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僕たちが人を愛することを取り戻すにはどうすればいいんだろうか?②

愛を育むことを阻害する要因を考えるための補助線

僕たちは相手からの返答を予期できる可能性の幅に収まるものだと思って生きている。
それを社会学では「コミュニケーションの予期可能性」と言ったりする。
相手からの返答が予期しにくい / できないところでは人は社会生活を送れない。
当然だよね、だって、相手に何言われるかわからない、つまり、会話の先が見えないとそもそも他人と話すときに安心できない。
つまり、コミュニケーションを考えるとき(故に、愛について考えるときも)、予期可能性が問題になってくるわけではある。
前回の男子が女子の「道具性」に反射しているだけという箇所で言及した、「機能的である」という概念はそもそもこの予期可能性を前提とする発想なのだ。

もう一つ、補助線を。
ゲシュタルト心理学では人はある一定の幅を持って世の中を認識していると考える。
ゲシュタルト崩壊というワードはこのゲシュタルト心理学の概念な訳だが、僕たちは世界をありのままに見ることはできず、グラサンをかけて見ていて、そのグラサンが外れてしまうとき、ゲシュタルトは崩壊するよということである。

誰しもグラサンはかけているのだが、そのグラサンがどんなグラサンかを考えたのがゲシュタルト心理学。
以下のように点を並べたときを考えよう。

A ・・・・・

B ・ ・ ・ ・ ・

C ・   ・   ・   ・   ・

D ・         ・          ・         ・

ABCDのパターンのうち、Cまでは一定の規則性を持って並べられていると全員に同意してもらえるだろう。
ただ、これらは単に点の羅列でしかない。つまり、点をパターンとして認識しているのは僕たちの脳であり、世界に僕たちの思う姿で存在しているわけではないのだ。

また、Dが一つの点の群であるかどうかは個々人によって感じ方が違う。
Dを一定の規則を持って並べられていると感じることができる人もいれば、できない人もいる。

このように、僕たちは「点を並べただけでしかないもの」に「一定のパターン」を見出してしまう生き物だということ、人間のパターン把握には個人差があるとわかっているのだ。

以上の2点、予期可能性とゲシュタルト心理学を補助線としながら、愛を育む過程での挫折を考えてみたい。

愛を育む過程の挫折

さて、今回の本題は「好き」の時点で挫折している僕たちの恋愛は、「愛」の時点でまた挫折するっていう話だ。
こうなってくると、どれだけの世の中のカップルが「愛し合う」まで到達しているのか甚だ疑問だ。
だが、僕たちは今の時代にこそ、本当の意味の愛を知らなければならない。

愛とはなんだろう

第一回では月9的世界観とでも言える、愛の形をイメージしてもらったが、実はそんなものは愛ではないわけだ。
そもそも、僕たちは、親から受けた愛情の形、青春時代に慣れ親しんだ愛のストーリーなどを元に愛を考えている。
その愛情、ストーリー自体がグズグズなら僕たちの愛の形も歪んでいくこと必至。
では、どんなものが愛なのか、考えよう。

まず、愛しているための必要十分条件は以下の3つだ。

1、無目的であり、

2、予期可能性を超えている振る舞いに対して誠実であり、

3、それらを止められてもやりたいと思えること

つまり、愛とは、無目的に、相手が自分の予期した幅の振る舞いをしなかったとしても、関係なく継続したいという姿勢を指すのだ。
これのうち、一つでも欠ければ、それを愛と呼ぶことはできない。
赤子をあやす母の精神性はこれを率直に表していると思うので、例に挙げて考えてみたい。

赤子をあやすことに目的などない。ただ、母親は赤子がただそこに在ることに焦点があり、これからどうなるのか、に対してはなんの興味関心を持っていない。
これは「道具性」の概念に対して、因果関係の外にあることも同時に示唆している。
そもそも、因果関係とは、時系列で起こる複数の出来事に対して、その時系列の中に一定のパターンを見出す、つまり、ゲシュタルトを構築する認知的な動きが元になっている。

