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映画「イン・ザ・カット」を読む【完全解説】

 ニコール・キッドマン製作、メグ・ライアン主演、「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン監督。3人の女性が「女性の性」に挑んだ問題作。カンピオン監督作品だけあり、一筋縄ではいかない映画をじっくり読み解いてみた。[ネタバレあり]

●スリラーと呼びたくない作品

 本作品は、完全にヒッチコックを意識したスリラーだ。ヒッチコック・スリラーとの類似点があまりに多い。本作品の主題歌「ケ・セラ・セラ」は、元々「知りすぎていた男」のものであり、庭の花壇から死体が出てくるのは「裏窓」の設定と同じだし、灯台で犯人と格闘するのは、「逃走迷路」の自由の女神での格闘や「めまい」の塔での格闘を思い出させる。「断崖」「疑惑の影」に代表されるように、ヒロインが愛する相手を殺人犯ではないかと疑い、愛と疑惑の狭間で揺れ動くのは、ヒッチコック・スリラーの定番である。

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 こうした共通した符号を多く持つスリラーでありながら、本作品は、観ていてちっともドキドキしない。それは、ジェーン・カンピオン監督が、元々、スリラーというものにあまり興味がないからだろう。もちろん、スリラーらしくミスディレクションは周到に用意されている。猟奇殺人の被害者の血を黒人学生のレポート用紙につけておく。ヒロインの妹が殺されたときも、ストーカー男にシャワーを浴びさせ血を流したのかも知れないと思わせる。ヒロインの恋人であるマロイにその妹の部屋の鍵を持たせて犯人かも知れないと思わせる。また、ストーカー男にも、ヒロインの家の鍵を持たせ、マロイには、通り魔に襲われた時にヒロインがなくしたブレスレットのチャームを持たせる。ミスディレクションを並べることで「誰が犯人か」という観客の興味を煙に巻くことしかしておらず、スリルとサスペンスで観客の感情を揺さぶろうなどという演出はなされていない。本編中、ハラハラドキドキの瞬間など一瞬もない。「女の性(さが)と女の自立」をテーマに、ひたすら女性の心理を描くことに専念している。スリラーは単なるポーズなのだ。だから、私は本作品をスリラーと呼ぶことさえ抵抗がある。そう呼んでしまった瞬間、本作品は失敗作だと認めるも同然の行為に思えるからだ。
 テーマを語る上では、「ピアノ・レッスン」に負けないほど、実に良くできている作品であることは認めるが、あちらと比べると詩的なイメージは劣っているように思える。

●現代アメリカ版「ピアノ・レッスン」

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 カンピオン監督は、これまで「社会の中での自立した女性の性」を描き続けた作家であるが、本作品も、女性の性的な解放を描いてあり、舞台をニュージーランドからアメリカに移した「ピアノ・レッスン」とも呼びたくなるような作品だ。テーマに肉薄する姿勢に於いて「ピアノ・レッスン」に負けるとも劣らない。
 「ピアノ・レッスン」のヒロインは、内に性的欲求を秘めながらも、「ピアノ」でしか外世界と接触しない敬虔なクリスチャンの女性であった。完全に自立をした女性が、19世紀の半ばのニュージーランドの自然の中で性に目覚めていく姿を描いていた。本作品のヒロインも、性的欲求を内に隠しながら、「言葉」でしか外世界と接触しないクリスチャンの女性だ。本作品も社会での自立を求めながら、性の解放を望んでいる。「ピアノ」と「言葉」という外世界との接触媒体が違うだけで、実は本作品のヒロインは「ピアノ・レッスン」のヒロインと同一人物なのである。

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 二つの作品で大きく違うのは、話の舞台となる場所だが、本作品の舞台となる現代のアメリカを描くことが本作品のテーマの一つにもなっている。カンピオン監督のそうした意図が、繰り返し映し出される星条旗のアップからも読み取れる。カンピオン監督は、アメリカを「男性に支配された国」と捉えている(詳しくは後述)。街を映し出すカットをよく見てもらうと分かるが、屋上の貯水タンクがまるで男根が立ち並んでいるようにも見える。本作品は、そのアメリカでいかに女性が自立しながらも性を解放して生きていくかを追求した作品なのである。

