鈴蘭符、振りカエル。

 鈴蘭符が初めて彼を知ったのは、10年以上前の深夜ドラマだった。当時彼はそのドラマに脇役で出演していた。深田恭子演じる教師に恋する同僚教師役だったが、今では想像できないほど、ぶっ飛んだ演技で深キョンにアタックする彼の演技に鈴蘭符の目はクギ付けになった。それが鈴蘭符と星野源の出会いだった。その後、彼の所属する劇団の公演を見にいったり、彼がCDデビューすると曲を聴いてみたり、熱狂的なファンというわけではなかったけれど、折を見て彼の活動を応援していた。だから、彼が突然、病に倒れたと知った時は、本気で心配したし、復帰後、しばらくして病が再発した際は、もう星野源は表舞台に戻ってこれないかもしれないと覚悟もした。
幸い彼は病に打ち勝ち、表舞台に帰ってきた。そして病と闘う中で感じた死生観を歌詞に乗せ、曲に乗せ、奏でるようになったと鈴蘭符は感じた。そこから彼の人気に火が付くまで、そう時間は掛からなかった。曲が売れ、ドラマの出演が増え、あっという間に紅白にも出演するスターになっていった。その活躍が嬉しくもあり、鈴蘭符は淋しくもあった。身近な存在だったものが、どんどん手の届かない存在になっていくことによって感じる淋しさ、よくあるファン心理かもしれない。それと同時に鈴蘭符は当たり前だが10年あれば人生、大きく変わるものなのだと改めて感じた。だが、鈴蘭符がふと振り返えると、自分の蛙生はここ10年以上、何も変わっておらず、同じ場所でゲロゲロ鳴いているだけだったような気がした。「ベルサイユのパン」で作家デビューしたあの日から、自分では精一杯前脚後脚を使って荒波を泳いでいたつもりだったのに実は少しも前に進んでいなかったのかもしれない。
 どれくらい時間が経ったのだろう、アパートのポストに新聞が投げ込まれる音で、鈴蘭符はケロッと我に返った。ラジオからは既に別の曲が流れていた。プフゥーとため息をつくと、彼はラジオを切り、おもむろに立ち上がると、ハンガーにかけてあったハンチングを被った。
 その小さな背中をさらに丸めるようにして、彼は部屋を出て行った。
 机の上の原稿用紙は今日も白紙のままだ。

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