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【日本ドラマ】 『僕たちがやりました』 何となくずっと不快。でも、逆にそれがいいのか?

TVerに上がっていた本作、何気なく見始めて、見続けるか迷いながらも完走しました。
現在NetflixやU-NEXTなど他の配信サービスでも見られるようです。

公式ページがなぜか削除されているので、TwitterのTVer公式アカウントの投稿を貼っておきます。

序盤は、おバカ男子高校生たちの軽い青春ものかなと思って見ていたのですが、結果、結構重いものでした。

凡下(ぼけ)高校2年生の増渕トビオ(窪田正孝)、同級生の伊佐美翔(間宮祥太朗)、“マル”こと丸山友貴(葉山奨之)、“パイセン”こと凡下高OBの小坂秀郎(今野浩喜)の4人はそこそこ楽しい生活を送っていた。
ある日マルが、向かいのヤンキーの巣窟として知られる矢波(やば)高の市橋哲人(新田真剣佑)のグループにボコボコにされる。同様の事件が頻発していたこともあり、腹に据えかねたトビオたちは矢波高への復讐を企て、イタズラ半分で小さな爆弾を矢波の校舎にいくつか仕掛ける。
爆弾自体はしょぼいものだったのに、思わぬことからそれがプロパンガスに引火し、10名もの死者を出す大惨事となった。この事実を受け止めきれず、4人は逃亡する。

なんとなくずっと不快

これね、記事タイトルにも書いたように、なんかずっと不快なんですよ。

まず矢波高のヤンキーたちの手当たり次第の暴行が不快。だけど、爆弾仕掛けたくなる気にさせるような奴らだと考えれば、不快なくらいでちょうどいいのかもしれません。

次に、自分たちのせいで10人も死者が出た事件のあとでも、ずっとパイセンが軽い調子なのも不快。でも彼がこういう風に全てを茶化して生きているのも、早くに母を亡くし、父からは捨てられたという背景から、無理もないような気もします。辛いことが多くて現実と直面することができない性格になってしまったのでしょう。

さらにムカつくのがマル。金持ちのパイセンが逃亡用にと各自に配った200万円の、トビオの分までネコババして、熱海で豪遊する。その間トビオはゴミを漁って食べるような生活にまで落ちます。ところが後にいったん逃亡生活に終止符が打たれた時に、トビオはいろんな思いがあるにせよ、結局マルを許すんです。マルの裏切りはこの時だけじゃなく、終盤にまた金を持ち逃げします。マルの所業も不快ですが、それを許しちゃうっていうのも不快。

いったん逃亡生活に終止符が打たれるのは、真犯人と名乗る者が自首するからなのですが、これは裏社会で力を持つパイセンの父(の顧問弁護士)の差し金。このことで一時はほっとする4人ですが、真相を知る刑事に「一生苦しめ」と言われ、自責の念に苦しみ始めます。

耐えきれなくなったトビオは学校の屋上から飛び降りたけれど助かってしまい、それなら、と生まれ変わった気持ちで生きることにします。しかし、しでかしたことをそんなに簡単に忘れることができるはずもなく。この辺りのトビオのから騒ぎ的なキャラと行動が不快。もちろんこのキャラ変も、おかしくなっちゃってるからなのですが。

自首をしてももみ消されるだろうとの予測から、ライブ会場をハックして公開自供をしても、それさえ潰され、パイセンの父の元へパイセンとトビオが拉致される。そこで改めて父の自分への愛の不在を確認したパイセンは、自分をバカにしてくる異母弟を殺してしまう。この展開も、悔しい気持ちは分かるけど、結局さらに人を殺してしまうのか、という…

不快な行動をとる奴が多すぎ、不快な状況が多すぎで、見ているのが苦しくなるんですよ。

それなのになんで最後まで見続けたかというと、結末まで見ないと、この不快感が解消されないまま自分の中に残ってしまいそうだったから。
どんな形であれ決着がつけば、この不快感の解読の道筋を見つけることができると思ったのです。

全編を覆う不快感の意味

こうまで不快だと途中離脱する視聴者も結構いたのではないかと思います。
なにゆえに、ここまで視聴者に不快感を与え続けるのか?

例えば、パイセンが反省して深刻な様子になったり、マルが自分のお金だけを持って細々と地味な逃亡生活を送ったり、トビオが自殺に失敗して暗い顔で日々を過ごしたりしていたら、私たちはたぶん、「まあそうだよね」と思うでしょう。そしてたぶん、それだけ。同じような不快感は感じないでしょう。(そもそも普通過ぎてドラマにならないかもしれない)

ここでちょっと見ておきたいのがイサミの行動です。

それは、被害者の遺族の元へ行き、被害者の友達のフリをして、、、、、、、、、被害者がいかに良い人物であったかを語り、その死を悼んでくる、というもの。友達のフリをするというところが最低ですが、これが彼なりの反省の行動で、しかしそのあと毎回吐いてしまうんですね。
つまりそれはイサミが自身の欺瞞に耐えられないということでしょう。

イサミの様子は4人の中では一番まともに見えるし、とても象徴的です。

いたずら心からやったことが大きな事故につながり、10人もの命を奪ってしまった。このことはなにをどうしても消えない事実です。そんな結果を意図していなかったからこそ、その事実は加害者の心に重くのしかかり続ける。そしてそれは、たまらない不快感(という言い方は被害者への配慮に欠けるかもしれませんが)を加害者のうちにもたらすのです。

この不快感には別名があります。
それは…
“罪悪感”です。(当たり前過ぎますか?)

私たち視聴者がずっと感じ続けている不快感は、それと同じ、というか、それの疑似体験なのではないでしょうか。罪悪感など感じていないかのような、パイセン、マル、トビオの言動を見聞きし、私たちが代わりにそれを感じているのです。意図的にそのように作られたとは考えにくいですが、結果的にそうなっています。

最終話で、爆破とは別に人を殺した罪で10年服役して出所したパイセンがトビオに「お前には今、なにが残ってる?」と問いかけます。トビオの答えは、

「俺は、俺の中に今残ってるのは、ときどき死にたくなる自分です」

それに対しパイセンは、時々死にたくなるのが生きてる証拠や、と言います。

結局、パイセン以外の3人は罪に問われなかったようですが、意図しなかった罪については、たとえ社会的に償うことはできたとしても、罪悪感から解放されることはないのかもしれません。

本作は、“青春逃亡サスペンス”というなんとなく爽やかそうなコピーがついていますが、そもそも爽やかな青春物語なんかじゃないんですよね。
原作は読んでいませんが、少なくともドラマはそうでした。

原作でのラストは、10年後のトビオは“そこそこ”を手に入れていて、でもそれは、いつも「自分で死ぬのは負けだから、誰かに殺してほしい」と願っていたり、「どうしても耐えられなくなったら死ねばいい」という考えの上に成り立っている“そこそこ”であって、物語の冒頭で望んでいたものとは違う、という、形としては首尾呼応した、でも中身はギャップのある終わり方をしているようです。

ドラマはもっと教訓的で、その“そこそこ”さえも手に入れられず、「(死にたいけど)とにかく生きていくしかない」と思うトビオ、という形で終わっています。

形としては原作の方がきれいな気がしますが、テレビではちょっと難しかったのでしょうね。

いずれにせよ、全編に散りばめられた不快感から色々考えさせられることになった本作は、感覚的には不快だったけれどドラマ表現としては良作だったのかもしれません。


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