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「わかりやすさ」と矜持

「わかりやすかったです」を手放しに喜んでいいものかと思う。

昨年書いたnoteで、こんなことを言っていた。

「わかりやすさ」とは速度。忙しい毎日を過ごす人々にとって、速度が生み出してくれる"時間"は何よりも価値がある。自分のために時間をかけてくれることと、自分のために時間をかけないでくれること。どちらの方が価値があるかと問われたとき、その答えを一概に述べることは難しい。

「わかりやすさ」は速度であると言い切る一方で、「時間をかけないこと」に価値があると説いている。1年以上経って読み返すと、どうも速度と時間を混同しているように思えてきた。

到達すべき理解の終着点があるとする。そこに超特急でたどり着けるのは「わかりやすい」ことの証左だろう。だが所要時間だけを比較するのはナンセンスだ。家の前のコンビニに1分で行けると言ったところで、そんなの当たり前じゃないかと返されるに決まっている。アマゾンの秘境に迷わず1分でたどり着ける方法が編み出されたのなら別だけれど。

「わかりやすさ」が速度であることを疑っているわけじゃない。評価されるべきは速度である。速度は距離と時間を前提とする。ここに混同が生じる。速度ではなく、距離あるいは時間が評価の対象になっていないか。

速度は、単位時間あたりの位置の変化率である。速度を上げるには距離か時間のいずれかを縮めなければならない。到達すべき理解の終着点が動いたのであれば、それは理解の対象そのものが変わってしまったことを意味する。理解の対象を定める以上、距離は縮められない。アマゾンの秘境に早くたどり着きたいからといって太平洋を消し去ることはできない。速度を上げるには、時間を縮めるしかない。

なのに、距離のあること自体が邪魔者扱いされている気がする。

遠く、深いところにあるということ。長い道のりを歩いたからこそたどり着いた終着点。ワープはできないから歩くしかない。汗水たらした踏破には誇りがある。誰もが容易にはたどり着けないからこその矜持がある。それを承知で放たれる「距離を縮めろ」は戯言であり、敬意を失している。その人が最後まで踏みしめた一歩に価値がないなんて誰が言えるのだろう。

こんな話を聞いたことがある。人は得てして、「理解するための情報そのものが不足していること」と「理解力が足りないこと」を一括りにして「頭が悪い」と思ってしまいがちであると。置かれた立場や状況が違えば当然得られる情報も違うのに、把握していない情報があるというだけで「頭が悪い」というレッテルを貼ってしまうらしい。相手にも、自分にも。

「わかりやすさ」もこれに似ている。「距離があること」と「時間がかかること」を一括りにして「わかりにくい」というレッテルを貼ってしまっていないだろうか。距離を縮められない以上、時間を縮めるしかないのだから、「わかりにくい」とは時間がかかることに同義のように見える。

だからといって、距離を無視してはいけない。速度は距離と時間を前提とする。距離は与件である。そして速度には限界がある。長い道のりを歩きぬくにはどれだけ駆け足になっても時間がかかって当然である。そこに投げかけられる「時間がかかりすぎる」「わかりにくい」といった不平に耳を傾ける必要なんて本当はないはずなのに。

しかし、諦念なのか迎合なのか、それとも偉すぎる「わかりやすさ」への屈伏なのか、距離を縮めることで時間を創出しようとする。誰もが容易にはたどり着けないはずの終着点をいとも簡単に手前に動かす。踏破の矜持を捨て去るのだ。時間をかけなければ「わからない」ことがあると知りながら。

そうやって距離を縮めるほどに世界は単純化されていく。奥行きのある深遠な世界が、まるで解像度の低い写真に還元されていくかのように。短い糸で複雑な模様を編むことなんて誰にもできない。

「わかりやすかったです」「共感しました」といった言葉が賛辞としての地位を得て久しい。だがそれは本当に「わかって」いるのだろうか。5分でたどり着けたことを喜ぶ前に疑わなければいけない。待つのをやめた相手が山奥から麓までわざわざ下りてきてくれただけで、自分は麓でまだくすぶっているだけかもしれないと。

距離があって当然なのだ。ぼくは待つことも歩くことも諦めたくない。それはお互いに対する敬意であり、矜持でもあるからだ。





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