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「わかりやすさ」の価値

疑いようのない価値だと思っていた「わかりやすさ」を揺さぶる日々が続いている。

今の世の中、「わかりやすさ」には絶対的な信頼が置かれている。少なくともビジネスの場では替えの効かない立役者だ。上司や顧客に説明をする場面で、わかりにくい説明をしようという人間はまずいない。

「わかりやすさ」とは速度。忙しい毎日を過ごす人々にとって、速度が生み出してくれる"時間"は何よりも価値がある。自分のために時間をかけてくれることと、自分のために時間をかけないでくれること。どちらの方が価値があるかと問われたとき、その答えを一概に述べることは難しい。

ゆっくり走れば味わうことのできる風光明媚な景色も、スピードを上げれば単なる背景と化す。アクセルを踏み込むことに伴う犠牲。資本主義社会あるいは情報社会のいずれが生み出したのかは定かではないが、まるで普遍的な価値観かのごとく社会を闊歩する「わかりやすさ」という魔物に、ありとあらゆる営みが餌食にされてしまっているような感覚を覚える。

そんなことを考えていた折、この本に出会った。

本書はそのタイトルからも窺えるように、「わかりやすさ」を過剰にもてはやす現代の風潮に一石を投じる。まだ読み途中なのだけど、読了後に何かを「わかった」ようにして言葉を連ねるのは本書の趣旨に反するものだろうから、まだ思考が混迷を極めているこのタイミングで書くことにした。だから予め断っておくと、このnoteは最後まで読んでも答えがない。むしろあるはずもないし、あってもいけない。

本書で最初に目を引いたのは、次の一節。

今という時代は、こっちが理解できるもんを出してくれという生温い受動性と、こっちはそっちも理解してますから、という身勝手な能動性が、相手に対する最低限の尊厳さえ損なっているのではないか —— 『わかりやすさの罪』61頁

「わかりやすさ」は偉い。偉いやつにはこちらから出向かなくてはいけない。昔から変わらないこの世の摂理だ。出向いても、相手の期待する「わかりやすさ」ではなかったら出直さなくてはいけない。悲しいかな、それもまた等しく世の摂理だから。

多くの人は、理解するための情報そのものが不足している状態、理解するための情報が整理されていない状態、そして理解したいレベルがずれている状態を一括りにして「わかりにくい」と言う。これは、十分な情報が整理されていたとしても理解できない、すなわち「わかりにくい」が生まれる可能性に無自覚であることを意味する。

この点について言及した"わかりやすい"本がある。

抽象と具体は相対的なものなので、さらに上の抽象の世界があるはずです。その、自分には理解できないレベルの抽象を前にすると、私たちは「わからない」と批判の対象にしてしまうのです。—— 『具体と抽象』114頁

理解したいレベル(抽象度)の合致こそ「わかりやすい」の原点なのかもしれない。「わかりやすさ」とは速度。抽象度という階層の合致がなだらかな陸続きの路面を整備し、高速列車の開通を実現する。

高速列車は、抽象度の階層が高いほどスピードを上げるとは限らない。むしろ抽象度の高い議論になればなるほど、ついていけなくなるのが普通だ。カントやハイデガーのいる超高層階を訪れ、その路面をならすのにはかなりの時間がかかる。そもそも、列車の開通自体が容易じゃない。

人込みや騒音を避けるだけなら、7、8階に上がれば十分だろう。地上1階とそれぐらいの高さの間を自由に往復できる人は重宝される。同書は次のようにも述べている。

抽象化して話せる人は、「要するに何なのか?」をまとめて話すことができます。膨大な情報を目にしても、常にそれらの個別事象の間から「構造」を抽出し、なんらかの「メッセージ」を読み取ろうとすることを考えるからです。—— 『具体と抽象』91頁

要するに何なのか?を問うことは、要約である。要約が「わかりやすさ」とともに賞賛されている現状を否定することは誰にもできない。だが、冒頭で紹介した「わかりやすさの罪」は、要約が発信者に対する最低限の尊厳すら損なう行為であると痛烈に批判する。

低層階の窓際から臨む瑞々しい庭の草木。それを写真に撮って持ってこいとふんぞり返り、自らは階段を下りる素振りさえ見せようとしない。葉先から零れる朝露も、揺れる木漏れ日が映す一瞬の幻想も、写真を見ればわかると言い張る。そこにあるのは「そうだねあなたの部屋から見える景色は美しいね」というゴールだけだ。何がどのように、どのくらい美しいか、それとも美しくないかを語ることは、望まれていないどころか忌避されている。

私たちは、安直に理解せず、理解という感覚をその都度解体すべきではないのか。SNSを使うと、たちまち自分に対して心地良い言質だけを積み上げることができる。そこでは人が急いで理解されている。—— 『わかりやすさの罪』63頁

「わかりやすかったです」「共感しました」。そうした賛辞を手放しに喜んでしまうことに違和感を覚えなければいけない。それは、「貴方にそんな簡単にわかってもらいたくない」への配慮という以上に、自分自身が世界と対峙するための矜持として。

ここまで何を書こうとしていたのか判然としない一方で、何かを「わかりやすく」書こうとしていた自分に嫌気がさしている。それは、この文章の本懐を遂げているようであり、虚しく失敗しているようでもある。





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