因果関係を考えることは一定の知的訓練を受けてきた人たちにとってみれば日常、無思考に行われる認知的活動な訳だ。
しかし、これもまた僕たちの脳が作り上げている抽象的なパターンでしかない。
つまり、そこになんの客観性もない(科学宇宙/世界での客観性とは違う、神の視点での正しさを指す)し、極論、因果関係が把握できたところで僕たちの幸福や本質的な豊かさにはなんの影響も与えないのだ。
因果関係を把握する能力が高くて得られるのは、せいぜい金ぐらい。

同様に、赤子が急に泣き出すことも、寝ることも、はたまた笑い出すことも全ては赤子に委ねられている選択であり、ここであげた3つの予期できる可能性を仮に超えていたとしても母は赤子を愛せないと匙を投げたりはしない。
(匙を投げてしまう母親もいるが、それは愛しているとは言えない。かといって、育児放棄(ネグレクト)を批判したいわけではない。また、同時に育児放棄された子どもの立場からも、母親を責めることはなんの解決にもならない。後述するが、愛を知らないことは罪ではないのだ)

そして、それらのことを母親は止められても、赤子を取り上げられてもそうしたいと望むだろう。

この過程を他愛の精神とか、他人のためになることをすることは正しいなどと言い換えることはできないことも愛を知る上では重要である。
なぜなら、それらを積極的に自分の中に取り入れ、実践しようとする過程は実に「有目的的」であるからだ。
なぜ、他人のためになることをしなければならないのか。
自分が得をするから?そうしないと自分を受け入れてもらえないから?マゾヒズム的に快感を得るため?
そうなのだとすれば、愛は一定の目的があるから取り入れられているに過ぎない。
これは、アリストテレスの徳、カントの動機の正当性、ニーチェの復讐感情(ルサンチマン)にも通ずる自己に対しての疑念である。

果たして自分は結果を求めて愛しているのか?

それとも自分がそうしたいから愛しているのか?

さてどうだろう。

ある大学生がこんなことを言っていた。

「〇〇することはメリットがある」と思わないと行動できない

それは愛ではない。
何か返ってくるからそれをするのであれば、因果関係の呪縛からは解き放たれない。
それは釈迦のいう毒矢の例えを前提にした、最高善を希求する精神性の先にしか愛はないという真理から逃れようもないのだ。
その男の子はこう続ける。

でも、何か足りないような気がしてずっと探しています

愛の正体がわかったところでどうすればいいのか

じゃあ、3点をおさえて行動すれば愛を知ることができ、自分は幸せになることができるのか。

残念ながらそれはできない。
なぜなら、自分が幸せになるために誰かを愛しているに過ぎないからだ。

これほどに無目的というのは難しい。
簡単に無目的に他人を思うことなどできないのだ。
言うなれば、愛することとは概念ではなく、体験質(クオリア)なのだ。
やってみないとわからないし、やってもらったことがないとわからない。
そもそも、愛を知りたいと思う動機ですら汚染されている。
こんな状況で僕たちは人を愛し合うことなどできようもないのかもしれない。

人生に明確な処方箋などない。
これは僕が尊敬するある人の言葉だが、それをやはり思い出す必要があるのではないだろうか。

愛することができないことは罪ではない。
環境が、周りが愛を教えてこなかったから、あなたは愛を知ることから遠ざかっていたんだ。
愛してくれなかった母親や恋人、誰もが自分の成果や結果にしか興味がないような職場、常に相手の目を気にして結果を気にしてそれに最適化することしか術を知らない自分自身。
そんなものに失望し、でも生きていくしかない煉獄に僕たちは生きているのかもしれない。
でも、理性的には君は今、愛の断片を見ることはできている、いや、そう願っている。
僕たちが愛を取り戻すために、まずは無目的に友達と酒を交わすことからはじめたいと思う平日の午後。

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