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夏の宵のペトリコール

暑い日だった。袖を捲った腕にちりちりと差す日差しは力強く、無邪気だった。電車の窓から見える空の隅々まで、夏が広がっていた。

オフィスを出る時間がいつになく早かった。部活終わりの学生。夜の予定に向かうと思しきビジネスマン。普段と違う景色は、足取りを変える。一つ手前の駅で降り、いつもなら通り過ぎるだけの広場のベンチに腰掛けた。

喧騒とは無縁な駅前に、踏切の音が木霊する。テラス席と呼ぶのも憚られる屋外のパイプ椅子で足を組み、クレープを食べている初老の男性が目に入った。笑顔の理由が彼のスマホの画面に映る何かなのかクレープなのかはわからなかったが、さぞかし幸せな時間を過ごしている様子だった。

夕暮れの手持ち無沙汰は酔いを誘う。おもむろに立ち上がり、短い横断歩道を渡ると、路地を入ってすぐの手前の居酒屋が目に入った。軒先に、涼やかなラベルを纏った一升瓶がずらりと並んでいた。

「手動です!」と手書きの紙が貼られた自動ドアを開けて、一人ですと伝える。はきはきした若い女性の店員さんが奥のカウンター席に案内してくれた。赤いキャップを被った常連の中年男性が、一番奥の席で大ジョッキを片手に大将と話し込んでいた。

何か日本酒をいただけますかとお願いすると、こちらの冷蔵庫でお好きなものをと店員さんに手招きされた。汗ばむ陽気には、透明や青の夏酒の瓶がよく映える。目移りしつつ、手前にあった「庭のうぐいす 特別純米 なつがこい」を選んだ。グラスに注がれた福岡の銘酒は、涼やかな酸を泳がせる上品な佇まいをしていた。

肴には、茄子の揚げ出しを注文した。淡い出汁を効かせたトロトロの茄子の上に、鬼おろしと生姜がたっぷり乗った小鉢には、爽やかな夏が詰まっているように見えた。うぐいすの盃を傾けるのが捗ってしまい、次のお酒を頼んだ。少し味のするやつが欲しいなと思ったところへ運ばれてきたのは、「土佐しらぎく 特別純米 斬辛」。大好きな酒米、八反錦で仕込んだ高知のお酒だった。

「斬辛」と銘打つに相応しい、捌けのよい旨味と、静かで、しなやかな切れ味。表情こそ豊かでないが、そばにいればやさしい笑顔を向けてくれる、穏やかな人柄を感じさせるお酒だった。仕上げに注文した明太子焼きおにぎりは、重ね塗られた甘醤油の香ばしさに炙り明太子の厚い旨味が絡み、ひと口頬張るたび、しらぎくの良さを際立たせてくれた。

テーブル席が少しずつ埋まり始めたので、お会計をして店を後にした。再び手で開いた自動ドアの外には日差しの余韻が残っていたが、人影のない路地の空気はどこかひんやりしていた。

見慣れた線路沿いの小道を、ゆっくりゆっくり歩く。風を作って追い抜いていく電車の音が心地よかった。夏はまだこれからだというのに、鳴り響く踏切の音は、いつだって秋だ。

すうっと、息を吸い込むと懐かしい香りがした。乾いた地面から立ち上る雨の匂い、ペトリコール。ギリシャ語で石のエッセンスを意味するそれは、太陽を照り返すアスファルトが雨を待つしるしだった。

通り過ぎる蝉時雨は寂しい声で、あっという間に過去になる。それが夏で、だからこそ夏なのだろう。新しい季節は、まるで奇跡のように、ふとした瞬間に流れてくる。

足を止めてもう一度、深呼吸をした。ふわふわ歩く酔い覚ましの散歩道に、やさしい、仄かな土の匂いが漂っていた。

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