●なぜフラニー姉妹は腹違いなのか

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 まず、ヒロインのフラニーの妹のポーリーンのキャラクターをみていこう。彼女は、冒頭のシーンで、フラニーが体をすっぽり覆い隠すコートを着込んでいるのに対して、肌を露出気味のワンピースを着ていることから、解放的な性格なことが分かる。妹は、ストリップ劇場の二階に住んでいる設定によっても、性的に解放的な性格であることが強調されている。こうした描写以外にも、妹とフラニーは対照的な存在として描かれている。まず、妹はフラニーとは「腹違い」の姉妹である。「腹違い」であることで、別の母親に育てられたことを強調している訳だ。なぜ「腹違い」である必要があるかと言えば、後述するが、フラニーは母親に関することでトラウマを抱えているからだ。

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 一方、フラニーと対照的なキャラクターにするため、妹の方は母親が違うのでそのトラウマを抱えていないことを示さなければならない。この2人の違いを大きく示しているシーンは、妹が恋人とうまくいっていないことをフラニーに語るところである。フラニーは言う。「どうして彼と恋していることを想像しないの?」と。このフラニーのセリフは、現実世界で他者と接して傷つくのでなく、「なぜファンタジーで満足できないのか?」と問いかけているのだとカンピオン監督も語っている。この問いに対して、妹は「でも体が求めるでしょ」と言い返す。妹は、結婚願望が強く、報われない愛に対しても一途にのめり込むほど情熱的だ。フラニーが寝ている妹に布団を掛けようとすると、「熱い」といってそれを断るという何気ない描写からも、妹の情熱的なキャラクターは示される。彼女はセックス依存症であり、もっと言ってしまえば、セックスをしてくれる男性依存症なのである。だから、彼女は、セックス時に、男の言いなりで注文を付けたりはしない。好きな医者から暴力を振るわれている描写から、彼女が男性に依存させられているのは、性的な問題だけでなく、暴力によっても言いなりにされていることが分かる。彼女は、ヒロインのフラニーのキャラクターを浮き彫りにするため、対照的なキャラクターとして配置され、男性社会のアメリカの女性代表選手として描かれているのだ。彼女たちが腹違いでありながら、姉妹の設定になっているのは、同じアメリカ女性のくくりで描こうとしたからであろう。

●なぜフラニーは近所の夫婦をシカトするのか

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 妹に対して、フラニーの方は、英文学の大学講師で、心の奥に性欲を秘めながら、その欲求を抑圧している女性だ。肉体で他者と繋がらず、「言葉」でのつながりを求める。「男が支配する街」の鼓動を感じ取ろうと、街に溢れるスラングや詩を収集するなど、「言葉」集めに執着する。外世界に住む他者と結びつくこうと情熱的に努力しているからこそ、彼女の部屋の壁は、書き留められた言葉のメモで覆い尽くされている。「言葉」を通してなら、他者とつながることができるのだ。
 しかし、彼女は、実は肉体的なつながりも望んでいる。初めて警官のマロイと会ったときに話していたように、彼女は「いつも窓を開けて」おり、その窓から誰かが入ってくるのをずっと待っていたのである。だから、フラニーは、妹に「無意識の生に憧れる」という詩を聞かせたり、オーディオから「あなたの愛を待っているのは私」という歌が流れてくれば、口ずさんだりする。そして、マロイと初めて寝るときも、彼女は自分でパンティをおろせず、マロイに脱がせてもらうのである。
では、彼女は性欲がありながらも、なぜ男性と肉体的につながることを避けるのだろうか。彼女を抑圧しているものは何か。それは女性の「自立」である。妹は、性的な欲求と暴力から、男性に依存させられているが、フラニーは、自立を確立させたい女性。男性と肉体関係をもつと、依存させられる。だから、今までの恋愛はうまくいかなかったのではないかと思われる。彼女はマロイとの肉体関係を持つときに、しっかりコンドームを用意し、男性に頼らず、自立して生きていくことの意思表示をするし、妹から貰った「結婚への憧れ」というブレスレットの赤ちゃんの部分もなくしてしまう。妹の隣人の子持ちの夫婦に挨拶されてもシカトするのもそのためだ。
 性的な欲求を満たそうとすると、「男が支配する」国のアメリカでは、自立の障害となってくる。「セックスしたいなら、男のいいなりになれよ」となってしまうのである。「それが嫌なら力づくで屈させるぞ」となり、彼女は暗闇で何者かに襲われ顔に傷を負うわけである。その傷をマロイが癒してくれるように、本作品は、フラニーが彼の助けを借りながら、「女性の性の解放と自立」を獲得のため闘う物語なのである。

