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映画「ハウルの動く城」を読む【完全解説】 ②


●発狂したソフィー

 本作品を鑑賞した観客の多くは、本作品は難解だと頭を抱えている。その原因の一つは、ヒロインのソフィーが90歳になる魔法をかけられたにもかかわらず、その後、いきなり少女に戻ったり、老婆になったりするからであろう。しかし、実は、これについては、さほど難しく考える必要はない。なぜなら、ソフィーは、最初から魔法になぞ、かかっていないからである。それに気づけば、本作品は、思ったほど難解なものではないと分かるはずだ。
 
 ヒロインのソフィーは、三姉妹の長女。戦争で父親を亡くし、その後、母親は次女と三女を手放し、三人姉妹はバラバラに暮らしている。ソフィーの家出後、母親は再婚している。このことは、中盤に、魔女・サリマンの指示で、母親がソフィーの元へ訪れた折りに発する「私、再婚したの。またみんなで暮らせるわ」という彼女のセリフから分かる。三女は本編には登場しないが、老婆になったソフィーが山へ入っていくのを見送る村人の「末の妹に会いに行くんだってよ」というセリフによってその存在を知らされる。
 
 ソフィーは、次女のレティのように、容姿端麗で器量もいい訳でもない(レティは、髪の毛の色や容姿の似ているところから、母親の連れ子であり、ソフィーは父親の前の妻との間にできた子どもであろう。だから、ソフィーの年齢の割に母親は若いのである)。それどころか、自分の容姿に対して強い劣等感を持っている。「美しくなかったら、生きていたって仕方がない」とハウルが言えば、ソフィーは、「美しかったことなんて一度もないわ」と感情を剥き出しにして泣く。常に男たちにチヤホヤされているレティとは違い、ソフィーは深い孤独感と劣等感に苛まれているのだ。

 レティとの絡みから示されるのは、孤独感と劣等感だけではない。ソフィーは、自分が長女であることから、父親の残した帽子屋を継がなくてはならないと思っており、「自由になりたい」という思いを心の奥に押さえ込んで生活していることが察せられる。孤独と劣等感。そして、抑圧。冒頭のレティとの絡みから、ソフィーの精神がかなり病んでいることが示されるのだ。
 
 本作品の時代背景はおそらく第二次世界大戦のヨーロッパ。上空には戦闘機が飛び交い、戦意高揚のパレードがやたらと派手に繰り広げられている。戦争で父親を失っているソフィーは、この街で怯えながら暮らしているようである。

 このように、冒頭では、ソフィーが、孤独、劣等感、抑圧、恐怖など、多大なストレスによって、彼女の精神は発狂寸前だと言っても過言ではないほどの状況にあることが示される。そんなとき、彼女は街で兵隊たちに絡まれ、精神的な不安感が極限に達する。そして、その瞬間、彼女はついに発狂してしまうのだ。そこから彼女の意識は現実世界から妄想世界へ逃避を始める。突然、空飛ぶ美少年ハウルが彼女の前に現れ、彼女のストレスの象徴であろうゴム人間から、軽々と救い出す。本作品は、これ以降、ソフィーが兵隊に絡まれた後からは現実世界ではなく、ソフィーの妄想世界で繰り広げられる作り話となる。

●呪いにかかっていないソフィー

 自らがつくり出した妄想によって、ファンタジーの世界に逃げ込んだソフィーだったが、彼女のストレスは相当なもので、彼女が逃げ込んだ妄想世界にまでコンプレックスたちは、様々な形で顔を出す。

 ハウルと出会った夜、ソフィーは帽子屋に戻ると、彼女の前に荒れ地の魔女が現れる。(醜い荒れ地の魔女は、ソフィーの容姿に対する劣等感を象徴していると思われる)。帽子屋のソフィーの部屋の窓の前は、いつも真っ黒な汽車の煙に包まれているが、これもソフィーの暗い気分を象徴している。荒れ地の魔女との出会いは、この薄暗さ以上に真っ暗な夜だ。きっと彼女の心は、深い闇に沈んでいたに違いない。そんな時、荒れ地の魔女は、ソフィーに90歳の老婆になる呪いをかけるのだ。この呪いは、実は先ほど書いた「孤独」「劣等感」「抑圧」「恐怖」などをひっくるめたものなのだろう。だから、荒れ地の魔女は、「その呪いは人には話せない」とソフィーに言うのだ。コンプレックスなど、自分の弱い部分は、恥ずかしくて人には話せないのは当然のことだ。だから、ソフィーは、カルシファーにも「こんがらがった呪いだね。この呪いは簡単に解けないね」と言われてしまうのである。

