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毎年の1月8日は世界的ロックアーティスト、デヴィッド・ボウイが2016年に69歳で天に召された事を年始に自然に顧みるようになっています。

ボウイの偉業や遺されたレコードライブラリーについては様々語られていると思われるので、本稿では私の惹かれる理由を多面的に考えてみます。

以前noteに「‘らしさ’を問う」との題でもボウイについては少し取り上げてもいますが、『異星人デビッドボウイの肖像』(シンコーミュージック刊)から伺えるボウイ像はボウイ自身の発言集であり、編集意図に編集者の独善的価値観を押し付けずに読者が被写体のイメージを作るコンセプトが垣間見れるので、ボウイの人となりが断片的に散見できる内容になっています。

‘人は他人が失敗するのを見るのが好きだけれど、失敗にめげない人間を見る方がもっといいに決まっている。人生において失敗し、それを乗り切ることこそ、最高のスリルなんだ’(1976.3)

‘たいていは5年ほど遅れた環境でロックしている。数が多いから、今を代表しているように思われるけど、実はそうじゃない。何年か前にあった内容やフィーリング、そして情感なんかを借用しているにすぎないんだ’(1978.6)

時期的なインタビューから測るに、ロックスターとしての安定的確立からヨーロッパでの実験的スタイルを試みていた頃のコメントとして、やはり可能性への探求、表現し続ける行動とリスク、絶えず内包していた不安めいたアイデンティティ…他者から十分獲得していた尊敬と名誉には確信や関心は無かったと私にはそう捉えて映ります。

ポップカルチャーの世界的リーダーのようにボウイを『レッツダンス』以降での解釈で捉える向きが世界中で存在しているならば、それまでのボウイのクリエイトした世界観は先鋭的で哲学的で、ときに攻撃的でかつ耽美的です。まさに『レッツダンス』でのメガヒットをきっかけに彼の作品に本当に触れて堪能していたならば、音楽ファンのアートセンスや現象に対する見方は間違いなく洗練されているはずです。

実はデヴィッド・ボウイに限らず、一般的に名前の独り歩きと言えるアイコン化を目にするのみで、作品に触れない、知らないまま時間をやり過ごす現代社会の一片を私には感じてやまない感覚があります。

ボウイの別のインタビュー記事で、独創性への問いに対して‘音楽を聴かないこと’と‘文学、思想哲学、社会評論を小説が書けるぐらい読み込む’というコメントを読んだことがあります。
手塚治虫が‘漫画家への道は漫画を読まない事、文学…文字を読むこと’と答えていた点と重なります。

このパラドックス(逆説的)に重要な行間が存在します。私がボウイに惹かれる理由です。

1980年代MTV全盛の折、MTVの番組でボウイのプロモーションの為のインタビューに際し、黒人アーティストのビデオクリップが相対的に少ないと異義を唱えたボウイに担当ディレクターが滔々と言い訳を並べ立て「分かってもらえましたか」とボウイに同意を求めたところ、黙って聞いていたボウイが一言だけ、

「君の考えは良く分かったよ」

と笑いながら答えるカットが印象的でした。その後、言葉に出さないながらも「僕は同意しないよ」という言葉が聞こえてきそうなやり取りがありました。

ボウイに備わる見識は明らかにリテラシズムだと思います。中道概念が本質を見極める力、その確信が潜在的に培われていると思われます。ゲストで招かれたMTVと口論する訳でも番組関係者や視聴者に不快を与える訳でもなく、自分の本意も含めてその一言で締めた知恵、洞察力に感嘆するのです。

つまりアーティストとして超一流のデヴィッド・ボウイも手塚治虫もそれしか知らない人間にはなるなと伝えているのです。

1月8日はボウイの姿勢をふと思い起こしながら彼の遺した名盤に聴き入る日になっています。

こちら今回参考資料の文庫本。
デヴィッド・ボウイの実像がいろいろと想像できて読みやすいです。
彼を知る一つにご参考ください。

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