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 そんな彼女が、自立しながら、性的な関係をもつためには、一方的に自立をめざすのではなく、自立と依存のバランスが重要になってくる。フラニーの心は、この自立と依存の二面の間で揺れ動いている。それを視覚化するため、カンピオン監督は、全編に渡り、フラニーの姿が、街角のガラスに反射して二重写しに見せたり、彼女がマロイと立ち寄ったレストランの壁がガラスになっていて、これまた二重写しに見せたりしている(マロイも同様にこの二面の間で悩んでいる)。フラニーがたくさんの荷物を一人で持っていながら、途中で黒人学生に荷物をもってもらうようになるシーンがあるのも、自立だけをめざしていた彼女の心境の変化を示すためである。

●なぜフラニーは妹の服を借りたのか

 ここからは、フラニーがアメリカという国でいかに性を解放していったかを順にみていこう。ファンタジーの世界で自らの要求を満たそうとするフラニーだが、庭の花壇から切断された女性の首が見つかったことで、彼女の人生は変わっていく。しかも、その犠牲者は、フラニーがバーで見かけた女性であったのだ。彼女の身近で起きた猟奇殺人事件。フラニーは、マロイをはじめはすんなり部屋の中に入れない。外部との入り口である玄関ドアには、しっかり鎖がかけられており、ここでも、男性への警戒心が強いことが強調される。彼女は、男性を象徴する「煙草」の火を消させてからマロイを部屋の中に入れる。
 フラニーは、「スペードの3」の入れ墨から、マロイをバーの地下でフェラチオをさせていた男だと思い込む。フラニーは、男性上位のフェラチオをさせる男に抵抗を感じるものの、性欲を抑えることは出来ず、彼を思ってマスターベーションにふける。彼女の得意のファンタジーで男性と結ばれる。自立を守るため、男性と関わることに避けながらも、性的な欲求を抑えられない。このマスターベーションにはフラニーの迷いがよく表れている。初めて彼女がマロイたちの車に乗ったときにも、彼女の男性を求めながら、「男性優位」の恐れはそれとなく暗喩によって描かれる。彼女は、男性の車に乗ることに躊躇し、警官の男が運転中に「赤いパトランプ」を取り出した直後に、車内から「赤い服を着た女性」が走り去るのを見かける。男が「赤色」が表す情熱(性的欲求)を示されると、反射的に逃げ出してしまう。「走り去る女性」のショットは、初めてマロイたちの車に乗った時のフラニーの心境を表していたのである。

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 そんなフラニーだったが、マロイのデートの誘いにのる。このとき、フラニーは、妹から「花柄のワンピース」と「赤いハイヒール」を借りており、妹から貰ったブレスレットを身につけている。妹に変身し、フラニーは「男が支配する街」でひっそりと生きていくよりも、試しに妹のように解放的になってみようと思ったわけだ。そして、彼女はマロイと肉体関係を持つようになる。ここで、彼女は外世界と自分が「肉体」で繋がる快感を味わい、ファンタジーだけでは満足できなくなる。それまでは「言葉」という手段であったが、その手段が「理性的」なものから「本能的」なものへと変わり、心の奥に閉じこめていた性欲を露わにしていく。

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●灯台とハイヒールは何を表していたか

 上にも書いたが、この作品では、「本能(性的欲求)」は「自然」と「赤色」によって視覚的に表されている。フラニーの妹の家は赤く、彼女の部屋には、植物のような飾りがいっぱいある。マロイがフラニーの性を解放させるときも、街を離れ、鹿がいるような森の中へ連れて行く。そして、人間(理性)が作った「進入禁止」の看板も平気でなぎ倒して奥へ奥へと入っていく。

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 「赤い灯台=情熱的な男根」のメタファは、本編に何度も登場する。まず、フラニーの講義中、黒板には「赤い灯台」が描かれており、「灯台へ」という書物について課題を出す。このとき、学生のひとりが「女が1人死ぬ話だが、3人死ねば良い」と言う。この何気ない台詞は、これからの展開の伏線になっている。この時点で、現実世界では、地下でフェラをしていた女性1人が死んでいるのだが、最終的には、女子医大生とフラニーの妹が加わり、計3人の女性が死ぬことになる(「スペードの3」も、「スペード」が男根、もしくは刃物を表していて、「3」はその標的にあった女性の数を表しているのではないかと推測する)。このほかに、犯人であるマロイの相棒の警官の机上にも「赤い灯台」の置物と、そしてアメリカの象徴である「星条旗」が飾ってある。

