見出し画像

昭和の記者のしごと⑧鳥屋野潟の田中金脈

第1部第7章 鳥屋野潟の田中金脈問題をどう表現するか

特別企画「鳥屋野潟研究」の放送 


田中角栄元首相が、ロッキード事件の被告として判決が迫る身でありながら、実質的な日本の最高権力者と思われていた1982年(昭和57年)、新潟市の鳥屋野潟の湖底の土地をめぐる田中金脈問題が再び表面化しました。税金で湖を埋め立てて小さくし、田中角栄元首相、すなわち角さんが買い占めた湖底の土地を浮上させる、角さんにしかできない錬金術です。
この時は、前の年に新潟県の鳥屋野潟整備促進協議会がいわゆる換地方式をとって鳥屋野潟の埋め立てを積極的に進めるよう答申したのに加え、田中元首相系の企業が湖底の土地の旧地主120人に買い占めた湖底の土地の移転登記を求めた訴訟を起こしていたことが明るみに出ました。角さんの側がいよいよ湖底の土地をお金に換えるため動き出した、と受け取られたのです。鳥屋野潟の田中金脈問題をどう表現するか
 
当時、新潟のNHKのニュースデスクだった筆者は、この問題をどう表現して県民(視聴者)に伝えたらいいのか、迷いました。何度も取り上げられてきた問題だけに、角さんがもうけるのがけしからん、と言うだけでは県民に訴える力が弱いと考えました。若い記者とも相談の末、湖底の土地の金脈が金になるには湖の埋め立てが必須であることに着目し、いきなり金脈是か非か、ではなく、埋め立て是か非か、と問題を立て直すことにしました。鳥屋野潟がかかえる問題を多角的に取材し、その結果として埋め立て是か非かの答が出ることを目指すことにしました。そうすると、金脈問題への答も自ずから出てくることでしょう。
具鳥屋野潟がかかえる多角的な問題として、
(1)自然の宝庫だがごみの山、という鳥屋野潟の見た目の実態、
(2)地域の治水に鳥屋野潟が果たす役割、
(3)複雑な所有権問題、
(4)その未来、
という4つの小テーマを建てて取材しました。
こうして鳥屋野潟の田中金脈問題の取材は、「どう表現するか」の方向に沿って、「何を取材するか」の方向が決まった、典型的なケースとなりました。
取材結果を特別企画「鳥屋野潟研究」と銘打ち、1982年(昭和57年)3月上旬、夕方のローカルのニュース番組「640」で4日間連続で放送しました。いずれも放送時間は10分近く、ローカルニュースの企画としては異例の大型のものになりました。
 

31人の証言を残した取材記録

 
私の手元に、「取材資料 証言集・鳥屋野潟研究」というB5版、41頁のオフセット印刷のパンフレットが残っています。鳥屋野潟問題で取材した関係者31人のインタビューを「取材記録」として残したものです。証言集という一風変わった取材記録ができたのは、放送そのものが、極力インタビューで構成していったためで、そうなった理由を、取材記録の「まえがき」に当たる部分で次のように説明しています。
「企画のねらいが金脈問題から一歩引いて、鳥屋野潟問題全体を俯瞰してとらえようとするものになったことに対応して、その取材・放送も、主観を排し、徹底して関係者のインタビューで綴ることになった。3年前からローカルニュースの取材にも導入され、今やローカルニュースに“インタビュー時代”を現出させているミニハンディ(小型ビデオカメラ)で取材した関係者は31人で、取材したビデオテープは10時間余りに及ぶ」
そのころまでのテレビのニュースの映像取材はフィルムカメラによる取材が中心。特殊なカメラ以外では、同時に音の取材はできず、ニュースの音の取材はテープレコーダー(“デンスケ〟と呼んでいました)による録音でした。したがって、テレビニュースの取材では、気楽にインタビュー取材、というわけにはいきません。取材後のフィルムの映像とテープの音を組み合わせる編集作業も大変な手間がかかりますから。
ですから、「主観を排し、徹底して関係者のインタビューで綴ることになった」という取材は、タイミングよく進んできた、小型ビデオカメラのテレビニュース取材への導入というイノベーションで可能になったものです。
 

