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洞察と盲目

学ぶほどに視野は広がり、そして狭窄する。焦点を絞れば周りの景色がぼやけていく。真に丁寧な観察は、近視であり遠視でもある。

人新世の人間の条件』を読んだ。「地質学から歴史学まで、あらゆる学問の専門家の知見を総動員し、多くの分断を乗り越えて環境危機をファクトフルに考えるための一冊。」という紹介文に惹かれた。たまたま仕事で気候変動の話を扱う機会があったのもある。だが読み進めてしばらくして、生半可な気持ちで紐解いたのを後悔した。

はじめは、翻訳書だから難しいのだと思っていた。違った。原文がそもそも難解なのだ。注釈はこの上なく丁寧に付けられていて、読み返せば、訳文の真意が少しずつ浮かび上がってくる部分もあった。足りないのは圧倒的に自分の知識と理解力だった。普段いかに頭を使わず読んでいるかを実感した。

著者は、ドイツ哲学者・ヤスパースを中心とした思想家の見解を引用しながら、気候変動という惑星規模の問題に対しては、各々の専門分野からのアプローチではなく、それらを俯瞰できる見地の獲得が重要であると述べる。

ヤスパースは学問的に専門化され規則的で専門性の高い考え方を「部署的」思考法と呼び、時代意識と向き合うためには部署的思考法から距離を置く必要があると説きました。
ディペシュ・チャクラバルティ 著 早川健治 訳『人新世の人間の条件』(晶文社, 2022) p.20

「学際的」という言葉が脳裏に浮かんだ。社会科学や自然科学の境界が溶けゆく時代。その境界線を補修しようするアートや哲学といった人文科学が脚光を浴びて久しく、本書もその例外ではない。アート(art)の原義には、「つなぎ合わせる」(to fit together)の意がある。

専門知は、それぞれの分野で深く、細やかに網目を広げてきた。しかし、気候変動に限らず、情報処理速度の飛躍的向上により拡大した仮想空間、未だ社会を揺るがし続けるパンデミックの猛威など、惑星規模の問題を前に、知の網目は重なったり綻びを見せたりしはじめた。

だから人は、結び目を繕いなおす前に、まずはほどいてみることにした。境界は溶け、より抽象度の高い次元での洞察が求められるようになった。前述した部署的思考の否定は、この文脈のそばにある議論だと思っている。

一方で、著者はそうした俯瞰的見地の掌握自体の現実性にも疑義を呈する。部分は全体を前提にしか存在しないから、結局のところ、部分をつなぎ合わせ再構築することでしか全体は俯瞰できないとする。

「歴史を振り返るにせよ、今この瞬間をみつめるにせよ、全体の真相を知る力が人間にあるなどという意見は間違って」います。「時代を把握」する際には、「方向性を決める視座」を「目の前にあるいくつかの見方」から選ぶしかないからです。全体として想定されているものの外に出ることは誰にもできません。
前掲書 p.25

うぬぬ。まだ序盤なのに、このあたりから著者の話に少しずつ置いていかれる感じが否めない。脳みそが足りない。

気候変動の問題を扱う議論には、人間中心的世界観と生物中心的世界観が忙しなく入れ混じっている。それぞれの世界観は緊張関係にあり、間を縫うようにして深い歴史や哲学の思想が揺れ動いている。ふむ。それくらいゆるやかな理解のままページを捲っていくと、講義パートは終了し、著者と訳者の対談パートに移った。俄然、読み手であるぼくの緊張は解れた。

対談も一筋縄で読み込める内容ではなかったのだが、対話の冒頭、歴史学を専門とする著者と哲学を専門とする訳者との間で交わされたくだりが、とても印象的だった。

現代における学問分野はいずれも思考を可能にしつつ同時に制限するものです。哲学も例外ではありません。ポール・ド・マンの言葉を借りるならば、学問分野はいずれも洞察と盲目の組み合わせです。あるいは、経済学の言い方に倣って、学問分野には必ず外部性があると言い換えてもいいでしょう。
前掲書 p.114

読み終えてから最初に思い出した一節。講義パートの朧げな理解が、少しだけクリアになった気がした。何かを見るとは、何かから目を逸らすこと。何かを言葉にするとは、言葉にしなかった他の可能性を否定すること。洞察とは、盲目なのだ。

何かを見ているときこそ、何を見ていないかを意識する。そうすることで初めて思考の臨界が明らかになるのだが、浮かび上がった全体像は、依然として不十分である。俯瞰的見地まで昇った視座は、広い視野を得たように見えて、無意識のうちに限定された枠組みの中でしか機能しない。

本書では、気候変動の議論を展開するにあたって、「planet」「Earth」「earth」「globe」「world」という5つの英語が繊細に使い分けられている。相対する適切な日本語がないものもあり、訳者は「地星」などの造語を充てたりしながら、著者の意図を最大限に写し取っている(「地星」が5つの英語のうちどれを言い表しているのかは、ぜひ本書で)。

言葉の境界が揺らぐとき、認識もまた揺らぐ。それは異なる言語を重ねたときだけではなく、知らない世界の空気に触れたときも同じなのだろう。凝り固まってるときこそ、こういう本を読んだ方がいいのかもしれない。

本書を読んだことで、ぼくの中の何かが揺さぶられた。その正体はわからないし、どこへどう振れたのかも定かではないが、ゆらゆらした感覚は何だか懐かしくて、どこか心地いい。



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