  醜い荒れ地の魔女は、さしずめソフィーの「自己嫌悪」の象徴であると思われる。「自己嫌悪」の力によって、コンプレックスが消せるはずがないから、荒れ地の魔女が、自ら「私は呪いをかけても、解けない魔女なの」とも語るのだろう。逆に、ハウルはソフィーの「自己愛」の象徴であり、ハウルと荒れ地の魔女の闘いは、ソフィーの心の中での「自己愛」と「自己嫌悪」の闘いを視覚化していると考えると分かりやすい。彼らが宿敵でありながら、結局、同じ「城(=ソフィーの心)」の住人になるのは、当然の成り行きなのである。

 ソフィーがかけられた呪いの仕組みはこうだ。ソフィーが、ハウルを愛すれば、「自己肯定」傾向が強くなり、若返る。逆に、荒れ地の魔女が力をつければ、「自己否定」傾向が強くなり、年老いてしまう。だから、ソフィーは別に年寄りになる呪いにかかっている訳ではない。その証拠に、本編では、ソフィー自身も含め、少女と老婆の間で行き来する彼女の変貌に誰も気づく素振りを見せない。年老いたり、若返ったりするのは、彼女の心の状態を表しているだけで、実際には何も変わっていないのだ。だから、観客も「どうして途中で呪いにかかったり解けたりするんだ?!」といちいち混乱せずに観ていればいい。ちなみに、原作では、ソフィーは、荒れ地の魔女の呪いにかけられてから呪いが解けるまで、ずっと老婆のままなので、読者が混乱をきたすことはない。

 本編で、ソフィーが少女に戻るのは、ソフィーが眠っている時と、ハウルへの愛に目覚めた時。睡眠中はストレスから解放され少女に戻る訳だが、それを除けば、初めて彼女が少女になるのは、魔女・サリマンに「ハウルには心がある」とハウルへの愛を語った時だ。しかし、魔女・サリマンに「ハウルに恋しているのね」と言われると、自らの自信に驚いて、ソフィーは再び老婆に戻ってしまう。その夜、魔女・サリマンとの闘いから戻ってきたハウルに「あなたを愛しているの」と告白するソフィーは、当然、少女の姿になっており、「もう遅い」とハウルに言われると、再び老婆に戻ってしまう。それでも、ハウルへの愛に気づき出したソフィーは、翌日には、少女にまで戻れずも、中年の女性の姿になっている。そして、それ以降、ハウルへの愛を深めていくに従って、次第にソフィーは少女の姿へと戻っていくのである。

●ハウルの城で引きこもり

 本作品の前半で、ソフィーは、極度の緊張感から、現実世界から隠れ、妄想世界へと逃げ込んでいく。宮崎監督は、彼女が霧の中に入っていき、さらに「ハウルの城」の中に逃げ込むことで、その過程を視覚的に見せる。ここには、「ハウルの城=ソフィーの心」という暗喩がここには用意されており、ハウルの城の構造が、建て増しの繰り返しで混沌としているのも、ソフィーの心の複雑さを示しているのであろう。また、ソフィーが城の中を掃除していくことは、彼女が自身の心を浄化していくことを見せているのだろう。
 
 この「城=ソフィーの心」という暗喩は、ソフィーとハウルが魔女・サリマン(=現実世界)と対峙した後のくだりを見ると、分かりやすい。ソフィーは、魔女・サリマンの追っ手から逃れることに成功するが、そのとき、城(=ソフィーの心)に飛行艇を突っ込んでしまい、城の一部は壊れてしまう。現実世界と向き合った結果、ソフィーの心が傷つくわけである。しかし、社会性を回復させつつあるソフィーは、その後、自ら「お城(=ソフィーの心)って中から見ると、ガラクタの寄せ集めね」と言って、城の修繕や掃除に励むのだ。

 後半、ソフィーが現実に立ち向かうほどに、「巨大な城→小さな城→二本足の板→半分の板→大破」と、城はどんどん崩れていく。マルクルは崩れた城を見て「お城、空っぽだね」と言うが、ソフィーが、自らの心の殻を破り、一度、心を完全に「無」に戻してから、新たな価値観を身に付けていこうとしているように思えてくる。

 また、ハウルの城に閉じこもる、いわゆる「引きこもり」状態だったソフィーが、カルシファーを城の外へ出すという行為も印象的だ。「城=ソフィーの心」とすると、城の原動力であるカルシファーは、ソフィーの「愛」であり、その彼を外に出すのは、ソフィーが、愛情を外に出すことを意味しているように見える。こうした行為からも、ソフィーの社会性が徐々に高まってきていることが感じられるのだ。


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