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紫水晶の日を眺めて

 四季の景色を、人が眺めるように、空ゆく鳥も、羽を休めるとき、見つめる先を、一人静かに、空の彼方へと向けることがある。羽はためかせて、空に遊ぶ鳥は、自分の家や、仲間たちから視線を移し、青い透明の、あるいは朝日を縁取る、光の緑に、心を休める。

 景色ほど、偶然なものはない。うつろう雲の淡い広がり、風に流れる葉の、音の質感、朝日の透明の、光織り成す、色の絵画。日ごとに景色は移り変わり、日の印象は、見るたびに、色合いを変える。

 景色を眺めると、純粋な偶然のなかに心はたなびき、偶然に抗うことのない、眼の透きとおる、自分を見出す。自分とは本来、この世界を楽しむために、生きているはず。しかし、皆の楽しみを支えるための、必要に駆られて仕事するなかで、自分の楽しみを見失い、心曇ることは多い。風景の移ろう光は、うつくしく思う快さに併せて、計測される時間のない、ゆらめき流れる時の自由と、それを見つめることの、純粋な楽しみを、心に与えてくれる。偶然目に留まる景色に、お金を払う必要はない。単に、その色彩の吹きかける光の、機微を感じる眼があれば、それだけで楽しい。

 人の自由は、その感性にある。心の自由とは、ものの所有ではなく、時間を過ごすなかでの、時の透明にある。冬の空気が澄んでいるときに、雲を吹き流す光が、より鮮やかに映るように、澄んだ心に芽生える景色は、光鮮明に、世界をより楽しめるものにする。

 それには、一つコツが要る。自分の心の色彩を、意図して一つに決めると、世界はその色を通してしかみえない。いかに彩り美しく、人の目に快いものであっても、世界の美よりも、人の作為が綺麗になることはない。人の心は、小さなプリズムのようであり、世界に注いでいる光は、このプリズムを通って、言葉の虹へと分光し、様々な彩りを生む。心を一つに定めようとすることは、プリズムを一色に染めることであり、技巧みであれば、その心の生む色彩は、快いかもしれない。しかし、自然に生まれる、虹の光の、穏やかで華やかな色合いは、人の手では再現できない。その潤う光の鮮やかさは、単純に、自分の心に、作為を加えないときに生まれる。プリズムは透明であるときに、最も綺麗に虹を分光させるのだから。

 ただ、人には持って生まれた性格の違いがあり、その点を加味すると、人の心は、プリズムというよりは、一つの紫水晶のようなものであろう。人の心が結晶していくなかで、心の有り様を損ねることなく、自然の結晶を許す心を失わなければ、世界のどのような景色であっても、純粋な楽しさを、景色の日を眺めるなかに、見出せると思う。

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