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 「赤い灯台」と対比として現れるメタファだと思われるのが「赤いハイヒール」である。「赤」が情熱的だということは同じだが、ハイヒールは男性を喜ばせるものであり、何より一方的に「突っ込まれる」受け身の存在なのである(指輪も同じように、突っ込まれる女性の女陰のメタファであろう)。つまり、「赤いハイヒール=情熱的な女陰」を表している。フラニーは、妹からこの赤いハイヒールを借りて、さらに赤いドレスを着て、性を解放させるが、その後、半分裸足になったり、草履を履くようになったりするのは、彼女が男性を喜ばせるだけの存在ではなくなってきていることや、男性とのセックスに対して、フィフティ・フィフティの関係になっていることを示している。

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 この「赤色」に気をつけて、本作品を見ていくと、情熱的な、本能的(官能的な)シーンは、ほぼ赤に染まっていることに気づかされると思う。殺される女性がフェラをしている地下も、フラニーの部屋も、妹の部屋も、マロイがフラニーを誘うバーも、赤いロウソクやら何やらで真っ赤かである。

●なぜフラニーは性的欲求を抑圧していたのか

 フラニーの妹は恋人と週に11回もアポを取っても会えず、彼のクリーニングの服を横取りするしか為す術がない女性だ。結婚願望が強く、最後にはエンゲージリングをはめられて(依存させられて)殺されてしまう。アメリカでは、女性が男性のセックスと暴力によって依存させられ、幸せにはなれないとカンピオン監督は考えている。メラニーが、街で見つけるスラングは、セックスと暴力についてばかりだと語るのも、そうしたアメリカの社会性を示している。

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 その代表的な男性と描かれているのが、フラニーの父親である。フラニーのナレーションと映像によって、父親と母親の馴れ初めが語られる。真冬の森の中の池。父親はフィアンセとスケートをしていたにもかかわらず、そこにいた母親に一目惚れをしてしまう。それに怒ったフィアンセは、父親に指輪を投げつけるが、父親は何とその指輪を母親にプレゼントして求婚をする。フィアンセのことを思えば、何とも女性を馬鹿にしている男だが、このエピソードも男性の優位性を示している。婚約が成立した直後、父親は誤って母親の足と首をスケート靴の刃でカットしてしまう!もちろん、この部分はフラニーの妄想であり、実際には、彼女の父親は4回結婚して、1回は結婚をせず、腹違いの妹を産ませていることが語られる。つまりは、父親は、女性に対してセックスを求めるが、相手が自分に依存関係を結んだ時点で、存在をカットしてしまう(不幸にしてしまう)のである。女性が自分に依存するのを嫌がる父親は、フラニーの少女時代、彼女を置いてワシントンへ出かけてしまったこともある。そうした点から、フラニーは、父親とのトラウマから男性恐怖症になり、母親のようにはなりたくないという思いから、性的欲求を抑圧するようになったと言えるだろう。

●花吹雪を浴びた女性はなぜ死んでしまうのか

 本編にもう一人、フラニーの父親とそっくりなことをしている男がいることに気づくだろう。そう、猟奇殺人犯であり、マロイの相棒である男だ。彼も、バーの地下で女性にシャブらせており、バーで「女はみんなシャブリたがっている」とのたまう男性上位志向の男。彼は「釣り」が趣味で「赤い灯台」に釣り部屋を持っている。「赤く」情熱的で男根を象徴する「灯台」を拠点にして、女性を「釣っている」のである。そして、釣り上げた女性にエンゲージリングをはめさせて(依存させて)、バラバラに切り刻んでしまう。カンピオン監督は、この男の犯行によって、アメリカという国では、女性が男性に依存させられて不幸になることを示している。また彼は、自分が浮気をしておいて、それを目撃した妻を殺しかけている。女性に対してセックスを求めながらも、婚約(依存)させたら、スケート靴で体をカットしてしまったフラニーの父親のイメージと全く同じなのだ。ラスト、監禁したフラニーに「人に見られたから灯台に5日間拘束させてもらう」と語るのも、彼女の父親がフラニーを置き去りにして5日間ワシントンへ出かけたこととシンクロさせるためのセリフである。

