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自分を調律するための音楽


 感覚を文字にする仕事をしていると、取りこぼしてしまうものがあまりにも多いな……と思うことがある。もちろん言葉だからこそしっかり筋を通して伝えられることもあれば、言葉を介さない感覚と感覚での会話……というものも必ずあって、それが美術や音楽と呼ばれたり、愛と呼ばれたりすることもあるのだろう。

 書いて、読んで、書いて、読んで……を反復しつづけていると、頭のほうがうんと優位になってくる。知識を蓄え、思考を整理し、今起きている事柄を自らの言葉で言い表そうと、世の中を抽象化して理解しようという欲が強くなる。そんなとき、ヴァージニア・ウルフの「とにかくその種の混合がなければ知性ばかりが支配的になり、心の他の能力は硬化して不毛になるのですから」という言葉を思い出すのだった。
 ウルフが『自分ひとりの部屋』で物書きにとって必要だと論じた「混合」というのは男女両性具有的なものを意味し、つまりは感性と知性が混ざりあった状態、ということだった。
 
 感性を奥に追いやってしまわないために、それを遊ばせておく場所を持っておきたい──そう思い始めた頃に偶然知ったのが、古琴という楽器だった。確かあれは2020年の夏、コロナ禍のニューヨーク生活中。高層ビルの31階の部屋から出られずに過ごす日々に疲弊し、土着的な音に触れたいな……とYouTubeでさまざまな民族音楽動画をザッピングしていたところ、アルゴリズムが「であればこれもお好きでしょう」と中国の伝統楽器、古琴の演奏動画を運んできてくれたのである。


 最初は「お箏?」と思ったのだけれど、それは私が知っている日本のお箏よりも随分小ぶりで、表面にはなまめかしい光沢を持つ。奏者は右手で弦を弾き、左手は蝶のように舞ったり弦に軽く触れたりしている。そして一瞬で私を魅了したのは、渋く力強く響く低音と、空から降り注ぐような繊麗な高音。そうした特徴的な音色によって、なんとも憂いげのある旋律が奏でられているのである。あぁ、この楽器を奏でてみたい……とこれまでに抱いたことのないほどに、大きな欲が満ちてきたのだった。

 でも、コロナ禍のニューヨークで中国の伝統楽器を手に入れる方法なんてさっぱりわからない。オンラインショップで購入できるものもあったようだけれど、音を聴かずに楽器を買うのは怖いし、なにより中国からの国際便は壊滅的な状況だった時期である。手に入れることが叶わないのであれば、せめて聴こう……と私はその日から毎日のように古琴の音源を聴き漁り、いつの日か触れられる日が来ますようにと夢見て過ごしていたのだった。
 
 その後私は日本に帰国し、コロナもある程度収束。そしてずっとSNSで拝見していた大阪の古琴教室、大阪七絃琴館のお試しレッスンに向かった。
そこには夢にまで見た古琴が壁にずらりと並んでいる。大阪七絃琴館の主宰者である莊不周ソウ フシュウ先生は中国の大連出身。もう10年も大阪に住んでおられるとのことでレッスンは流暢な日本語で始まったのだけれど、古琴の各名称などは中国語でも教えてくれる。

 古琴には、舌、額、頚、肩、腰、焦尾……など、まるで生きものの身体のような名称がついて、さらに音には天地人の意味が込められているのだとか。低い音(散音)は地の音、間の音(按音あんおん)は人の声、そして高い音(泛音はんおん)は天の音、といった具合に。そして莊先生が弦を弾いたとき──初めてこの身体で聴いた古琴の音に、身体中の細胞が立ち上がるようだった。

 続いて私も、目の前に置かれてた古琴の弦を言われるがままに弾いてみる。弱々しいけれど、確かに古琴らしい音が出た。あぁ、ようやっと自分の手でこの音を……と大きな感動に包まれた。大阪七絃琴館では信頼できる中国の職人さんと直接取り引きして楽器の販売もされているそうで、すぐに購入出来るものもあった。が、正直帰国直後の私には金がなかった。ニューヨークで高い家賃を払い続けた3年間、さらに食費やら飛行機代やらを工面するのに精一杯! という果てに帰国を決めたので、国際引越やら新居の契約やらで、すっかり貯金は尽きてしまったのである。無い袖は振れない。
 
 「いつか必ず、必ずまた来ますので……」とお暇し、そこから1年半後。約束通り大阪七絃琴館を再訪し、黒く美しい響きの豊かな一台をようやっと、自分のものにすることが叶ったのだった。


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 幼少期からずっと音楽には触れて育ってきたけれど、自分の意志で楽器を買うのは人生で初めてのことだった。うちは母が大のピアノ好きで、姉たち二人は私の物心がつく前から既にレッスンに通っており、私も3歳から姉たちと同じピアノ教室へ通った。家にはYAMAHAの茶色いアップライトピアノがあり、私はいつも機嫌よくそれを弾いていた。

 私が姉たちよりも楽しそうにピアノを弾いているもんだから、母は「この子の才能を伸ばしてやろう」と判断してくれたのだろう。小学4年生の頃にはプロとしても活動されている先生のもとへ弟子入りし、ピアノに向かう姿勢から何から全てを学びなおすことになった。
 その後、祖母が「アップライトでは伸びないだろう」とYAMAHAのグランドピアノまで買ってくれることになったのだ。クレーンで運び込まれた、部屋の大半を埋め尽くすツヤツヤの黒い物体。嬉しさはあったけれど、「とんでもないものを与えられえしまった!」というプレッシャーのほうが大きかった。だって、家にグランドピアノがあるなんて、音大生か、ピアノの教室か、お金持ちくらいのものである。我が家はそのどれにも当てはまらない。亡き祖父の残した戸建てでのびのび暮らせてはいたものの、母は家計のためにと毎日忙しく働いているし、体操服もお下がりを着回すような節約家庭なのである。母の給料何ヶ月分かもわからないピアノを前に、私は震撼した。

 しかし、ピアノ屋さんではコンサートホールのように美しく響いたその音色も、家で弾いてみるとなんだかいまいちパッとしない。ベッドやクローゼットでぎゅうぎゅうの子ども部屋は布が多すぎて、音を吸収してしまっていたのだろう。さらに湿気が響きを鈍いものにする。エアコンで部屋をせっせと除湿しながら、投資に値するだけの演奏をしなければ……と毎日ノルマの練習に努めたものだった。


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「あまり空気が乾燥してると、楽器にも良くないですからね」

 古琴のメンテナンスについて教わっているとき、莊先生のそんな言葉を聴いて「えっ!」と私は思わず身を乗り出した。楽器というのはすべからく、湿気が大敵だと思っていたからだ。けれどもこの古琴が産まれたのは湿度の高い江蘇省こうそしょうに位置する揚州。空気の乾燥した東北や欧州だと、表面が破れたり、板が割れたり、調弦がすぐに狂ってしまったりするらしい。

 その土地の風土に根ざした衣類や、食や、住まいがあるように、もちろん楽器にも風土は深く影響しているのだ。けれども私が触れてきた楽器は、西洋で誕生し、商品化されて流通しているものばかりだったから、あまりにも目からウロコだった。ちなみに古琴の歴史は長く、少なくとも三世紀頃には今のような姿で成立していたと言われている。それが遣唐使によって日本に伝来し、日本でも千年以上の長い間愛されてきたのだ。

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