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メキシコとの出会い

はじめまして。「ciclo (シクロ)」というブランドでメキシコのチョコレートを販売しています。メキシコや世界のチョコレートやカカオの情報をお届けしたいと思い、noteを始めました。なぜチョコレートやカカオに興味を持ったかというと、メキシコが大好きだからです。そして、メキシコに興味を持った理由は、大学時代に短期留学した国がたまたまメキシコだったからです。

メキシコを選んだアメリカの留学時代

私は大学4年間、アメリカに留学していました。それはそれで、ここには書ききれない程の苦しいことや楽しいことが山盛りだったのですが、それを書いているとそれだけで終わってしまうので、ここでは割愛します。当時、仲の良かった友達がスペイン語のクラスをとっていたので、私もとってみようかなという軽い気持ちでクラスを選択しました。

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大学1-2年生の頃は、英語の授業についていけず、悔しい、苦しい想いをする毎日だったのですが、スペイン語はアメリカ人と同じスタートラインに立て、しかも日本語とスペイン語の発音が近いため、スペイン語のクラスだけ、アメリカ人の友達と同等、なんなら私の方が優秀なぐらいでした。

スペイン語の発音は響きが可愛く、ラテン文化もノリが良く、楽しくて、楽しくて、もっと勉強したいと思い、最終的には現地に行ってみよう!という発想になり、短期留学を決めました。今思うと、アメリカに留学して英語もままならないのに、次の国で新しい言語を学ぶなんて、我ながら若さってすごいなと思います(笑)。

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国はどこでも良かったんです。むしろ南米のペルーやボリビアが良いなと思っていました。ただ、私の興味のあるプログラムがたまたまメキシコだったので、まあいっか、という気持ちで選びました。先住民族の文化が最も濃く残り美しい地域であると同時に、最貧地域の一つであるオアハカ州(Oaxaca)で、NGOなどの草の根運動(Grassroots movement)などを学ぶため、2004年、私はメキシコに飛んだのでした。

人生を変えたオアハカでの経験

メキシコでは、草の根運動や資本主義に対するactivism(社会的・政治的変化をもたらすための行動)を中心に、メキシコの伝統や文化などを学ぶために、様々な団体やコミュニティを訪問しました。最後の数ヶ月は個々が選んだプロジェクトのため、それぞれ興味のある地域に住みながら調査しました。

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私はオアハカのGuelatao de Juarezという山間部の村を選び、伝統的な農業とコミュニティのあり方について調べました。その村で、当時1カ月4,500円程の家賃の一部屋を借りていました。お風呂もトイレもキッチンも共同でしたが、快適で、部屋の外にザクロの木があったのを覚えています。その村はオアハカの中心部から車で1時間ほど離れていたのですが、それより更に遠い地域に住む子ども達がその村にある小中学校に行くための寮として使われていたアパートだったので、小さな友達も沢山でき、スペイン語を教えてもらったりもしていました。

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朝起きると、すり潰したトウモロコシから作るトルティーヤを焚き火で焼き、豆のペーストなどと食べる。村を散歩し、道行く人と会話を交わす。隣村の市場まで山を歩いて行き、野菜やランチを調達する。調査のための本を読み、疲れたら昼寝をする。夜は友達の家に招いてもらい、パンやホットチョコレートなどをご馳走になりながら、たわいもない会話をする。

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村に流れるリズムは常にゆっくりで心地良く、私もそのリズムで生活していました。何をするでも急ぐでもなく、自然の中の一人の人間として生きている感覚でした。外国人はもちろん私だけでしたが、村の人たちはいつも温かく優しく、コミュニティの一員のように受け入れてくれました。あの、ゆっくりとした何でもない時間は今思うと本当に貴重で、戻りたくても戻れない時間だなと改めて感謝します。

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その村も貧しい地域ではありましたが、どんなに貧しくても苦しくても、常に明るさを忘れず、過去や未来ではなく「今」を生きる人たちばかりでした。「将来(=未来)のために」と計画し、努力という名のもと我慢したりしてきた私には、発想の転換となる瞬間や出逢いが何度もあり、人生の価値観を考え直させられた時間でもありました。

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その村では、人々は常に助け合いながらコミュニティを形成していて、最初はユートピアのように感じていました。しかし、長い時間を一緒に過ごして見えてきたのは、経済格差と移民問題でした。

移民の問題

資本主義の考えに基づくアメリカとメキシコの貿易協定やその他の政策などが影響し、メキシコの農業を始めとした多くの産業において、労働者は不当に安い賃金で働かされるようになってしまいました。生計を立てることが難しくなり、メキシコからアメリカに移民として働きに出る人は年々増えていました。そして、その多くは非正規移民(undocumented migrants)として命の危険を冒しながら国境を越え、アメリカでも不当な扱いを受けることが多いのが実情でした。その間、もちろん家族は離れ離れです。

