
ひとくくりに語るには、音楽の相貌は余りに豊かで遠大だ。それでもあえて表現するならば、音楽とは、「旅をする音」のことだ。
それは人から人へ、あるいは人以外の何かから人へ、人から人でない何ものかへ、時間も空間も越えて響いてゆく。
誰かの耳に響いた音が、今度はその人によって奏でられる。屋根裏で譜面に刻まれた音が、数百年後に聴衆の埋め尽くす大講堂で響き渡る。水音や風鳴りや馬のいななきが、誰かの耳を通し、楽器から音色になって蘇らされる。
その音色はまた、誰かの耳に届く。
そうしてずっと昔から、音は旅をしてきた。旅をする音は音楽と呼ばれた。
音の"最初の旅"はたぶん、言葉よりも道具よりも先に始まっただろう。星野源はこう歌っている。
"始まりは炎や棒切れではなく音楽だった"
――『Pop Virus』
もう一度耳を澄ませてみよう。飛び交う音の中に、あなたに向けて旅をするものがある。
また、あなたの中にはすでに、そうして旅をしてきた音がいくつも飛び交い、あるいは地層となって堆積し、再び響くときを待っている。
そうして誰もが自分だけの音楽を持つ。それは、その人に旅をした全ての音が奏でる音楽だ。
もう会えない人。もう行けない場所。一度だけの夜。僕たちはしばしば、忘れたくない、失いたくないものに出会う。人が去り、物がなくなっても、音は旅を続ける。
形あるものが全部失われたとしても、あなたにたどり着いた音楽はあなたの中に生き続け、ある時ふと耳を揺らすのだ。耳鳴りのように。
photo by すなば
【 すなば 】
文筆家。シティボーイを経て現在シティガイ。ニュークリーンロマンチシズムの下、エッセイ、小説、自由律俳句、短歌などの分野で活動する。執筆実績として共著『エンドロール』(PAPER PAPER)、寄稿『飛ぶ教室』第57号(光村図書出版) / 『マガジン一服』vol.2 など。
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