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映画「ハウルの動く城」を読む【完全解説】 ①

後期の宮崎駿作品は、どんどん難解になっていくという感想を多く聞かれる。そういった感想のアンサーとして、「ハウルの動く城」の公開時に劇場で観た時の感想をアップしてみます。少々長いので、いくつかに分けてアップしていきます。


●観客を置き去りにするギアチェンジ

 映画は、「ストーリーを語る」と同時に「テーマを語る」ことを行っている。つまり、各シーンは、この両面を語るために、二重構造になっていることが多い。傑作と呼ばれる作品は、純粋に「ストーリーを楽しむ」というように表面的な見方をしても、「テーマを読み取る」というように深い見方をしても二重に楽しめるようにつくられている。
 映画の中には無駄なものがない。無駄なものがあれば編集で削除される。そのため、ストーリーを進める以外の描写には、作者のメッセージやテーマが隠されていることがほとんどだ。ストーリーが語り尽くされた現在、宮崎監督は、ストーリーを語ることに興味が薄れ、テーマを語ることに力を注ぐようになってきた。宮崎監督に対して、ストーリーの語り方を忘れてしまったと批判している人もいるようだが、宮崎駿ほどの監督が、ストーリーを語る技量がない訳がないし、決して手を抜いて作品をつくっている訳でもない。ただし、本作品は、「ストーリーを楽しむ」だけの鑑賞には辛いため、子ども向けの作品ではないと思う。

 ストーリーを軽視する傾向が顕著になってきたのは、宮崎監督が「紅の豚」以降から「シナリオなし」で、いきなり絵コンテを描いていくという制作方法を取るようになったことと無関係ではないと思われる。本作品も、「シナリオなし」で制作されており、プロデューサーの鈴木敏夫氏の話では、中盤まで制作が進んだとき、1カット5秒でつくっていかなければ、予定の上映時間にならないのに、1カット10秒のペースであることに気づいたという。しかし、それに対して、宮崎監督は、「自在でいいんだ」と開き直って、急遽、後半だけ1カット5秒ペースに変更したらしい。
 鈴木氏は、宮崎監督がカットの長さに対して「無頓着だ」と語るが、この急激なギアチェンジが、後半のストーリーの把握を困難にしている原因なのである。全体の設計図たる「シナリオなし」で制作を開始する。この宮崎作品の制作スタイルは、建て増し建て増しを繰り返して構築された「ハウルの城」と同じ構造なのだ。
 「紅の豚」から始まった、この「建て増しスタイル」は、作品を追う毎にエスカレートし、特に、前作「千と千尋の神隠し」と本作品では、ストーリー展開はおろか、主人公の心理描写さえすっ飛ばすし、クライマックスもとっとと片付け、よってカタルシスは得にくくなっている。

 したがって、緻密な設計図を元に作られていた「魔女の宅急便」以前のストーリーテラー宮崎を望んでいる観客は、本作品に対しても、おそらく失望したに違いない。今後、益々、宮崎監督はストーリーを語ることに重点を置かなくなるであろうから、そうした観客は、DVDで初期の彼の作品を鑑賞しておいた方が賢明であろう。

 しかし、「ストーリーを楽しむ」という軽い見方をするには、十分な満足感が得られない作品であっても、「テーマを読み取る」といった深読みはいくらでもできるのが本作品の凄いところだ。これから、その作業を行っていきたいと思うが、本作品の奥深さはただ事ではない。下手すると通常の十本分ぐらいのボリューム感がある内容なのだ。今から私の分析にお付き合いしてくださる読者の方は、覚悟して読み進めて欲しい。

●風の谷のソフィー

 宮崎監督は、ストーリーで観客を引っ張ることをやめた代わりに、独自のイメージの波状攻撃によって、観客を終末まで魅了する。本作品は、城、飛行機、魔法、戦争といったキーワードを筆頭に、過去の宮崎作品を彷彿させるイメージがふんだんに盛り込まれている。

 ソフィーが心を奪われるアルプスの風景は、当然、「アルプスの少女ハイジ」の世界観であるが、中盤に登場するアルプスの花畑では、湖の水面に空がきれいに映り、まるで島が空に浮かんでいるように見える。島が空に浮かぶイメージは、「天空の城ラピュタ」を思い出させるが(エンドクレジットでは、「ハウルの城」が本当に空に飛んで「天空の城」になる)、宮崎監督は、元々、水を空に見立てた設定がお気に入りであり、

アルプスの少女ハイジ

「パンダコパンダ 雨ふりサーカス」「カリオストロの城」でも、繰り返し使ってきている。本作品でも、相変わらず、「パパンダ=トトロ」的なキャラクターである案山子が登場するし、ソフィーたちは、「パンダコパンダ」のミミちゃんが万国旗を飾るように城で洗濯物は干す。

パンダコパンダ

呪いをかけられた主人公という設定は、「紅の豚」と同じであり、ハウルは、「カリオストロの城」のルパンのように、建物の屋根を弾むように蹴って飛んでいく。

ルパン三世 カリオストロの城

ソフィーの持つ指輪は、放つ光線がハウルの「城」の場所を示すが、「天空の城ラピュタ」のシータのペンダントがラピュタ「城」の場所を示すのと同じである。

天空の城ラピュタ

 ヒロインについても、今までのキャラクター像が踏襲されている。「カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」、「天空の城ラピュタ」を例に挙げるまでもなく、宮崎作品では、美少女ばかりが主人公になると多くの人たちから叩かれてきた。その反発として、「千と千尋の神隠し」では、ムスッとした表情で寝転んでいるヒロインの姿をポスターとして起用。しかし、蓋を開ければ、何のことはない。ヒロインがムスッとしているのは最初だけで、実は思いっきり純粋で行動派という、宮崎作品のヒロインの系譜に落ち着いていた。本作品では、ヒロインが老婆になってしまうため、今回は大丈夫だろうと踏んでいたら、髪の色は白くなるものの、最後にはまるっきりナウシカのように、ショートヘアを風に揺らめかせながら、戦争から世界を救う救世主となる。

