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京都でのAesther Changの展覧会を終えて──言葉にしておきたいこと


大きな出来事があると、ちゃんと書かねば……と思いながらも、気持ちの整理が付けられないままに1週間、1ヶ月、半年……と過ぎてすっかり風化してしまうことがままあるのだけれど、これはちゃんと言葉に残しておかなきゃいけない。

企画、運営を担当させていただいた京都でのAesther Chang個展は、6月28日からの3日間、良い形で会期を終えることが叶いました。お越しくださったみなさま、本当にありがとうございました。

"Day/Break .01" 写真:photo by Aesther Chang
"Day/Break .03" Photo by Seiji Kamayachi(以下同じ)
"Hotaru"
"Day/Break .01"
"Midnight Sun, Midday Moon"
"Day/Break .02"
"Day/Break .02"
"Two Flames" "Nightfall"




ニューヨークのソーホーで、台湾系アメリカ人のAesther Changと偶然出会ったのは2019年の2月。彼女はその時からこうした未来を知っていたかのように、英語がろくに話せなかった私の手を離すことなく、「いつか一緒に日本に行きたい」「いつか日本で滞在制作がしたい」と何度も夢を言葉にしていた。

それから5年の歳月が流れる中で、私は徐々に彼女と言葉を交わせるようになり、一昨年日本に帰国してからはそうした日々の出来事を執筆して本にした。そして今回、京都で宿や「日々」の開業準備をされている釜萢誠司さんの力をお借りし、Aestherを日本に迎えて、彼女の夢を叶えることが出来たのだ。いや、私たちの夢──といったほうが適切だろうか。


──

これまでにニューヨークで彼女の作品を観る機会は度々あったけれど、その都度僅かに、もしくは大胆に変化していく絵画の表情を追うことが楽しみだった。

Aesther Changという作家は、自身が生きる場所の空気と呼応しながら作品を生み出す。あの街の混沌とした空気、混ざり合う異物、それらを束の間忘れさせる自然の美しさや、彼女自身が心の中に持ち続けているのであろう静かな祈り──。そうしたものを表しているように見える抽象画群は、私が言葉で表そうとしているものと限りなく近いようにも感じたし、けれども言葉という具体性を持たないからこそ焦がれる対象でもあった。

私は文章で、彼女は抽象画。そう書くと左脳を使う具体的なものと、右脳を使う感覚的なものを各々得意としているように捉えられるかもしれないが、それでは少し齟齬がある。

というのも彼女は常に知性を携え、思考が先にある人なのだ。なにを尋ねても彼女自身の答えを持っているし、その下地には豊かな知識がある。ただ、そのように思考優位の頭に自由な余白を与えるために、彼女は身体を動かし、絵を描いているようにも見えた。

一方の私は、彼女よりも随分とぼんやりした人間である。いつも感覚でものごとを判断しているし、嫌なものがなぜ嫌なのかという理由を知らない。ただそうやって感覚的に生きていると人の形を保てなくなってしまうからこそ、ときどき感覚を言葉にしてみたり、調べ物をして知識を仕入れたりするのである。

私は文章を書く行為によって「あぁ、これで私は人になれる」と安堵することがあるけれど、彼女は絵を描くことによって自由になることが出来ると語るのだ。

──


そうした存在である彼女が、日本の空気の中で作品を生み出すならば、それは一体どんな表情のものになるのか。それをこの目で観てみたい……という欲を持つのは自然なことだ。そうして彼女の夢は、私の夢にもなっていった。

けれども私はギャラリストでもなければ、アーティスト・イン・レジデンスのための施設を運営している訳でもないし、パトロンになるような財力も持ち合わせていない、しがない物書きである。さらにここ1年ちょっとは多くの時間を不妊治療の通院に割いていたので、行動範囲はかなり制限されている。ただそうした状況下でも、「いつか彼女の展覧会を日本で開催できたなら」という夢は時折、文章にしていた。

そして今回の会場である「日々」のご主人である釜萢誠司さんが、かねてからそうした文章を読んでくださっていて、私たちの夢は途端に具体性を帯び始めたのだ。

「日々」広間より。庭に生した苔が美しい


「日々」は、紫明烏丸から少し西に入ったところにある、開業準備中の宿。もともと銀行の寮として建設された4階建ての建物があったのだけれど、持ち主が変わり、茶室が創られ、その後裏千家の学校寮になり……という時期を経て、釜萢さんの義理のお父様が宿にしようと購入されたものの鬼籍に入られてしまった。でもその意思を継いで、釜萢さんご夫婦がここを宿として営んでいくために目下準備中……という状態だったのを、今回特別に貸していただくことになったのだ。

