見出し画像

私には羞恥心が欠落している


私にはどうやら、羞恥心が欠落している。

そしてその事実が、文筆業において大いに役立っているよな……と思い至るようになった。

というのも、先月から続けている文章講座で、メンバーシップの会員の方々から「文章にまつわる質問」を受け付けていると、こんな意見があった。

自分の書いた文章や自分の写った写真などを見返すと、めちゃくちゃ恥ずかしくなるのですが、これは数こなすと治りますか?

恥ずかしい。いやこれ、以前からよく出てくる定番の質問だ。

「SNSをやるのが恥ずかしい」
「文章を人に読まれると恥ずかしい」
「自分の意見を公にするのが恥ずかしい」

「だから、始められないのです」

……というご意見。

正直なところ、私にはこの感情がまったくない。寄り添えなくて申し訳ないのだけれど、本当に微塵もない。全世界、読んでくれてありがとう!もっと読んで! と思っている。タガの外れた露出狂なのかもしれない。なのでここからの文章は「恥ずかしいんですけど、どうすればいいですか」に対する回答にも解決策にもならないし、平均値から外れた人間の自分語りであるということをご了承いただきたい。


とは言えもちろん、読まれると嫌な相手はいる。単位を落としまくって劣等生っぷりを更新していた大学生活の真っ只中、意識高い系ツイートばかりしていたところを教員に見られていたのは非常に、面目なかった。また、彼氏が出来たとかではしゃいでいた20代当時のツイートを、父親がしっかり認識してLINEして来たりするのはマジでふざけんなよと思っていた。無論、インターネットに実名顔出しで書いているのだから身内に読まれることは防げないにしても、内容によってはせめて、見て見ぬ振りをして欲しい。

まぁでもそんなのは、「夏は蒸し暑いから過ごしにくいよね」という程度の話で、根本的には問題ではない。なんてったって私の座右の銘は「生き恥を晒して生きる」である。若干蒸し暑かろうが、底冷えしようが、生き恥を晒さないという選択にはならない。なぜここまで羞恥心が欠如しているのか……と考えると、思い当たる節がひとつある。


──


幼い頃の私には、人並み程度の羞恥心はあった。3歳の頃からピアノを習っていたけれど、発表会には手足が震えたし、滑舌が悪くて人前で喋るのも少し苦手だった。

けれども小学3年生の頃、姉と一緒に地域のミュージカルのオーディションを受けて合格し、はじめて舞台に立った。そこで与えられた人生で最初の台詞は「お母さん!(たしなめる)」

ここから先は

1,438字 / 1画像

新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。