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 フラニーの父親も、殺人犯も、依存関係(婚約)が結ばれた瞬間、女性をカットしてしまう。ここで本作品に何度も登場する「花」という暗喩に注目して欲しい。本作品において「花」は女性を表している。「花が散る」ことは、「女性の死(不幸)」を表しているのである。冒頭の街の描写では、すでにフェンスの中の花の落書きがある。これは、これから始まる物語は、フェンスという拘束するものの中に女性がいるアメリカという街の話だと示していたのだ。同じく冒頭、フラニーの妹は、庭に咲き誇る花の「花びら」の吹雪を浴びている。しかし、「散った花びら」の下には、猟奇殺人犯によって殺された女性の死体の一部が埋まっているのだ。この女性も妹も、猟奇殺人犯によって、エンゲージリングをはめさせられて殺されたに違いない。婚約させられた女性の元に、「花びら」が舞い落ちてくるのは、フラニーの母親も父親と婚約した瞬間に「花びら」のような雪が空から降ってくるのとシンクロしている。「花」が性欲や情熱の暗喩であるとすれば、「花びら」が散ることは、その終わりを意味することになる(「花」のキーワードは、この他にも、殺人犯の車内や灯台の部屋など本編の随所に登場する)。つまり、冒頭で妹がフラニーの母親のように、男に依存させられ、死を迎えることを暗示しているのだ。ラストで、猟奇殺人犯に囚われ、エンゲージリングを渡されたフラニーの頭上にも、スローモーションで「花びら」のように撮られた雨粒が降ってくる。ここで、フラニーが殺人犯とダンスを踊るのも、明らかに彼女の両親の婚約のシーンとシンクロさせるためである。「こんな時になんで殺人犯とダンスを踊ってるんだ?」と疑問に思った人もがいることであろうが、「フラニーの父親=殺人犯」ということが分かれば、あの大きな柵の中で踊るダンスの意味が見えてくるだろう。心理学的な側面から言えば、ラストでフラニーは、「殺人犯=フラニーの父親」という意味から、父親殺しを行い、父親のトラウマを乗り越えたと言えるだろう。

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 フラニーの父親のイメージは、猟奇殺人犯と同様であり、アメリカの男性全般のイメージでもある。「男が支配する」アメリカ国では、婚姻関係においても、男性が支配権を握っており、女性は男性と結婚(=依存)してしまうと存在を消されてしまう。そのため、フラニーの妹に代表されるように、性欲に目覚めた女性たちは、自らの存在を消される不安に怯えて生きていかなくてはならなくなってしまう。猟奇殺人犯はその不安を生み出す男性支配の象徴なのである。

●なぜマロイは綺麗な手をしていたのか

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 マロイと殺人犯が、共に「スペードの3」の入れ墨を入れていることから、マロイも殺人犯やフラニーの父親と同種の男性(=アメリカ人男性)であることが示される。この作品は、アメリカ人男性について描くことがテーマでもあったため、同じアメリカ人男性のくくりであることを示したかったに違いない。マロイも女性に対して命令口調で無礼な奴であり、男性上位志向。妻子ある身だが、家庭内別居状態である。付き合う相手としてはあまりいい相手には思えない。
 では、なぜフラニーは、「男の支配する街」で生きていく相手にマロイを選んだのであろうか。答えはずばり女っぽいからである。マロイは、女性のようにきれいな手をしている。マロイは、他の男とは違う、きれいな手で傷ついたフラニーをなでてあげる。彼の中には母性があるのだ。そして、手錠(拘束)をされて、依存させられて状態になると、「女になった気分」だと言う。これは、手錠が指輪と同様、束縛のメタファになっており、手錠をはめられたマロイは、指輪をはめられた女性と同じ状態にされたため、このようなセリフを言うわけである。
妻を殺しかけるマロイの相棒の警官や、暴力を振るう妹の好きな医者の男と違い、マロイは女性に手をあげたりはしない。後半、手錠をはめられながらフラニーとセックスをするときも、彼は「君のしたいように何でもする」と語る。ここでも、オーラルセックスをさせていた殺人犯との違いが大きく示される。マロイは男性上位志向でありながらセックスに関しては女権主義なのである。しかも彼にセックスを教えたのは、女性であった。フラニーと初めてセックスをしたとき、彼女が「誰がこんなセックスを教えたの。年上の女性?」と尋ねた時、マロイは童貞だった15歳に行きがかりの女性がセックスの手ほどきをしてくれたと語る。フラニーの性を解放するのは、母性をもっていて、女性を理解している男だったのだ。だから、ストリップ劇場の女性たちを拳銃で守る門番の男もゲイなのである。

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 余談だが、銃を男根の象徴と考えると、殺人犯の男根は「水鉄砲」程度であり(恐らくインポと思われる)、マロイの男根は「本物」であることからも、マロイのセックスに対する女性の満足度の大きさが分かるだろう。殺人犯は暴力を振るうが女性を満足させられない男なのである。

●なぜマロイは森の池で求婚したのか

 母性をさらけ出せる男性が、女性の性を解放させるだけでなく、女性の自立も確立させられると、カンピオン監督は、この物語を通して語っているが、そのことを先ほどの「花」のメタファから読み取ってみたい。

