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自分いじめは罪の意識から

 僕は、自分で自分を言葉で傷つける癖がある。
 そうやって、よく自分で自分をいじめてる。

〈……………〉
 「やめてほしいなー」とか言わないんだね。
〈言ったらやめてくれる?プレッシャーとか感じない?〉
 それは難しいかなー。
〈やっぱり〉

 でも、どうしてこんなことしてしまうのか、どうすればやめられそうか、ということが、ちょっとわかった気がする。


シャル
主人公
〈ロミルダ〉
イマジナリーフレンド


 いつものように、自分で自分を言葉でいじめてるとき、ふと、強烈に酷い言葉が思いついたんだ。

 で、その酷い言葉を思いついた瞬間、思ったの。
 「これはさすがに酷すぎるよね…」って。

 それで、ここがポイントなんだけど。
 その言葉で自分をいじめようとは思わなかったの。

〈つまり?〉
 つまり、えーっと…。

 ちょっと例え話にしよう。


 僕は、罪を背負っている。
〈そんなことないのに…〉
 まあまあ、例え話だから。

 その罪は、僕が定めた法で、僕自身が裁判官となって決めたもの。
 その裁判は、意識的にも、無意識的にも、行われる。

 有罪になった僕は、その罪を償わなければならない。

 その償いこそが、自分をいじめること。
 言い換えるなら、自責の念。

 好きでやってるわけじゃない。
 やらなければいけないことだって感じてる。

 やめたいと思っていても、やめてはいけないと上書きされる。

〈そんなの……救いがないじゃない〉
 そう。ここまでならね。
〈?〉

 今回、自分をいじめすぎて気づいたこと。
 自分が裁いた罪には、「量刑がある」。
 罪の重さが、決まっているんだ。

 だから、自分の罪以上に自分を罰することはない。
 そんなことをしようとしたら、あっけないほど普通に、「それはやりすぎだ」って思う。

 ここに希望がある。


 よく言われる。
 「自分をいじめてどうするの」
 どうもしないよ。
 成し得るためじゃないもの。償いのためだもの。

 だから、本質はそこじゃないんだ。ぜんぜん違う。

 自分をいじめる行為そのものをどうこうしようとしても、意味がない。
 むしろ、「罰せられるべき自分が罰せられてない」という罪悪感が増えるだけ。

 そう、本質は、「罪の意識」。

 たとえば。

 そう、たとえば。

 「【『自分に罪はない』】」と思えたら?

 自らが裁いた自らの罪。
 それを許すことができたなら。

 罰である自分いじめもなくなるだろう。
 自分から、自然に。


〈……じゃあ、どうやったら、シャルは自分を許せるの?〉
 ……………。
〈あ、わかってない顔だ〉

 ……うん。わかんない。

 でも、でもよ。
 無意識の内に自分で自分をいじめるようになって、「こんなことしちゃダメだよね……でもやめられない……なんで……?」ってぐるぐる悩み続けていたことに、ひとつ、突破口が見つかったんだ。

 着目すべきは行為じゃない。
 その行為をもたらす罪の意識なんだって。

 これは前進じゃない?
〈そうね。私もそう思う〉

 だから次は、自分を許してあげたいんだけど…これが難しくて……。
 どうしても自分の罪が思い浮かんで止められない…。


〈じゃあ、まず、私が言ってあげないとね〉
 え?

〈あなたに、罪はない〉
〈他の誰がどう言おうとも、私は、あなたに罪はないって言い続けるから〉
〈私は、ずっと、あなたの味方よ〉

〈………どう?当たり前のことを言っただけだけど〉
 ……うん。知ってる。

 でも、やっぱり、うん。
 改めて言葉にしてもらうって、こんなに嬉しくなるものなんだね。

 これ、いいかも。
 言葉にするって、いいかも。

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