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魅力の解析…小津安二郎監督

小津安二郎監督の考察として、下記の二作を挙げてみたいと思います。

『絢爛たる影絵』(高橋治著)
『原節子の真実』(石井妙子著)

高橋治氏は2015年に亡くなるまでに著述家としてその名を馳せる前は松竹入社の映画監督として馴らし、小津監督作品で不朽の名作『東京物語』の助監督を務めた経験があります。
その一本のみの間柄ながら濃厚な関係性、エピソードと小津監督を取り巻く環境を高橋氏の丹念な取材と私見を軸に読み応えのあるルポタージュになっております。

石井妙子氏は近年『女帝・小池百合子』の著作で取材力に定評があるノンフィクション作家として世間一般に知れ渡っています。その彼女が最初に表した作品が『原節子の真実』です。
原節子は言わずもがな先の大戦の前、そして戦後で最も日本映画を代表する女優として揺るぎない存在感に裏打ちされた数多名演、名作は映画史の系譜には欠かせません。
1963年を境に芸能界を引退し、その後は全くメディアに登場しないまま2015年にこの世を去るまで伝説のスターとしてその半生はベールに包まれていました。

この二冊から伺い知れる、高橋氏と原節子にとっての小津監督への見方が立場によって自ずと違ってくるのは分かった上で、人物像を掘り下げられる小津監督の魅力は実際解析できていないことが分かるのです。
それは高橋氏が1970年代に海外で活動している折に現地で上映された『東京物語』を鑑賞したことに起因して初めて作品の良さ、小津監督の狙いがよく伝わったと記したくだりがあるように、時間を耐え得る作品のもつ、真理の深さに限界はないと感じる現代人の視点で通念と捉えて不思議ではない事実が存在します。
しかしその事実は高橋氏について長年分かり得なかったという…近くでリアルに接触した経験は案外、日常的な人と人との間柄以上に即物的な何かを越えることはその時には生まれないのかもしれないと推察するに至ります。
本文から高橋氏の助監督から監督時代の行動、振る舞いから読み取る、当時の映画権威の象徴であった小津監督に反抗すること‘若さというリアリティを掴めるのか‘という近視眼的価値観を突き付けたに過ぎない今も昔もあり得る怖いもの知らずな若気の為せる仕儀を俯瞰してしまいます。
これは冷たい言い方ですが、高橋治氏は監督になって8本の作品があります。しかし映画史に記され人々の記憶に残り続けている作品は果たして存在しているのかと、後世に生きている私には鴻鵠の志が分からない故の伝承としての役割に甘んじてしまったと厳しい見方になります。

『原節子の真実』から読める原節子が小津作品から得られた評価に全く充実感はなく、実は黒澤明監督作品にもっと出たかったと、小津作品からのイメージの固定化に嫌悪感があったとの見解は驚きましたが、ある意味では納得するものの、まさか普遍的価値をもつまでに自身が出演された小津作品の評価が世界の映画監督も惹きつけて止まないものに残り続けているとは想像だにしていなかったと思います。
本文より引退理由が目の病いによるものだとして、一生過ごしていける財を築いたので未練なく辞めることができるという決断には、時代背景も含めて自らがどのように生きるかの自己主義に帰結するのは理解せざるを得ないと思います。

では小津作品がなぜ普遍的価値をもつことに成功しているのか、その点こそ魅力の解析の軸だと考えます。
高橋治氏は『東京物語』より『晩春』『麦秋』の方に淀みのない構成の良さがあるとされています。原節子の役名からの「紀子三部作」と呼ばれる1949年から1953年の4年で3本の歴史的傑作から小津作品にもし未見の方がおられたら、ご覧いただいてベターかもしれません。
私見ですが、環境が人に与える影響を切り取る物語は、押し並べて時代認識なり何か計算的な辻褄合わせに終始されること、いわゆる消費型大衆娯楽になりやすい点に対し、シンプルに人と人、親と子、加えて自己主張しない主人公という設定…概ね笠智衆演じる男性を想定しますが、条件反射でリアクションする現代のドラマにはない抑制された感情の中に人間の本質を見せられるという…観ている側に覚らせる点、その高度な方法論を成立させる為の映像美、究めたローポジションからの撮影技法へ繋がるロジックを整然としている事にある種の感動を覚えるのです。

小津監督、没後60年以上経っても私には今だ新鮮でしかありません。

【インフォメーション】
協力プロデューサーでお手伝いいたしました、映画『マゴーネ 土田康彦「運命の交差点」についての研究』
今週金曜日から岡山シネマクレールにて上映がスタートします。
近隣エリアの方にはぜひこの機会に🍀


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