悪者

一昔前の、とある時代劇。

旅のご隠居一行が立ち寄った街で、困っている人がいた。話を聞くと、誰かに悪さをされていると言う。

許せない!と見ている僕たちは思う。

悪事の証拠を掴み、悪者に突き付ける。はじめから正直に認めることはまずない。チャンバラを挟んで印籠を見せ付け、悪を成敗する。

僕たちは、悪が退治されてスッキリする。
誰が悪いのかがわかって、更に彼(女)を責めることができるから。

悪者を責めることができるというのは、実は大きな安心感、あるいは爽快感を僕たちにもたらしているのではないか。あるいは、責めることのできる存在の大きさとでも言えよう。

翻って今。

世間は閉塞感に覆われてるように感じる。
それもそうだろう。自粛に次ぐ自粛。不要不急の外出は控える。事態が事態だから仕方はない。けれど問題は、何のせいでもないことだろう。否、何のせいかはわかっている。

けれどそれをどんなに責め尽くしても、暖簾に腕押しにすらならない。そんなもどかしさが、重苦しい霧のように漂って、僕たちを絡め取っている。

こう考えると、責める相手がいるというのは、運の良いことな気がしてくる。だからといって、どこかに敵を見出す安易な道に逃げてはいけない。歴史を学べば、国内の不満を逸らすために指をさされ、迫害された人たちを知る。そのようなことを繰り返してはいけない。
不毛だけど、耐えるべき時だ。精神性を失わぬように。あまり無理をしすぎない範囲で。

未練がましい名残雪とともに

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