「千と千尋の神隠し」初期ポスター

 最近の宮崎作品は、前半では、宮崎流スーパーヒロインではないように見せるカモフラージュ戦法をとっているものの、すぐに化けの皮がはがれてしまうのがオチなのである。

●「魔法使いハウルと火の悪魔」の二度目の映画化

 本作品を観終わった時に強く感じたのは、宮崎監督の前作「千と千尋の神隠し」とあまりに共通点が多いことだ。多くの人が同様の感想をもったようで、「ユリイカ(二00四年十二月号)」にて、青井汎氏が明確にその共通点を指摘しているが、未読の方もみえると思うので、ここに要約するとともに、私が気づいた共通点も付け加えて記載したいと思う。

・魔法によって家族と一緒にいられなくなったソフィーは、「ハウルの城」に紛れ込み、「掃除婦」として働くことで居座ることに成功する。「千と千尋の神隠し」では、魔法によって家族と一緒にいられなくなった千尋は、「油屋」に紛れ込み、「掃除婦」として働くことで居座ることに成功する。しかも「油屋」は、日本の「城」である天守閣のような形状をしている。

千と千尋の神隠し

・「ハウルの城」から外へ出ると、アルプスの花畑が広がっている。「千と千尋の神隠し」では、「油屋」から外に出ると、多くの花が咲き誇る日本庭園がある。

千と千尋の神隠し

・ソフィーは、ヘドロにまみれたハウルを浴室へ連れて行き、カルシファーに命じてお湯を出してもらい、ハウルの体をきれいにする。「千と千尋の神隠し」では、千尋は、ヘドロにまみれたクサレ神を浴場へ連れて行き、釜爺に命じてお湯を出してもらい、クサレ神の体をきれいにする。

千と千尋の神隠し

・「ハウルの城」と「油屋」の原動力は、ともに「火力」であり、カルシファーも釜爺も、かまどに拘束され身動きが取れない。

・ハウルは、魔女・サリマンの弟子だったが、悪魔カルシファーと契約を結び、鳥に姿を変えて空を飛ぶ。そして、複数の名前をもち、魔女からつけねらわれている存在である。「千と千尋の神隠し」では、ハクは、魔女・湯婆婆の弟子だったが、魔女・銭婆と契約を結び、龍に姿を変えて空を飛ぶ。そして、複数の名前をもち、魔女からつけねらわれている存在である。

千と千尋の神隠し

・魔女・サリマンは、薄っぺらな人型でハウルを襲い、ハウルを操るために毒虫を送り込む。「千と千尋の神隠し」では、魔女・銭婆は、薄っぺらな人型でハクを襲い、ハクを操るために毒虫を送り込む。

千と千尋の神隠し
千と千尋の神隠し

・ソフィーは、「ハウルの城」の中で二股に分かれた通路から、迷わずハウルのいる場所を直観で当てる。「千と千尋の神隠し」では、千尋は、豚の集団の中から、迷わず両親がいないことを直観で当てる。

・「ハウルの城」の中のハウルの部屋は、オモチャ箱をひっくり返したような部屋だが、「油屋」の中の坊の部屋も、オモチャ箱をひっくり返したような部屋である。

千と千尋の神隠し

・両作品とも、主人公の二人は、幼少期に会っているが、ともにその記憶をなくしており、クライマックスで二人はその記憶を取り戻す。

 ざっとこんな感じだが、細かい点でもっと共通点はあるので、それらについては、追々触れていくことにする。それにしても、これらの共通点は、すべて偶然のものだと言えるだろうか。偶然というには、あまりに酷似しすぎていないだろうか。本作品の原作である「魔法使いハウルと火の悪魔」の日本語版が発売されたのは、1997年5月(オリジナル版は1986年に出版されている)。「千と千尋の神隠し」の制作開始は、2000年2月。青井氏も書いているように、「千と千尋の神隠し」は、キャラクター、舞台背景、状況設定も至るまで、「魔法使いハウルと火の悪魔」の影響を受けている。というより、舞台を日本に置き換えて、完全に移植を行っていると思われる。つまり、宮崎監督は、同じ原作を二度も映画化しているのである。宮崎監督が「魔法使いハウルと火の悪魔」に惚れ込んでいたのは、鈴木敏夫プロデューサーもインタビューで明かしているが、いくら惚れ込んでいるにせよ、最初から同じ原作を二度も映画化したいとは、さすがに宮崎監督も思ってはいなかったであろう。本作品は、制作開始当初、東映アニメーションの細田守監督をスタジオジブリに招いての映画化が企画されていた。ところが、理由は定かではないが、細田監督が途中降板してしまった。監督不在のまま、企画は進み、やむを得ず、言い出しっぺの宮崎監督が責任を取って二度目の映画化に立ち上がったのであろう。もちろん、これは私の勝手な推測に過ぎないが、それほど外れていないのではないだろうか。


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