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マロイは、「森の中の池」でフラニーに求婚するが、そこでは「花びら」が散らない。このことは大変意味がある。その場所が、「森の中の池」であることは、当然のことながらフラニーの父親が母親に求婚をした場所(池が凍ってスケート場になっている)とダブらせるためである。両親と同じように求婚をされるフラニーだが、依存関係を望まれても、彼女はカットされない。彼女の母親のように、マロイの車のボンネット上で横たわるがカットされることはない。

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それはなぜか。このとき、マロイの上着のポケットの一方には、「銃(=仕事・自立)」が入っており、もう一方には「ブレスレット(=結婚・依存)」が入っている。仕事と家庭の狭間。自立と依存の狭間で、彼の心は揺れ動いているのだろう。マロイは、他の男性キャラクターたちと違い、セックスの対象としてだけでなく、女性の自立を認めつつあるのだ。だからこそ、マロイが初めてフラニーの部屋に入ったとき、マロイが「春と桜 それは君と僕」という互いの自立を表す言葉を口にするのだ。フラニーを暴力で襲う人物(恐らく男性)は、ブレスレットの赤ちゃんの飾りをカットし、マロイは、その赤ちゃんの飾りを見つけて届けてくれる。この流れからも、マロイが他のアメリカ男性たちとは違い、母性的な面を持っていることが窺われるだろう。
 話を戻すと、「森の中の池」で求婚したとき、マロイは、フラニーに銃の使い方を教えている。この行為は、「男に支配された国」で男と対等に生きていくために、フラニーに身を守る護身術を教えているようにも見える。その甲斐あって、ラストでは、マロイの服を着て(男性のように強くなり)、フラニーは女性のセックスを脅かす象徴である猟奇殺人犯を倒し、マロイの元へ戻ってくるのである。精神的には、父親を倒して母親の復讐を果たしたと言っても良いだろう。妹がフラニーに「あなたをドレス1枚で変えてみせるわ」という台詞を言うが、妹の言うとおり、フラニーは服1枚で世界を変えることができたのだ。同じ男性の服を盗んでも、弱い妹は「どうしたら良いか分からず」世界を変えることができなかったわけである。「花」のメタファだけの妹の部屋と違い、フラニーの部屋には、「花」に加えて、モビールにもグラスにも「蝶々」のメタファもある。妹と違い、彼女は自由に飛び回ることができるのである。

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 スペードの3の入れ墨から「マロイ=猟奇殺人犯」という見方をするならば、猟奇殺人犯がマロイの銃で撃たれるということは、自らの銃で自分自身の「男性上位志向的な側面」を撃ち抜いたとも読み取れるだろう。マロイは、フラニーに電話でオナニーをさせたり、男根の象徴であるピストルを触らせてセックスをお預けにしたりと、セックスに対しても常にフラニーより優位に立とうとしていた。フラニーの家の鍵を持っているストーカーの「男」であり、妹の部屋の鍵を持っていたのも「男」のマロイであり、灯台の鍵を持っていたのも殺人犯の「男」である。男女の依存関係の「鍵=支配権」を握っているのは常に男だったのである。しかし、後半、マロイの手錠の鍵を持っているのはフラニーなのだ。男は女に指輪をはめて拘束していたが、最後に手錠をはめて拘束するのはフラニーなのである。フラニーは、殺人犯の「男」がはめさせようとした指輪を銃で吹っ飛ばし、「男」に手錠をはめて抱く強靱な女性へとパワーアップしており、ラストでは、男性との依存関係に於いて完全に対等な立場を獲得している。
 「ピアノ・レッスン」も、性に目覚めた女性が男性の暴力(指の切断)に屈せず、男性と対等な関係で愛を育むようになる話であった。ここまで読み取れると、最初に、本作品が「ピアノ・レッスン」と同じ物語だと書いた意味を分かって貰えると思う。

●なぜフラニーと元彼は別れたのか

 ここまでこの作品に登場する男性キャラクターについてみてきたが、分析していない男性がもうひとりいる。フラニーの元彼だ。彼も、他の男性同様、男性上位志向であることには変わりがない。彼は、フラニーの留守電に「出ろよっ」と大騒ぎし、別れ話に逆上し、街なかでいきなり「ファック!」と大声を上げる始末。暴力の代わりに暴言で女性を押さえつけようとするのだ。

