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大学時代、連れ立っていた友人との或るミュージッククリップについての会話です。

日本の女性シンガーのものですが、衣裳含めロックなアプローチで激しいシャウトと歌詞的には自身の思いを赤裸々に時代環境への疑問等ぶち撒けるスタイルで、海外からの影響を考えるとよくあるタイプかもしれません。
私が観ながらしっくりいかなかったのは、女性シンガーがヴィジュアル的にかなりの美形に類している為、何処か自分自身を壊すことを軸としているように映ったのです。
「何でこういう感じに作ったんだろう」
「悩んでいるんじゃないか、美しいことへのコンプレックスかもしれない」
「そういう観点もあるのかな」
「美しい自分であることに悩んでいるから、ロックが表現として適していたのでは」
「いろいろあったという事だろうか」
「悩みは人それぞれだから」

このやり取りをふと思い出すのは、昨今の‘ルッキズム=見た目至上主義’への指摘等、吹き荒れるジェンダー世論の平等価値観の根拠、そのコンセンサスは各人共通な視点として成立しているのだろうかと疑問符を感じるからです。
人間社会の営みとは感情からなる経済原理にどこまでも沿っています。
・美味しい
・(価格が)安い
・快適だ
・楽になる
・優越感

そして、より直情的な感情表現に‘好意’があります。好意の詳細として、
・可愛い
・綺麗
・格好いい
・触れたい
これらも無論、経済原理に組み込まれています。

つまり、経済を世の中に流行らせる役割であるメディア全般が司る広報事業、広告や番組の有り様とは、その時々の感情トレンドを推していくことで、商品やイベント需要を喚起していくやり方に、過去現在未来と変化なく継続していくことは否定できない産業の性質があるのです。

冒頭の会話にある保守的な見た目重視における損得感は、アートや表現の範疇にしか解析の余地がもしかすると無いことが分かります。
つまり皆んなが良いと思っているものが経済的には商品になりやすいという点が優先されます。
しかし、そこからはみ出したいと考える当事者や支持する人がまた一定のマイノリティとして存在する事実を見逃すこともできないのです。

ルッキズムを否定しながらルッキズムに取り憑かれている人間社会、この自己矛盾を抱えながら、コンプライアンスを作り用いることで精神の均衡を保とうとする、これが現在だと感じます。
アイドルという概念やセックスアピールを表現という中に収めて、好機をそそるエンタテインメントビジネスは世界中に存在しています。加えてTwitterを代表するSNSの潮流に含まれるノンモラルな自我の咆哮も時に目に余る状態に陥っています。

時代と感情が寄り添う素敵な相関性があった或る時代までは、様々なモデルケースになり得る事例があったように思います。答えは風の中にしかないのかもしれませんが、逆手に取ればより一層のバイタリティや大義に向って行動する意義が何らかの道標に繋がるものだと、私はそれがポイントだと思っています。

2年5ヶ月ぶりに7月30日に開催される下関名画座のお知らせです。
監督は名匠・ヴィットリオ・デ・シーカが手掛け、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン主演の1970年公開の名作『ひまわり』を公開します。
全国170館以上で公開されている話題のレトロスペクティブ映画でありますが、往年の映画ファン以外にぜひこの機会に様々な世代の方に観ていただきたいと思います。
これぞ感情を捉えた、ご自身の人生観を顧みる機会としても大いに有りと思う次第です。

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