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時を越えた瞬間の記録【アヌシー】

2017.12.22 France, Annecy

「コーヒーの音楽をしっかりと聴くんだ。それが火を止める合図だよ」。

数日前にイタリアで買った、BIALETTI(ビアレッティ)の直火式エスプレッソマシン。使い方を知らないわたしに早速使ってみようと声をかけ、嬉しそうな表情をするひとがいた。学生用レジデンスの共同キッチンに移動して、直火で新品のマシンをセットするとそのひとは真剣な顔をしてこういう。耳をすますんだ、コーヒーの音楽が聞こえてくるから。それが火を止める合図だよ。やさしく指南をする声、はじめての美味しいエスプレッソの淹れ方を教えてくれたひとの姿をどうして忘れることができようか。

濃厚なコーヒーを淹れるたびに漂う苦い香り、こぽこぽと上昇するやわらかな低音、器具の重さと高温の熱量。水を入れる、コーヒー豆を入れる、火にかけるといった単純作業でありながら欠くことのできないひとつひとつの大切な儀式を通して淹れるエスプレッソに、そのひとの存在が組み込まれたのは計算外だった。ヨーロッパで飲むエスプレッソが美味しいからとマシンを購入したものの、どのように使えばいいかも分からず、説明書を読めば全ては上手くいくだろうという想像も軽々と超える、生身の人間との経験が記憶にこびりついた。

「使うほどに味は丸くなるんだ。だから丁寧に手入れをしなくてはいけないよ」。こぽこぽ、小さな口から蒸気が吹き出し小さなキッチンで美しい音楽が鳴り響く。その瞬間に立ち会った観客は、わたしたちたったふたりだけ。

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