「日々」茶室から望む庭


展示会場にさせてもらった1階は、建築家でもある誠司さんの手によって既に改装が済まされていて、とりわけ広間は心を溶かすような美しい空間になっていた。なかでも目を奪われるのは土壁なのだけれど、誠司さんはこの土の発酵から(!)手掛けているのだという。

自らの手を動かしてこうした空間を生み出す誠司さんと、身体性を大切にしているAestherとであれば、互いの感性を深いところで共有することが出来るだろう──というのは、あえて言葉で確認する必要もなかったし、だからこそ全てが息の合うセッションのように進んでいった。

さらに誠司さんは展示場所だけではなく、京都での滞在場所とアトリエまで準備してくださったのだ。異国で活動したいと願う作家にとって、これ程までに幸運な出会いはないだろう。

今回のために準備していただいた洛中のアトリエ
Aestherが滞在していた寝室
水回りには、美しい道具が揃う


こうして望外の環境が整い、Aestherの1ヶ月間の京都暮らしが始まった。

正直なところ、本当に1ヶ月で個展の準備が出来るのだろうか?(しかも誘惑の多い観光都市に住みながら!)という不安があったのだけれど、彼女は有言実行の鬼である。まずは画材を買い揃え、そして日夜京都を探索しながら、眼の前で起こる出来事を熱心に観察していた。鴨川沿いを歩いていたときに目にした夜明け前の青白い光や、 泉涌寺の穏やかな池に広がる波紋、暗闇に浮かぶ蛍──そうした刹那的な光に着想を得て、"matataki"という表題のもとに、大小様々な十作品が誕生した。彼女が近年多用している紅茶染めを用いた、静けさの中の躍動を感じさせる作品群だった。

……と、この表題に至るまでに私は少し悩んだ。matatakiはもちろん「(光の)瞬き」の意味なのだけれど、彼女は最初それを"illumination"と名付けていたのだ。美しい英語である。が、日本語圏の我々にとってイルミネーションという言葉には、過剰に賑やかな印象が付いてしまっている。日本で開催するのであれば、日本の人たちが持つ言葉への印象を大切にしたほうが良いんじゃないかと伝え、最終的に"matataki"という表題に落ち着いた。

さらに展覧会のアーティスト・ステイトメントでも、和訳する際に少し悩ましい箇所があった。彼女は自身の抽象画を解説する文章の最後に、こうしたパラグラフを置いていたのだけれど……

In essence, these works invite viewers to reflect on the impermanence of beauty, the transience of life, and look beyond the surface to realize a deeper dimension within one’s very own being- a transcendental realm beyond the body and mind. To unlock this realm, one must go inward.

(本質的に、これらの作品は鑑賞者に美の無常や人生の儚さについて深く考えさせ、表面を超えた自分自身の存在のより深い次元──つまり体と心を超えた超越的な領域を認識するように促します。こうした領域を解き放つには、人は内側に向かわなければなりません)

ここを読んで、しばらく悩んだ。彼女の抽象画を前にした鑑賞者に向けて「自身の内面に深く潜ることが出来ますよ」と言葉で伝えるのは、過剰に説明的すぎるのではなかろうか? と。しかし欧米で活動してきた彼女がこうした文章を書くことには合点がいく。

前提として、Aestherの地下水には東洋的美意識が流れている。彼女の両親は台湾で生まれ育ち、彼女自身の第一言語はマンダリンで、大人になってからも自らのルーツである東アジアの文化について深く学んでいるのだから。けれども生まれ育ったのは米国で、そこで彼女はマイノリティ。だから「東アジアではこうした文化があります」と、それが感覚的なものであれ都度説明する必要があるのだ。ニューヨークのように多くの民族が自己主張しながらひしめき合っている場所で、アーティストとして生きていくならば尚のこと。

けれども日本で発表するのであれば、状況は変わる。私たちの多くは抽象的な作品を前にしたとき、「考える」よりも「感じる」を優位にするのではないだろうか。それに私たちは……いや少なくとも私は、自分の心が自然に動くことに重きを感じていて、それを強いられることをあまり好まない。そういった説明をしたところ、彼女は私の意見を尊重し、そのパラグラフを潔く消し去った。

──


他者と感覚を交わらすとき、言葉というのは邪魔になる。

今回、誠司さんと空間の設えについて相談したり、花屋「みたて」の西山さんが花を活けてくださったりする折に、私は一応通訳のような役割も担っていた。が、私が席を外したときのほうが、豊かな空気がそこに生まれているようだった。

