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オルガ・トカルチュク著「昼の家、夜の家」を泣きながら読む。

小説を読む意味ってなんだろう。

それはとても非生産的で効率が悪くてむしろ時間の無駄だと思われるかもしれない。ある人はこう言っていた。「小説は他人の空想。そんなもの限られた自分の時間で読む必要はない」と。でも、出会うべき一冊に出会ってしまったなら彼・彼女の人生にとってその作品と出会えた価値はかけがえがなくて、物語を通じて得た経験は生産的だし、効率的だし、むしろ誰よりも時間を有効に使ったと感じられるはずだ。

この本は境界のゆらぎを生きてきた人たちの物語。いつかは失われてしまう時間の流れを淡々と書き留められた記録。知名度のないポーランドの片田舎、ノヴァ・ルダの景色。チェコとの国境ちかくのちいさな街、越境する人のすがた。

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冒頭のエピソードをひとつ何気なく読みはじめると、その文体の強さにすぐさま心を引っ張られる。短く区切られる文章と、それでいて幻想性をかもしだす叙情。ほかのどの作品にも感じたことのない“言葉を追いかけることの喜び”が、ここにある。そして、ああ、わたしもこういう文体を求めていたんだな、と湧き上がるような感動がじわじわと胸に押し寄せる。

物語のなかにある一節に心を動かされたのではない。文章からにあふれだす、押し止めようとしても情緒がこぼれおちてしまうような言葉の羅列に神々しさを感じたのだ。言葉は、全身を通じてすがすがしく通り抜ける。

Ego dormio cum ego vigilat. (眠っていても、わたしの心は目覚めていました) p.174
全体から削り取られた一部分でありながら、全体を記憶していること。死ぬために創られたのに、生きなければならないこと。殺されているのに、生かされていること。魂を持つとは、まさにそういうことだ。 p.264
ある年齢になりたいのではなくて、わたしが言っているのは、ある生き方なのだ。ああいう生き方は、たぶん、歳をとったときにだけできるのだ。何も行動しないこと。あるいは、なにかするにしても、急がないこと。あたかも結果は重要でないかのように。動きそのもの、リズムそのもの、動きのメロディが大切なのだ。時間の波を観察しながら、ゆっくり、滑るようにして動くこと。もうその波のうえで、流れに乗って泳ぐことも、逆らって泳ぐこともしない。時間を無視すること。... p.313

記述された文字を追いかけると、強烈な郷愁、なつかしさがある。まったく知らない土地の話であるにもかかわらず、自分がそこにいたかのような感覚を抱き、日々の経過に対する無常に激しく心を揺さぶられ、しまいにわたしは泣いた。じんわり湧き上がるなんて可愛いものではなくて、ぽろぽろと、せき止めることなど不可能な、ただただこの世界を愛おしむような気持ちで、泣いた。悲しい感情ではない、身体が心が反応しただけだった。

そして終盤にかけてひたすら心の赴くままに涙を流した。目頭から溢れるあつい雫は、機械的に、胸元のシャツにぽたぽたと落ちた。

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あらためて、考える。なぜわたしは小説を読むのだろう。

この物語を知る自分と知らない自分なら、間違いなく知る自分を選択する。物語が自分自身のなにかの意思決定の礎となっているのかはわからないが、ただこの作品を読むことで、少しでも優しくなれる気はする。越境する誰かに対して、あるいはいつかは失われる世界に対して。あたたかい眼差しを向けられる、そもそも越境して小さな片田舎に住んでいたのはまぎれもなくわたし自身だったのかもしれないのだから。

海外文学に触れる人が少なくなっている中でも、こういう作品が存在してくれることが嬉しくてたまらない。ただの物語を越えて、こころの奥底にある郷愁を感じさせること。「海外文学」ではなくこれこそ世界のために存在する、「世界文学」であると声を大にして伝えたい。オルガ・トカルチュク著「昼の家、夜の家」を、泣きながら読んだ。

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