当時もあった権力者への忖度

 
さて、4日間の放送を埋め立て是か非か、対立する意見のインタビューを中心に手短に紹介してみましょう。
初日は「鳥屋野潟 二つの顔」。鳥屋野潟は新幹線の新潟駅からわずか2キロのところに広がる160ヘクタール(東京ドームの約10倍)の湖。自然の宝庫といわれますが、何故か不法投棄のごみの山というのが実態です。
自然の宝庫といわれるゆえんについて、日本白鳥の会の新潟県支部長の本田清さんは、鳥屋野潟はコハクチョウという貴重な白鳥が北海道から島根県の中海まで渡っていくときの中継点になっていると説明しています。
白鳥の会の本田さん「2月だと、800羽くらいのコハクチョウが朝夕乱舞。天然記念物のヒシクイも相当数やって来る」
 ところが鳥屋野潟は、不法投棄のごみの山で、実に汚い。水質も悪い。ゴミは片づければばいいじゃないか、という気がしますが、新潟市に聞くとー、
新潟市の清掃業務課長「春の鳥屋野潟の桜祭りの前にボランティアの市民に清掃をしてもらって、市が車を出して、ごみを運ぶお手伝い(!)をしています」
行政の本来業務のごみの清掃について、「お手伝い」とは何事か。しかも、市の鳥屋野潟の清掃予算は、年間たった130万円ですと!全くやる気がないのですね。
さらに、新潟県の埋め立てについての姿勢はー、
新潟県都市計画課長「鳥屋野潟を県民・市民が憩える都市公園として整備するため、治水上問題がない範囲で埋め立てて陸地を創設し、そこに色々な施設を持ってくる」
当時作られていた県の鳥屋野潟公園計画図によると、鳥屋野潟の湖底を5メートルの深さまで掘り下げ、大部分がヘドロである、浚渫した泥で潟の両側を80ヘクタールにわたって埋め立てるとしています。鳥屋野潟の湖面は半分になってしまうわけです。また埋め立て作業でヘドロが除去されるので、悪化した水質の浄化も期待できるとしています。
何のことはない。新潟県と新潟市は鳥屋野潟は県民・市民の憩いの場にすると言いながら、そのためには埋め立てが必要、というところに話を持っていこうとする。そしてその埋め立て賛成の世論を喚起するため、鳥屋野潟が今、汚れていることが必要だ、というわけです。
まさか角さんが「鳥屋野潟はゴミだらけにしておけ」と命じたわけはないでしょうが、役人の方で先回りをしてごみを使って埋め立てを推進する。今年、2017年の「森友学園問題」では、財務省の役人らが国有地の払い下げをめぐって、権力者の意向を「忖度」して、超安値で払い下げをしたのではないか、と問題になりました。35年前の田中金脈問題でも、役人の「忖度」が横行していたようです。
白鳥の会の本田さん「湖を埋め立てて小さくすれば、渡り鳥も来なくなり自然の宝庫ではなくなる」
また埋め立てが水質浄化につながるという県の主張に対し、鳥屋野潟に詳しい新潟市の建設局の元幹部はこう言います。
新潟市建設局元幹部「鳥屋野潟には新潟東地区の35万人の住民の下水が流れ込んでおり、そのうち処理されているのは4割程度。後の6割の下水を処理するかどうかが浄化の決め手」
ヘドロは下水で汚された結果であって、原因ではない、という極めてまっとうな証言です。