その理由はよくわかる。美しさという感覚だけで他者と共鳴できたとき、私たちは無常の喜びを抱けるのだから。

迎え花には、紫陽花


そうして迎えた開廊の時間、6月28日金曜日の午後3時。梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、既に幾人もの方が扉が開くのを待ってくださっていた。尋ねると関西はもちろん、九州、中部、四国、関東、中越──と、日本各地から足を運んでくださっていたことに驚いた。SNSでしか告知をしていなかったにも関わらず、そこから3日間の会期中はほんの一度も途切れることなく大勢の人が……けれどもそこにいるみなが穏やかに、作品と対峙してくれていた。

多くの鑑賞者は彼女の作品を通して、心の中にある景色を観ているようだった。しばらく言葉のない時間を過ごした後に、各々が観た景色について、小さな声で語り始める。Aesther が伝えたかったことは言葉にせずとも、確かに伝わっていることに安堵した。

今回の展覧会は、彼女の日本という国でのはじめの第一歩。私もこうしたお世話役をずっとやっている訳にもいかないし、次のステップに進むにはより専門的な仕事をしている方々に作品を観てもらう必要がある。そのためにも「小規模でも良いから、作品のお披露目が出来たらいいね」と話していた。

けれども結果として、「日々」の空間を贅沢に使わせていただき、そこに十作品も展示し、それらを買い求めたいという人の声は絶えなかった。

そのため私は現場ではお会計や接客や通訳、オンラインではカスタマーサポートセンターと化し、獅子奮迅の大忙し。直前のSOSを見て駆けつけてくれたみそのちゃんさとこちゃん、そして尾道からやって来て設営まで手伝ってくださったnagiの羽田さんには本当に、本当に助けていただいた。




こうした皆様の尽力があって、はじめの第一歩としては大成功……と書いてしまっても差し支えはないだろう。異国で作品を発表するというのはまず、知ってもらうことが難しい。そうした点では多くの方が『小さな声の向こうに』を読み、彼女のバックグラウンドや人となりまで知ってくださっていたのが有り難かった。

「美術の話は難しい」と敬遠されることもあるし、どうやら売れやすい本ではないらしい。でも書いている文章の奥にあるものを目撃しようと遠方からでも足を運び、集中力を傾けて作品を鑑賞してくださる方は確かにいたのだ。発売後からずっと不安になるばかりだったけれど、言葉はちゃんと届いていた。

そうした事実を3日間に渡ってずっと目の当たりに出来たことは私にとって、書き続けることを力強く鼓舞される、とても得難い体験だった。

会場で販売していた『小さな声の向こうに』は、装画担当でもあるAestherのサイン入り



ただ私は欲深い人間なので、「楽しかった」というだけではない感情が様々残る。中でも口惜しいのは、やはり今回の準備期間がほんの1ヶ月しかなかった、ということ。

ニューヨークのAestherの個展で、大作が複数並んだときの没入体験は忘れ難い。そうした大作を複数描き上げるためには、1ヶ月という日数は短すぎた。無論彼女は京都での日々を1日たりとも無駄にすることなく精力的に活動し、ベストを尽くした。ただ、私がニューヨークで体験したあの没入感を日本でも紹介したかった……という思いは残る。

また、今回の作品は非常にリラックスして描かれたものが多かった。彼女は京都の暮らしを言及するとき、度々reluxやslowly、quietという言葉を使っていたし、そうした気分が多分に反映されていたのだろう。刹那的で穏やかな、大切な宝物のような作品群は、彼女が京都、そして日本という異国を心から好意的に捉えていることの反映でもあった。

彼女がそう感じた通り、ニューヨークに比べると日本……そして京都は、落ち着いていて、ゆっくりとした時が流れている。けれども水面下にはもちろん、そうした言葉だけでは括れない厳しさや、歪みもある。ニューヨークで生まれた作品は痛みや叫びを感じることが多かったが、彼女がもし日本でもっと長く生活していくならば、また異なる表情のものが生み出されていくのではなかろうか──ということを期待する。

だから、次は短くとも3ヶ月は滞在するべきだと伝えたところ、Aestherも完全に同意していた。彼女は展覧会の翌朝のフライトで台北へ、その後しばらくしてニューヨークへ戻ったのだけれど、近い将来また日本に戻ってくるだろう。つまり、Aesther Changの次回作に乞うご期待ください、ということである。


──


そして最後に。明確に「言葉にしなかった」からこそ不具合が生じてしまった……という点も備忘録として書き残しておきたい。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。