見出し画像

婚活、終活、涙活、腸活等…○活といった、何かをするための活動を略した、意識向上を自ら促していく、合理性の共有みたいなムーブメントが現在進行形であります。
これはインターネットの汎用による、個から始まる緩やかな共同体が水面の波紋のように拡がりやすい構造に、マスメディアが乗ったことで、個人の概念が一般化されたのだと私には映ります。

目的をもって活動することは合理的です。例えば健康面を配慮し排便を滞らせないための腸の動きを活性化するために、適切な食事や運動を実行していく‘腸活’。そうした心懸けができている人とそうでない人には確かに自ずと何らかの影響の違いが生じるケースはあるかもしれません。
私はその点については知識、教養を得る、深めていく意義を感じる一方で、考えさせられるのが‘涙活’なのです。
感動して涙を流したいから、意図的に泣ける映画等、泣けるアイテムを見つけにいく活動を指します。

人が感動するとはどういう状態をいうのか考えてみます。
あくまでも私見となりますが、

崇高且つ高邁な理念、思想(生命、平和、希望、未来)のために自己を差し出し、真剣に生きている人の生き方に触れた時。広義的に利他(自分以外の誰かのため)精神に溢れている人に触れた時。加えて、自己犠牲が伴う時。

実は突き詰めると上記の要素が入った様々な媒体、ジャンル全般で感動が構築される仕組みになっていると考察します。
と考えると、感動を求める風潮がもしムーブメントに浮上しているとするならば、それは身近にそうした要素が乏しい空気感にあり、自分自身が何か満たされない無味乾燥な時間の経過中にある事の証左だと推察するのです。
そこで、芸術表現における感動の深層に間違いなく存在しているもの、それこそ私は‘心の郷愁’を挙げます。
幼い時分なのか、潜在意識下か、それぞれが持ち得ている純粋性への回帰と揺さぶりに起因していると見るのです。

つまり、感動の本質は本来の自分を取り戻そうとする意図的ではない、フィードバック現象でもあると感じます。
日々に疲れた時、不思議と森や海の景色や、当人に響くであろうジャンルの映画や音楽等からの五感への響きが感動を呼び起こす事に繋がる理由として多かれ少なかれ欲されるのです。

この純粋性を考えると、如何に自分の事ばかりを考える余り、周りが見えなくなっていたかふと気づく瞬間があります。
人間本来が共感的な資質があり、負の力の方にどうしても引き摺られてしまいがちで攻撃的な徒党に与してしまうケースがある反面、性善説を肯定することでの感動、それを味わいたい人間本能の一端も否定できない欲求が沸き起こるのです。

一番、日本人が好きな感動パターンを解説すると、1つの目標に向って団体で活動し結果を出すケースが最適でしょう。
なので、プロスポーツは人気アイテムなのです。
一生懸命頑張る姿を最も客観的に可視化できることで感動が伝わりやすい流れとなります。

芸術もスポーツも自身の純粋性が呼び起こされるものとして、貪欲に愉しまれることを私はオススメしたいと思います。

https://bunshun.jp/articles/-/55398?page=1

今回のテーマに相応しい文春オンラインからの記事です。
自分を知ることが、生きる道を見つけることに繋がり、観るものに感動を与えるプロスポーツの極意が伺えます。
中日ドラゴンズのバイプレイヤー・加藤翔平選手をご紹介します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?