「治水」―貴重な鳥屋野潟の遊水能力


二日目の放送は「治水」。信濃川と小阿賀野川、阿賀野川、それに日本海に囲まれた、新潟東地区の市街地をそっくり含む1万ヘクタールの地区はいわゆるゼロメートル地帯で、地元では輪中地帯と呼びます。鳥屋野潟はその地区の中央にあり、これまで遊水地として治水に大きな役割を果たしてきました。輪中地帯に降る雨を鳥屋野潟に集め、親松排水機場のポンプで、水面が鳥屋野潟より3メートル余り高い信濃川に排水しています。県の埋め立て計画で治水に影響が出ないのでしょうか。
新潟県の河川課長「深さでカバーして鳥屋野潟の遊水能力を確保し、鳥屋野潟の水を信濃川にくみ出すポンプの能力も現在の毎秒60トンにあと60トン増強する」
治水能力は埋め立てに伴って、むしろアップするという主張です。
新潟大学農学部の助教授の専門家の立場からの証言。
助教授「遊水地を狭くして深くすると、容量は変わらないと言ってもポンプを動かした時水位が急激に変わるので、護岸に悪影響が出る恐れがある。ポンプの運転操作も極めてやりにくい」
治水対策上、埋め立てはマイナスであると指摘されたわけです。
 

所有権-田中元首相が所有してから起きた埋め立て問題


三日目の放送は「所有権」。新潟地方法務局の登記簿謄本によると、1982年(昭和57年)2月現在、田中系企業の浦浜開発が湖底のおよそ半分、80ヘクタールを所有しています。鳥屋野潟整備促進協が答申し、今回の金脈問題再浮上のきっかけになった、埋め立てを促進する換地方式というのは、湖底の私有地の所有者に所有面積の10分の1の割合で埋め立てで出来た土地を提供し、湖底の公有地化を図った上で、公園計画を進めるというものです。提供する埋立地は新潟市の市街地に近い一等地の上沼地区で、時価坪20万円と言われ、このとおり土地交換を行うと、田中元首相側は2万4千坪の宅地を得るので、当時の金で、50億円近い利益を得ることになります。
鳥屋野潟の埋め立てを最初に具体的に考えたのは新潟市の不動産業者・T興産の女社長です。この女社長は鳥屋野潟のそばにあった蓮潟(13ヘクタール)の買収と埋め立て、鳥屋野潟のおよそ半分の買収を行いましたが、資金の面倒を見ていたB観光はこれを1961年9月、田中角栄代議士が社長をしていた日本電建に売りました。
この女社長の証言では価格は鳥屋野潟の半分と埋め立て済みの蓮潟であわせて1億8000万円。まもなく蓮潟の埋立地は2億円あまりで新潟県と新潟市に売却されました。田中元首相側は早くも元は取ったわけです。田中元首相側はこのあと、何度か鳥屋野潟の埋め立てを計画しましたが、水害を恐れる農民の反対などで挫折していました。
 金脈を再浮上させた鳥屋野潟整備促進協の会長は川上喜八郎新潟市長です。
川上新潟市長「換地方式をとって開発を促進するよう答申したのは、金脈と言われる状況にいつまでも関わっていては現実的な処理は不可能と考え、金脈問題とは別次元のこととして公園計画を進めようということにした」
川上市長は当時の代表的革新系首長。そういう人がこんな“物分りの良いこと”を言う。当時の新潟県内における田中元首相の政治力の浸透ぶりにいまさらながら驚かされます。
 

金脈是か非か、の前に、埋め立て是か非か


最終日の放送は「その未来」鳥屋野潟の周辺の水田を買い取って公園区域を拡大し、鳥屋野潟を幅100メートルから200メートルの林で取り巻き、その中に市民の散歩道を設ける夢の構想があったことなどを紹介しました。そして新潟市の繁華街で県民に鳥屋野潟の未来について意見を聞きました。10代の女子高校生や20代の男性、30代の女性など全ての世代で埋め立て反対、金脈批判の声が圧倒的でした。
 