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 本作品で「本能・性欲」のメタファになっているのは、「動物」について見ていくと、もう少し分かりやすくなる。フラニーは、近所の「野良猫」にミルクをあげる気持ちをもっていることから、本能的であることが示されるが、元彼も、常に犬を連れており、同様に本能的な人間である。ただし、彼の場合、動物入店禁止の店の中にいるフラニーのところまで犬を連れてきてしまう。理性で本能を抑えられないほど、性欲が強いのだ。だから、フラニーが寝てくれなくなれば「妹を紹介してくれ」と頼んでしまうし、いつも性欲の象徴である「赤い」キャップを被っている。性欲が強くてストーキングをしてしまうという共通点から、フラニーの妹の男性版と言ったら分かりやすいだろうか。

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 子どもの頃、母親に女性の服を着させていたことからも、アメリカという国にいながらも、女性の部分をもった男性として描かれる(この作品では、服はそのキャラクター示す重要なメタファとなっている)。元彼は、道端で犬がフンをすれば、さりげなく処理をしたり、職業も看護師という設定だったりと、面倒見の良い女性的な面があることが分かる。また、突然、ヒステリックの怒り出すのも、彼の女性的な面を描いていると思われる。
 先述したように、母性をもつ男こそが、アメリカという国で「女性の自立と性の解放」を両立させることができる存在なのだから、フラニーは元彼と付き合っていたのだろう。では、なぜフラニーはこの元彼とうまくいかなかったのだろうか。別れの原因は、ズバリ「自立」である。元彼は手のかかる犬の面倒を見てくれとフラニーに頼み、それを受け入れて貰えないとなると、大声でお怒り出す。このように、彼は自立しておらず、自立のできていない男性が、女性の自立を支えることなぞできるはずもない。だから、彼はフラニーの相手としては失格だったのである。

●なぜ地下鉄のホームにウェディングドレスを着た黒人女性がいたのか

 冒頭近く、フラニーは、バーの「地下」に潜って、猟奇殺人犯のセックスを目撃する。そこで、彼女は、潜在的にもっていた自分の性欲を発見する。ここでは、暗い「地下」が彼女の潜在意識を象徴しているのだ。「地下」と同じ働きをし、何度も登場するメタファが「地下鉄」である。地下鉄の車内で、フラニーが目にする広告の言葉は、その都度、彼女の心境を表していて不可解に思われるが、地下鉄が彼女の潜在意識の世界であることが分かれば、これは不思議でも何でもない。もしかしたら、地下鉄のシーンは、現実のものではなく、夢の中のシーンかもしれない。何れにせよ、広告の言葉は、彼女の心の声なのだ。
 地下鉄の中で、フラニーが、一度、元彼の男を見かけて、身を隠すシーンがある。あれは、フラニーが弱気になって、元彼とよりを戻そうか悩んでいることを表していると思われる。なぜなら彼は母性をもっており、暴力ではなく暴言での制圧であり、多くのアメリカ男性よりも束縛が弱いからである。このことは、元彼が施錠の厳しいフラニーの部屋に簡単に入り込めることからも示されている。元彼は、彼女の家の合鍵を持っていて、彼女の中に入り込むことができる特別な男性なのだ。

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 また、地下鉄の場面では、プラットホームで「MOM」と書かれた大きな「赤い生花の花輪」が登場する。これも、父親にカットされ葬られた母親に「花」を贈りたいフラニーの潜在的な気持ちの表れであろう。婚約したことで、母親が「花=女性」を散らされてしまったことに対するお追悼の思いが込められていると思われる。黒人女性がウェディングドレスを着ているのも、女性や黒人など、アメリカという国で依存させられ奴隷にされている弱い立場の存在の象徴しているのだろう。
 黒人に対する差別意識は、フラニーにもあり、後半、黒人学生にセックスを迫られる場面でフラニーの体に「花びら=女性」が付いている。つまり、彼女には性欲があったのだが、黒人学生とは「気分が悪い」と言って寝ないのだ。その後、彼女がマロイとセックスしていることから考えても、「気分が悪い」という気持ちの奥には「黒人とは寝たくない」という差別意識があったことが伺われる。それと同時に、このシーンにはもう一つの意味がある。「花びら=女性」が散ると、女性は死を迎える。このことを感じたフラニーは、男性を避けて身を守ったのである。このまま誰とでも寝て、性的欲求に依存していくと、自立とのバランスが悪くなり、他の女性のように死を迎えることになると。だから、肉体関係を結ぶことを思いとどまったのだとも取れる。
 本編の中で、こうした差別意識を持っているように描かれているのは、フラニーだけではない。猟奇殺人犯であるマロイの相棒も、「黒人女性が好き」であり、遊びの対象にしていることが示されているし、バーにいる黒人女性を見て「シャブりたがっている」と馬鹿にしながら話している。ストリップ劇場で働くのは黒人だし、フラニーの妹の白人がその上で暮らしている。マロイについては、自分の娘が黒人の子どもたちを教える教師になりたいと語っているところから、黒人差別の意識が弱い人間だと分かる。この国では、潜在意識の中では相変わらず黒人はさげすんでみられており、地下鉄にいた黒人女性は、アメリカという国と結婚できないという状況を視覚的に見せているのだ。本作品は、「男に支配される国」だけでなく、「人種差別に満ちた国」でもあるアメリカの暗部を鋭くえぐって見せているのである。
 さらにもう一つ付け加えると、黒人社会の中でも、男に支配されている考え方があることも示されているのが、この作品の奥深さでもある。黒人学生は、地下で連続殺人をしていた男についてレポートを書いているが、彼はメラニーにその殺人犯は欲望に忠実に行動しただけだから悪くないと言うのだ。アメリカ社会の中で、弱者の黒人たち。そして、その黒人社会の中で、弱者の黒人女性たち。根深い問題である。

