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正誤判定に覆い隠された心

 自分の判断が間違っているかどうかを決めるのは、結局自分。
 他の人に「間違ってないよ」と言われても、なかなか心から信じられるものでもない。
 むしろ反発しちゃったり。

 いや、そもそも。
 間違っているかどうか、実は、自分の中である程度決まってる。
 その方針に合う言葉は受け入れられて、合わない言葉は受け入れられない。
 「正しいよ」と言われようが、「間違ってるよ」と言われようが。
 そういう仕組みなのかもしれない。

 でも、自分が、誰かが、間違っていると心の奥で思っていても、間違っていないと思いたい。信じたい。伝えたい。
 そういうこともたくさんある。

 こんなとき、複雑。
 間違ってないと言われたいのに、言われたとしてもその言葉を信じきれない。
 間違ってないと伝えたいのに、その言葉を信じてもらえる自信がない。

 八方塞がりだぁ…。



〈……ねぇ〉
 なあに?

〈正誤がすべてなの?〉

 あーーーーーーーーーーーーすごーーーーーーーい。

〈ちょ、ちょっと、どうしたの?〉
 いやぁ、すごいなぁって。
〈どこが?〉
 ひとことで視界が開けたような、そんな気がして。

 うん、そうだよね。
 正誤がすべてじゃないよね。

 正しいか間違ってるかって、ひとつの側面に過ぎない。
 そこに悩みすぎて「自分の気持ちはどうなのか」ってのが見えないでいたら、方針に悩むのも必然。

 そういうことでしょ?
〈うん、まあ、そんな感じ〉
 やっぱさすがだねぇ…。



〈……私、そこまで言ってないし。シャルが自分で考えついたようなものだし。シャルの頭の回転の速さがすごいんだし〉
 ん?なあに?
〈なんでもないよーだ〉

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