「県の埋め立てで鳥屋野潟のああいう形が変わるというのは嫌ですね。あのままの形できれいにしてもらいたいですね」
「新潟は遊び場がないですからね。埋め立てるより、もっときれいにして残しておいた方がいいのじゃないかと思います」
「金脈問題は腑に落ちないって言うのか、恥ずかしいようなねえ、新潟県のそういうのが全国に知れ渡っている、という感じがしますね」
 
君健男新潟県知事はそうした県民の世論に敏感に反応しました。
 
君知事「住民の90%以上の賛成がなければ鳥屋野潟の埋め立てには手をつけません」
 
4日間の放送で、金脈是か非か、の前に、埋め立て是か非か、であることが明瞭になりました。そして埋め立てが非、ならば、金脈は湖底に封じ込められるのです・・・。
 

四半世紀後の鳥屋野潟 埋め立てせず整備進む


 2008年8月、「鳥屋野潟研究」を放送してから四半世紀ぶりに鳥屋野潟を訪ねました。この間、田中金脈の主、田中元首相は1985年(昭和60年)、脳梗塞で倒れて政治活動が不可能になり、1993年(平成5年)、亡くなっています。
驚いたことに鳥屋野潟は新潟市の都市公園としての整備が画期的に進み、かつてのゴミだらけの様相が一変していました。25年前は鳥屋野潟の北側、新潟駅に近い方の湖畔が一部整備され、新潟市営野球場に加えて県立自然科学館が作られていた程度でした。ところが当時はまったく手がつけられていなかった湖の南側に、2002年にワールドカップサッカー大会の会場にもなったサッカーのスタジアムを中心とする大きなスポーツ公園、林のある鳥屋野潟公園などが作られ、さらに新たな県営の野球場の建設が始まっていました。また大きな市立病院も建替えを機に引っ越してきており、一大保養・福祉ゾーンの趣です。うれしいのはそうした施設が埋め立てではなく、周辺の水田を買収して作られていたことです。埋め立てをせずに周辺に公園区域を広げるという夢が実現しつつある!また湖の水質も改善されたらしく、のぞき込むとけっこう深くまで見え、悪臭もありません。
 現場を見た数日後、新潟県庁を訪ね、都市整備課の課長補佐ら3人から鳥屋野潟の現状を聞きました。(1)この25年間、鳥屋野潟の埋め立ては全く行われていない(2)関係行政機関の話し合いで、換地方式で湖底の公有化を進めるのはやめ、買収方式を取ることを決定。しかしその後、買収はまったく行っていない(3)2000年(平成12年)に鳥屋野潟287.4ヘクタール(内水面152ヘクタール)について都市公園計画決定がなされ、鳥屋野潟の湖面はそのまま保全されることになった。埋め立てが行われないことが法的にも確定した(4)水質は弁天橋付近で1977年(昭和52年)COD(化学的酸素要求量)が環境基準5PPMに対し、15.6PPMだったが、その後劇的に改善し、2002年(平成14年)には環境基準をクリアーした。周辺に下水道が普及し、きれいな水でフラッシングしたことによる、ということでした。
 

金脈問題の桎梏から脱し、魅力ある都市公園へ


 治水では1998年(平成10年)8月、新潟市で約9000棟が床上床下浸水する大水害に見舞われたこともあって、鳥屋野潟から信濃川への排水路を拡大し、これまでの県の毎秒60トンの排水ポンプに加え、国が40トンのポンプを増設、2005年(平成17年)に完工しました。
当面、湖に沿って一周できる道路の整備が計画されているということでしたが、周辺の利用だけでなく、大きな湖面そのものを県民・市民が楽しめる工夫―淡水魚の釣り船を走らせるとかーが、これからの課題ということです。鳥屋野潟は金脈問題の桎梏からようやく脱し、さらに魅力ある都市公園へと大きく飛翔しようとしていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?