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また、移民としてアメリカで「成功」した人達は、自分の村に戻り、大きな一軒家を建て、大きなテレビを買い、といった生活をする人も多く、様々な地域において、コミュニティの中で分断が起きる原因の一つともなっていました。

メキシコでの経験を経てアメリカに戻った私は、メキシコからアメリカに移住した人と友達になることが多く、本当に命を落としてしまった家族の話やアメリカで不当な差別を受けていることを日常的に聞くようになっていました。少しでもその人達の役に立ちたいと思い、卒業後は、アメリカで非正規移民として働いているメキシコの家族とその子どもの教育についての調査員として勤務しながら、難民申請を支援するNGOや移民労働者の法的手続きを支援するNGOでボランティアもしていました。

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その後大学院に行き、論文のテーマには「非正規移民の日雇い労働者の実情とそれを解決するための政策」を選びました。論文の調査も兼ねて、その頃はカリフォルニア州の非正規移民であり日雇い労働者である人たちを支援するNGOで働いていたので、移民大国であるアメリカで実際に起きている差別や不当な扱い、不公平な社会の現状を目の当たりにしました。

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病気になったり怪我をしても病院に行けない、働いた賃金をもらえない(もしくは不当な低賃金で働かされる)、高速道路の途中で置き去りにされる、雇用主から暴力を受ける。ただでさえ厳しい生活や労働環境下にいる移民の人たちは、日常的な差別に苦しんでいました。

そんな状況にあっても、もしくはあるからこそ、いつも明るく前向きで、家族をとても大切にする人が殆どでした。その時は、グアテマラ出身の人が多かったのですが、メキシコに滞在していた時のように、私をコミュニティの一員のように扱ってくれました。プライベートでも一緒に過ごすことが多く、カフェやレストラン、ハイキングやジョギングなど、何でもない日常生活をいつも楽しいものに変える力を持つ人たちでした。

今思い返すと、私がずっと「移民」というテーマに興味を持ってきたのは、やはりオアハカでの経験があったからです。あの素晴らしいコミュニティの素晴らしい人たちが、自ら選び、尊厳のある仕事や生活ができるように。お金だけのために大切な家族と離れ離れにならなくて良いように。ましては命を落とさなくて良いように。移民先のアメリカで不当な扱いや苦しい経験をしないように。そんな想いをずっと持っていました。

17年の想いを経て、やっと。

私に何ができるのか。私は何をしたいのか。2009年、7年ほど住んでいたアメリカから日本に本帰国し、ずっと考えていました。その間、東京で就職し、結婚し、岡山にUターンし、再就職し、3人の娘を出産しました。さらっと書いてしまうと何でもないようだけれど、一つひとつの就職に、結婚に、引っ越しに、妊娠に、出産に、子育てに、それぞれのドラマがありました。よくある言い訳ですが、日々の忙しさにかまけて、考える時間を持てていませんでした。

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2013年に夫婦揃って東京の仕事を辞めました。岡山に戻るまでの3カ月ほどアルゼンチン、メキシコ、アメリカを旅行し、その国々の友達を訪ねていました。ちょうど日本でもBean to Bar (ビーントゥバー)チョコレートが流行り始めていたので、チョコレートやカカオに深くつながりのあるメキシコと、チョコレートを通じて何かできるのではと思っていました。

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2004年に出会った「Universidad de la Tierra」(大地の大学)という団体に行ってみることにしました。当時はスマホもないので、記憶と地図を頼りに、坂だらけの道を迷いながら自転車をこぎ、何とか見つけました。そこでEdiという若い青年に出逢いました。Ediはチョコレートのプロジェクトを始めたばかりでしたが、チョコレートやカカオ、コミュニティのことを色々と話してくれました。まだどんな活動をしていくかが定まっていなかったので、その時は具体的に何も進められませんでしたが「将来何か一緒にできると良いね」と別れました。

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それから岡山に戻り、新しい仕事や子育ての日々を送っていましたが、2021年の三女の育休中、そしてたまたまかもしれないけれどコロナ禍の中、やっぱり私はオアハカが大好きで、オアハカと繋がっていたいと思いました。

そこで連絡したのが、Ediでした。 連絡するとEdiはすぐに返信をくれました。チョコレートのプロジェクトは活動を広げていて、ぜひ一緒に活動したいと言ってくれました。何をどうすれば良いのか、右も左も分からず、8年前に一度出会っただけの人とプロジェクトを始めるなんて無謀のようですが、直感でうまくいくと、この時思ったのを覚えています。

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2004年のオアハカとの出会いから17年経ち、ようやく私がやりたかったオアハカと繋がる「何か」ができると思いました。長くなってしまいましたが、私は元々チョコレートやカカオに興味があったのではなく、メキシコ、その中でもオアハカという地域、移民問題に興味があり、その中で自分ができること、やりたいことを模索する中でチョコレートと出会ったのでした。



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