●なぜフラニーの庭で太極拳をする男がいたのか

 カンピオン監督は訴える。アメリカは、「男性上位の国」であり「黒人差別の国」だと。それだけにとどまらず、マロイの相棒の警官が、妻が彼のキリスト教会からもらった盾を投げたからと、妻を殺しかけて服従させるという話から語られるように、「キリスト教徒のつくった国」であることから、キリスト教がアメリカに及ぼす悪影響についても触れている。
 本作品のキャラクターが見せる愛の形で共通することは何かお気づきであろうか。フラニーと彼女の妹、マロイと彼の相棒…誰も彼もが不倫関係を結んでいるのである。理想の愛の形は、一夫一妻の結婚制度の元では成立しないとでも言いたげだ。敬虔なクリスチャンには、不倫は許されないものであるが、当然のことながら、結婚相手が必ずしも理想の相手であるとは限らない。そんなとき、カンピオン作品のキャラクターたちは、理性で感情を抑えて生きていくようなことはしない。「ピアノ・レッスン」のヒロインは、たとえ指を失うことになろうとも、本能の赴くままに情熱的に生きていくのである。だから、本作品のキャラクターたちもこぞって不倫をしているのだろう。
 では、不倫を許さない「キリスト教徒のつくった国」で、彼らはいかに理想の愛を追求して生きていっているのだろうか。「ピアノ・レッスン」では、キリスト教徒のヒロインが、ニュージーランドの原住民の思想を取り入れて、本能的な愛を貫いていった。アメリカを舞台にした本作品では、ヒロインはキリスト教に東洋思想を持ち込むことで、自らの歩む道を見つけていくことが示される。

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 本編には、そのことが分かるシーンがいくつかある。例えば、フラニーが「オレとやりたがっていたくせに」と言われてしまう黒人学生とのシーン。どうやら彼が言っていたことは間違っていなかったようで、前半、彼とバーで会っているときから、フラニーにはこうした不道徳的な気持ちが芽生えていたのであろう。彼との関わりをきっかけにして、彼女が次第にそうした感情を肯定していくようになるためか、彼がいなくなった後、彼が座っていた場所の壁には、僧侶の絵が描かれている。おそらくこれは、その後、彼女がキリスト教の思想から東洋思想へと導かれていくようになることを示す伏線なのだろう。

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 これに関わる暗喩の一つは、フラニーの部屋のモビールだ。このモビールは、何やら東洋の通貨らしきものでつくられており、それが外部とのつながりである窓際に飾られている。しかもこの窓は「いつも開いている」ことから、フラニーが東洋思想を通じて、性的に解放的になっていくことを示しているのだ。この他にも、冒頭、フラニーの庭にもなぜか太極拳をしている隣人が登場したり、フラニーの部屋にミニ掛け軸があったり、性的に解放的なフラニーの妹の家のキーの隠し場所が大黒天のような置物の下であったりと、東洋思想を象徴するキーワードが随所に配置されているのに気づくことだろう。

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 最後に、タイトルの「イン・ザ・カット」について付け加えておくと、これは原題も同じなのだが、バラバラ殺人事件からネーミングされているのと、父性の「切断・分割」機能を示していると思われる。母性の「包み込む」に対して、父性は「切断」なのである。自立していくには、このバランスこそが大切なのである。アメリカ社会では、そういう点からアンバランスなのではないかとカンピオン監督は訴えているのだと思う。

●映画「シェイプ・オブ・ウォーター」を読む

●映画「三度目の殺人」-10の謎を読み解く

●映画「ドライブ・マイ・カー」を読む

●映画「ハウルの動く城」を読む 其の壱


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