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さよなら、オデッセイ

真夜中に両親からLINEが来た。17年乗ったオデッセイをとうとう手放すのを決めたらしい。数年前、近所に住む姉夫婦に譲ったから正確にはもう手放しているのだが、姉夫婦としても、もう乗り換えを決めたとのことだった。

高校1年生の夏。ぼくが部活の夏合宿から帰ってくると、我が家の車が変わっていた。「車高が高いから周りはよく見えるし、小回りが利いて運転しやすいんだよ」と、両親が自慢げに乗り回していたNISSANの黒いラルゴ。親に尋ねたら、薄情にももう売り払ってしまったと言われた。

自分もあと数年したら運転するのかなと思っていたのに、最後の挨拶もさせてもらえなかった。当時それを心の底で少し恨んでいたのは今だから言えることだが、漆黒から反転したかのように輝くパールホワイトの車体に慣れるまでそう長い時間はかからなかった。

オデッセイは、ぼくが初めて好きになった車だった。

免許を取ったのは大学一年生の冬だった。初めてのドライブは、父を助手席に乗せて走った近所の夜道。ブレーキをかけるのが遅いだの、徐行にしては速度を出しすぎだの、教習所に戻ったかのようなドライブは全然楽しくなかった。それでも、アクセルを踏んだときの重厚感と地面に這うように進む安定感は、初心者マークを掲げる大学生の心にたしかに響いた。

車が趣味でなければ、運転が格別好きなわけでもない。弟と違い、一人でドライブをすることもなかった。

だが、友人や恋人と出かけるときは大抵ドライバーを務めた。飲み会でなんとなく鍋奉行をしてしまうのに近かったようであり、本当はやっぱりどこか運転が好きだったようにも思う。懐かしい旅行の写真を見返したら、どの背景にもオデッセイが寡黙な顔で佇んでいた。母曰く、どの車にも負けないイケメンだそうだ。

都内に住んでいるから、大方の移動は電車で事足りる。仕事が忙しくなると旅行に行く回数も減り、たまたま休みが取れたときに親から借りられれば十分だった。高速代とガソリン代をいつも払っていたが、最近乗ったレンタカーの燃費の良さがあまりにも段違いで驚いた。オデッセイの引退がそう遠くないと感じた瞬間だった。

気づけば、街を走る仲間の姿も減っていた。数年前まで、出掛ければ必ずどこかの車線で目に留まるほど走っていた真っ白な冒険の象徴odysseyは、少しずつその役目を終えていったようだった。近くで聞こえたアクセルの音で運転席から振り向くことも、もう無くなっていた。

父が姉夫婦に譲ってからは、オデッセイは親族みんなの車になった。若かりし頃は切れ味の鋭かったフロントマスクも、どこか温和な表情になったように見えた。実家の近所の小さな駐車場で、彼はいつも誰かを待っていた。

だが、姉夫婦の子どもが大きくなり一家で出かける回数が低くなるのに反比例して、オデッセイが故障して修理工場で過ごす時間は増えていった。弟がドライブでいくらぶつけてもびくともしなかった車体に、限界が来ていた。まるで、年老いた祖父の通院が次第に入院に変わっていくようだった。

そんな話を聞いたのがほんの数カ月前のこと。維持費という現実を前に悩みに悩んだ末、今月いっぱいで手放すと決めたそうだ。さっき親族のLINEグループにその連絡が来てすぐ、弟が「今度使おうと思ってたのに」と声を掛けていた。そこに重ねられた父の返事は、思ったとおり「オデッセイには最後まで活躍してもらえるとうれしいからな」だった。

17年といえば、ぼくの人生の半分の年月になる。夏合宿から帰ってきたときの衝撃はとうの昔に消え去り、オデッセイは間違いなくぼくにとっても愛車になった。カーシェアが当たり前の今、もしかしたら最初で最後の。

年末年始に家が少しばたばたしていた。ようやく新しい生活に慣れてきたと思った矢先、会社の人事異動がオープンとなり、この春に組織が大きく変わることになった。変わらないでいようと思っていても人生は巡り合わせのように移り変わっていくから、身を任せているくらいがちょうどいい。

変わるとは、別れることだ。さみしいけれど、本当に大切なものはずっと残っている。この歳になってようやくそれがわかってきた感じがする。

キーを回すと鳴り響く、男くさいエンジン音。あれがもう聞けないと思うと、やっぱり最後にもう一度ハンドルを握りたくなった。

明日、姉に声を掛けてみよう。いつぶりだろうか。そういえば最後にどこを走ったのか覚えていないが、アスファルトに四輪を力強く押さえつけて走るあの感覚だけは、まだはっきりと思い出せる。



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